Why in English?
Well, there is no convincing reason why we have to make our blog entry in English. The intended readership of our blog is limited to Japanese.
Is it really?
Actually, when most Japanese people say "Japanese, " they mean ethnic Japanese.
In other words, by more or less exclusively using the term, they almost unintentionally forget about the fact that it is really defined by nationality, or citizenship.
I always wondered like when a plane crashed, a Japanese reporter might say "there seems no Japanese on board the plane."
How can you tell? By looking at the list of passengers and finding no Japanese-sounding names?
Have they thought about there are many Japanese citizens with non-Japanese names?
This is one example of how we are naive about using the term "Japanese."
What I want to say is that there may be a readership of Japanese blogs whose native language is not Japanese.
That readership should be so tiny that we may not think about it at all.
At any rate, the net browser offers translation tools if they need.
Now, when I started Twitter, I thought I'd tweet in English occasionally so that my twitter wonderland may become more interesting, being connected with English users all over the world. My expectation is being realized somewhat.
Let's come back to the language barrier problem that we Japanese are habitually setting up ourselves.
We inadvertently shut ourselves up and limit the extent of communication, so we think, within Japanese(-speaking) twitterers, bloggers, etc., if we hold fast to the naive idea of the Japanese as exclusively ethnic and Japanese-speaking people.
This way of thinking is not healthy in the present hugely enlarging internet world. It's basically cosmopolitan, multicultural, multilingual, inter-faiths communities including atheists.
Even though we write in Japanese, we should be aware that our readership, potentially at least, is this entire internet community. (I'm half serious saying that!)
Recently, it is reported that Japanese top selling internet retail company, Rakuten, decided to make English the language to be used in the company from top to bottom as long as there's one non-native Japanese present in a meeting room.
A bold step! But in the business world, a company intending to have world-wide presence, the choice is not so outrageous. It's just that it sounds outrageous to Japanese employees.
Now our first entry in English is to show we are here to engage with people of all languages. But we expect that to have real communication both have to do their part in overcoming the language barrier. (I do not mean the English language alone solves the problem, though it helps to clear it immensely.)
We tried to show a tiny bit of effort.
Hope someone somewhere gets the message.
Tomorrow, we'll go back to Japanese.
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2010年8月8日日曜日
