7月3日はこのブログの定点観測の日だ。
さすがに最近更新にバラツキが出てきた。
では「過ぎし一年(2015.7-2016.6)」を振り返ってみよう。
①(礼拝案内を除いた)投稿数
(ほぼ)90は前年比-10くらいだろうか。
実感としてもそんな感じはあった。
このまま斬減しながらフェードアウトしていくのだろうか・・・。
②総ページビュー
182,000を越えたところ。
月平均で2,360、前年比-100くらいだろうか。
③この1年での人気投稿、ベスト3
もうダントツでトランプ関連記事ですね・・・
(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続1)
(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教
(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続2)
これじゃちょっと面白くないので、選外となりますがよく読まれた方の記事を一つ挙げておきます。
(3)涙とともに種を蒔く者
では読者の皆さん。すぐる一年のご愛顧ありがとうございました。
また新たな一年も順調に続くようでしたら、よろしくお願いします。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2016年7月3日日曜日
2016年7月2日土曜日
(3)藤本満『聖書信仰』ノート、3
「1 宗教改革」(24-31ページ)
『福音』と『体験』と『聖書』
恐らく「体験主義キリスト教(そうこの段階で呼んでよければ)」のルーツは、宗教改革者の時代の後、いわゆる正統主義の強調(どちらかというと正しい教理に対する知的承認を信仰の優先事項とした)に対して「敬虔の生活を力動させる心」を強調した敬虔主義の流れがより明瞭なものではないかと思う。
敬虔主義の聖書に対するアプローチは(正統主義が聖書を教理の源泉とするのに対し)、「キリスト者としての成長」や「敬虔の生活(デボーショナルも含む)」の「霊的糧」という面が強くなったのではないかと思う。
この流れで後々重要になってくるのは「福音体験」にしろ、「キリスト者の成長」にしろ、「個人的」「主観的」ものの見方が中心になってくる傾向だ。
上記引用での強調部分は、
(1)権威の問題・・・教皇・教会の伝統
(2)「恵の手段」・・・サクラメント
に相当するわけだが、ルター個人の経験が端的に物語るように「個人の信仰・良心」対「制度的教会の権威」の図式になったことにより、宗教改革諸派は「反・ヒエラルキーな権威・権力」を志向することになり、「職制」や「聖典」の問題を制度的な(より外面的な)教会の問題と認識するようになって行ったと思われる。
「キリスト者の成長」にしろ、「教会の形成・構成原則」にしろ、「聖書解釈に対するアプローチ」にしろ、「伝道方法や対象」にしろ、個人が物事を動かす基準に移行して行くのは、ある意味カトリック教会に対する反動としての面もあることは否めないだろう。(注2)
聖書の言葉の明瞭性の根拠は?
この問題についてはいずれもう少し取り扱うことにもなるだろうが、どう控え目に言っても「一筋縄では行かない」ものだといっていいだろう。
(実際上、この問題は聖書を奉じ且つ読むクリスチャン誰もが多かれ少なかれ感じているだろうと思う。「誰もが聖書を読める」幸いな状況は、誰もが聖書のテクストの意味を巡って対立したり論争したりできる状況をも発生させる。そしてプロテスタントの場合それらを調停する手段は制度的・機構的に弱いと見られても致し方ないだろう。もちろん民主的なルールに希望を持っているわけであるが。)
(次回に続く)
注1・・・「ウェスレアン・アルミニアン」とも「アルミニアン・ウェスレアン」ともいう。両方の言い方があって、多分多少のニュアンスの違いがあるだろう。
注2・・・スコット・マクナイト『福音の再発見』1章に短く書かれている(17-8ページくらい)、バプテスト信者であったスコットの自伝的エピソードを参考にしてみてください。バプテストはある面「個人原理」を徹底し、また「聖書」以外に「信条」や「神学」は無用・・・みたいな方に行ったようです。
『福音』と『体験』と『聖書』
この福音の個人的体験は、信仰義認にとどまらない。宗教改革者たちはいずれも、キリスト者としてどのように生きるべきかを、ローマ教皇の教えでも教会の伝統によるのでもなく、サクラメントの秘儀の中においてでもなく、聖書から直接に学んでいった。筆者はウェスレアン・アルミニアン(注1)の流れに育ったので「福音とは体験するものだ」式なレールの上で育った。
