2016年8月2日火曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、5

「3 敬虔主義と信仰復興運動」(45-57ページ)

今回の部分は筆者にとっては自派(ホーリネス・メソジスト)と深い関わりがある時期なので、前回とは逆にかなりファミリアリティーがあり読んでいてもほとんど違和感はない。

(1)敬虔主義

本書では先に福音主義・ウェスレーが紹介されているが)17世紀の「プロテスタント正統主義」との関係で次のように説明されている。
ドイツ敬虔主義の父と言われるシュペーナーは、プロテスタント信条・信仰告白に対抗して、あらためて聖書を掲げた。聖書は、教理・教条の源ではなく、信仰者の霊性と生活の源となるべきである。教条主義の中で、神の御言葉は聖霊と信仰体験から離れて、知性のために読まれるようになり、御言葉の生ける力が失われていったという。(52)
ここから引き出される「対立図式」は以下のようになる。
「信条・信仰告白」「聖書(のテクストそのもの)」
(聖書の主たる目的)「教理・教条の源」「霊性と生活の源」
(聖書の読まれ方)「知性的」「ハート」
(2)福音主義・ウェスレー

 ここでの注目点はウェスレーの福音的回心体験にみられる(頭の知に対して)「心の知」、そしてそれは「個人的に体験される」ものとしての(聖書の)福音のメッセージである。

(3)信仰復興運動

 ここでの注目点は(制度的)教会の内外に「個人的に体験される福音」を語る情熱とそれを支える革新的手段(パンフレット大量印刷・大衆伝道)の採用である。

 そしてそのバックストーリーとしての制度的教会の時代に対する硬直性であろう。教派信条はこちらに整理される。


(感想)
17世紀から18世紀へと西洋キリスト教が、社会の変化に対応して起こした「一つの進展」として「敬虔主義・信仰復興運動」は捉えられるのではないか。

上記に掲げた「対立の図式」で二分された要素は必ずしも二者択一であった必要はなく、却って相互補完的な関係と捉えられるかもしれない。


以上かなり宙ぶらりん状態のまとめで今回は終わることにする。


(次回に続く)

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