・・・こうして聖書は、キリストの福音を体験し、福音に生きるための神の言葉としてとらえられていく。
恐らく「体験主義キリスト教(そうこの段階で呼んでよければ)」のルーツは、宗教改革者の時代の後、いわゆる正統主義の強調(どちらかというと正しい教理に対する知的承認を信仰の優先事項とした)に対して「敬虔の生活を力動させる心」を強調した敬虔主義の流れがより明瞭なものではないかと思う。
敬虔主義の聖書に対するアプローチは(正統主義が聖書を教理の源泉とするのに対し)、「キリスト者としての成長」や「敬虔の生活(デボーショナルも含む)」の「霊的糧」という面が強くなったのではないかと思う。
この流れで後々重要になってくるのは「福音体験」にしろ、「キリスト者の成長」にしろ、「個人的」「主観的」ものの見方が中心になってくる傾向だ。
上記引用での強調部分は、
(1)権威の問題・・・教皇・教会の伝統
(2)「恵の手段」・・・サクラメント
に相当するわけだが、ルター個人の経験が端的に物語るように「個人の信仰・良心」対「制度的教会の権威」の図式になったことにより、宗教改革諸派は「反・ヒエラルキーな権威・権力」を志向することになり、「職制」や「聖典」の問題を制度的な(より外面的な)教会の問題と認識するようになって行ったと思われる。
「キリスト者の成長」にしろ、「教会の形成・構成原則」にしろ、「聖書解釈に対するアプローチ」にしろ、「伝道方法や対象」にしろ、個人が物事を動かす基準に移行して行くのは、ある意味カトリック教会に対する反動としての面もあることは否めないだろう。(注2)
聖書の言葉の明瞭性の根拠は?
さらにブロミリーは、宗教改革者たちの聖書観には、神のメッセージが人間的なものの中で、・・・つまり彼らは、聖書の大部分は明瞭でわかりやすい言葉であり、それはドイツ語にも英語にも、また日本語にも翻訳し得ると考えた。こちらの引用に関連する問題は、宗教改革の「聖書のみ(sola scriptura)」 原則が、実際上機能するために必要な「聖書解釈上」の要件である「聖書テクストの意味の明瞭性(plain sense, clarity, perpiscuity)」に関わるだろう。
この問題についてはいずれもう少し取り扱うことにもなるだろうが、どう控え目に言っても「一筋縄では行かない」ものだといっていいだろう。
(実際上、この問題は聖書を奉じ且つ読むクリスチャン誰もが多かれ少なかれ感じているだろうと思う。「誰もが聖書を読める」幸いな状況は、誰もが聖書のテクストの意味を巡って対立したり論争したりできる状況をも発生させる。そしてプロテスタントの場合それらを調停する手段は制度的・機構的に弱いと見られても致し方ないだろう。もちろん民主的なルールに希望を持っているわけであるが。)
(次回に続く)
注1・・・「ウェスレアン・アルミニアン」とも「アルミニアン・ウェスレアン」ともいう。両方の言い方があって、多分多少のニュアンスの違いがあるだろう。
注2・・・スコット・マクナイト『福音の再発見』1章に短く書かれている(17-8ページくらい)、バプテスト信者であったスコットの自伝的エピソードを参考にしてみてください。バプテストはある面「個人原理」を徹底し、また「聖書」以外に「信条」や「神学」は無用・・・みたいな方に行ったようです。
2016年7月1日金曜日
今日のツイート 2016/7/1
日本でも「聖書」を題材にした「カードゲーム」が出来ましたが、アメリカの方ではゾンダーヴァン社が「神学者」のトレーディング・カードを「教会史を楽しく学べます」と売り出しています。
MH氏は「ざーっとキリスト教の歴史を並べながら勉強するのには、とっても便利。自分は興味しんしんだけど、このカード上にない神学者がいても怒らないように。」と紹介とコメントをしています。
それと比較するとこれは「現代の神学者」版かな・・・。
MH氏は「ざーっとキリスト教の歴史を並べながら勉強するのには、とっても便利。自分は興味しんしんだけど、このカード上にない神学者がいても怒らないように。」と紹介とコメントをしています。
それと比較するとこれは「現代の神学者」版かな・・・。
Get your #Cobb @HomebrewedXnty trading card at @WildGooseFest . A different card for each HBC session! pic.twitter.com/KIpIWbeGh4— Theology Nerd (@HomebrewedXnty) 2016年6月29日
2016年6月26日日曜日
今日の(連)ツイート 2016/6/26
多分ミッション系の大学生の方のものだと思いますが・・・。
※「キリスト教」として教えられていることはどんな説かは何となく想像つくが・・・。
授業(宗教学(キリスト教))が滑稽過ぎて泣ける。何がパウロの信仰義認が復活信仰だ。何が生前の概念的理解から死後の主体的理解による信仰の目覚めが復活信仰だ。キリストの復活の奇跡を否定したら世界宗教になった理由が述べられないだろ。— 眠りの国の眠りねずみ (@daybreaksbell00) 2016年6月22日
これが一般的な理解で、且つ学門の分野で語られる限界だと言うのなら、なんて情けない話だろう。— 眠りの国の眠りねずみ (@daybreaksbell00) 2016年6月22日
90分無駄にした— 眠りの国の眠りねずみ (@daybreaksbell00) 2016年6月22日
あーでも、教師の片隅にも置けないキリスト教を扱う某自己満教師の授業の方がずっと時間の無駄でしたね。— 眠りの国の眠りねずみ (@daybreaksbell00) 2016年6月22日
※「キリスト教」として教えられていることはどんな説かは何となく想像つくが・・・。
(3)藤本満『聖書信仰』ノート、2
「はじめに」(12-21ページ)
『福音派』か『福音主義』か
12ページの最初で、「福音主義(エヴァンジェリカリズム)、福音派(エヴァンジェリカルズ)とは、キリスト教のどのような考え方やどのグループを指すのであろうか。」とあるように
理由は(おそらく)、「福音派」があたかも「一つの教派」であるかのように思われたり、(あるいは)このグループが「一枚岩」的のように取られたりするのに対し、そうではなく「福音派」は多様な幅を持っていることを示したかったから・・・ということになるのだろう。
初っ端から細かな話で申し訳なかったが、用語の整理に関してちょっと気になったことをコメントしてみた。
本書が「聖書信仰」を主題とし、その「・・・福音主義の聖書理解を歴史的な流れにそって検証する・・・」(16ページ)とあるので、「宗教改革」から派生する諸グループ・運動を「福音主義」という同一用語でより広く捉えよう(捉えたい)とする試みとして理解し、共鳴・共感したいと思う。
(次回に続く)
『福音派』か『福音主義』か
そこで本書において、私は「福音派」という二十世紀の枠付けの強い、あたかもそういう教派が存在するかのような呼び方をなるべく避けようと思う。二十世紀のエヴァンジエリカリズムを「福音伝道主義」と的確に訳しているケースもあるが、本書では「福音主義」を多用する。そのとき、宗教改革がベースにあることも心するが、筆者はむしろベビントンのように十八世紀から現代に至る、教派を超えた霊的流れを意識していると、鷹揚にとらえていただきたい。(14ページ)おそらく二刷目以降で既に改まっていると思うが、「日本の福音主義が南アフリカのオランダ改革派教会のデイヴィッド・ボッシュ・・・」(274ページ)の「福音主義」はこの文章の主語としては、「福音主義者」か「福音派」とあるべきところを「福音主義」としたところに、最初の段階で用語の選択に逡巡した影響が出ているのかもしれない。
12ページの最初で、「福音主義(エヴァンジェリカリズム)、福音派(エヴァンジェリカルズ)とは、キリスト教のどのような考え方やどのグループを指すのであろうか。」とあるように
Evangelicalism・・・福音主義・・・考え方と使い分けはなされているので、問題は「福音主義を標榜するグループや個人」に対応する用語として「福音派」を使うのに気が進まなかった、ということになるのだろう。
Evangelicals ・・・福音派・・・グループ
理由は(おそらく)、「福音派」があたかも「一つの教派」であるかのように思われたり、(あるいは)このグループが「一枚岩」的のように取られたりするのに対し、そうではなく「福音派」は多様な幅を持っていることを示したかったから・・・ということになるのだろう。
初っ端から細かな話で申し訳なかったが、用語の整理に関してちょっと気になったことをコメントしてみた。
本書が「聖書信仰」を主題とし、その「・・・福音主義の聖書理解を歴史的な流れにそって検証する・・・」(16ページ)とあるので、「宗教改革」から派生する諸グループ・運動を「福音主義」という同一用語でより広く捉えよう(捉えたい)とする試みとして理解し、共鳴・共感したいと思う。
(次回に続く)
2016年6月25日土曜日
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