2010年8月7日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
8月8日(日)、午前10時30分より
ヘブル書の学び(14)
聖書箇所 ヘブル人への手紙 2:14-15
説 教 題 「受肉の目的‐キリストの死・人々の解放」
説 教 小嶋彬夫牧師
※礼拝は一時間くらいです。
※礼拝後、「食の日」はおやすみします。『食の日募金』もお休みとします。
8月8日(日)、午前10時30分より
ヘブル書の学び(14)
聖書箇所 ヘブル人への手紙 2:14-15
説 教 題 「受肉の目的‐キリストの死・人々の解放」
説 教 小嶋彬夫牧師
※礼拝は一時間くらいです。
※礼拝後、「食の日」はおやすみします。『食の日募金』もお休みとします。
2010年8月6日金曜日
N.T.ライト、翻訳論文
N.T.ライトの翻訳論文、第6本目となる『初期伝承とキリスト教起源』をアップしました。
初期伝承とキリスト教起源
N.T.ライトの「紹介・入門」については以下をクリック。
http://www014.upp.so-net.ne.jp/NTW-dokushokai/introindex.htm
決して読み易くない英文を難儀しながら訳しました。拙い訳なので読みにくいかと思いますが、読んだだけの益は必ずあると思います。
日本においてはまだまだ知名度が低いのですが、英語で読む方々も結構増えてきているのではないかと推察しています。
「はちことぼぼるの日記」
と言うクリスチャン仲間の間では“有名な”ブログにも、今年の6月頃だったか、 N.T.ライトのことが話題になっていました。
その時のブログの書き入れコメントに、ライトが「敵を作りやすい人」、「挑発的な発言で、論争を起こす人」、と言うような残念な書入れがありました。
直接その場でコメントすることはしませんでしたが、自分のブログでライト主教のために弁明したいと思います。
私が残念に思うのは、ライト主教が「論争家」として有名になってしまうことです。
確かに挑発的な表現を用いることは少なくないのですが、基本的には誰とでも議論を楽しむことができる、それも相手の主張をできるだけ受容した上で是々非々を議論する方だと私は思います。
決して敵を作ろうなどとして自論を展開する方ではありません。
コメントで指摘されていたように、特に「義認論」に関し伝統的宗教改革的な解釈とはかなり離れて見える立場を取られています。
(神学的立場からそうなったのではなく、ロマ書の釈義的結果また、パウロ研究の蓄積の結果としてそうなったと私は理解しております。)
それが北米改革派の一部に危険視・異端視(?)される結果となっています。
自由主義神学からも保守主義神学からも非難されるほど、ライト主教は幅広く立場の違う人と議論されていることが、逆に彼の懐の深さを示していると私は思います。
最後にライトの著作のうちどれから読むかに関して。
一般的な読者の場合(ノンクリスチャンを含め)Simply Christian
霊肉二元論的な立場に対する原始キリスト教信仰の姿を今日に弁証するものとして、Surprised by Hope
After You Believeはその後に読む方が論点の方向として繋がりやすいのでは・・・。
The Challenge of Jesus はライトがPrivate Spiritualityのようなあり方を非難している理由を知るには好適かも知れません。
私が考えるにライトの矛先は敬虔主義的信仰者の霊性ではなく、その信仰がどう現実の世界に立ち向かうのか、と言うことです。
イエスの神の国宣教、十字架、復活、・・・すべて歴史=公けな場における出来事です。
真にイエスの弟子となろうとすれば、信仰の公け性から逃避することはできない、と言うのがThe Challenge of Jesus に含意されていると思います。
(公けvsプライベートと言う対立図式で理解していただければ、ライト主教がパーソナルな霊性に否定的な方ではないことは、彼が如何に教会人として祈りと礼拝を重んじていることで説明がつくと思いますが・・・。)
初期伝承とキリスト教起源
N.T.ライトの「紹介・入門」については以下をクリック。
http://www014.upp.so-net.ne.jp/NTW-dokushokai/introindex.htm
決して読み易くない英文を難儀しながら訳しました。拙い訳なので読みにくいかと思いますが、読んだだけの益は必ずあると思います。
日本においてはまだまだ知名度が低いのですが、英語で読む方々も結構増えてきているのではないかと推察しています。
「はちことぼぼるの日記」
と言うクリスチャン仲間の間では“有名な”ブログにも、今年の6月頃だったか、 N.T.ライトのことが話題になっていました。
その時のブログの書き入れコメントに、ライトが「敵を作りやすい人」、「挑発的な発言で、論争を起こす人」、と言うような残念な書入れがありました。
直接その場でコメントすることはしませんでしたが、自分のブログでライト主教のために弁明したいと思います。
私が残念に思うのは、ライト主教が「論争家」として有名になってしまうことです。
確かに挑発的な表現を用いることは少なくないのですが、基本的には誰とでも議論を楽しむことができる、それも相手の主張をできるだけ受容した上で是々非々を議論する方だと私は思います。
決して敵を作ろうなどとして自論を展開する方ではありません。
コメントで指摘されていたように、特に「義認論」に関し伝統的宗教改革的な解釈とはかなり離れて見える立場を取られています。
(神学的立場からそうなったのではなく、ロマ書の釈義的結果また、パウロ研究の蓄積の結果としてそうなったと私は理解しております。)
それが北米改革派の一部に危険視・異端視(?)される結果となっています。
自由主義神学からも保守主義神学からも非難されるほど、ライト主教は幅広く立場の違う人と議論されていることが、逆に彼の懐の深さを示していると私は思います。
最後にライトの著作のうちどれから読むかに関して。
一般的な読者の場合(ノンクリスチャンを含め)Simply Christian
霊肉二元論的な立場に対する原始キリスト教信仰の姿を今日に弁証するものとして、Surprised by Hope
After You Believeはその後に読む方が論点の方向として繋がりやすいのでは・・・。
The Challenge of Jesus はライトがPrivate Spiritualityのようなあり方を非難している理由を知るには好適かも知れません。
私が考えるにライトの矛先は敬虔主義的信仰者の霊性ではなく、その信仰がどう現実の世界に立ち向かうのか、と言うことです。
イエスの神の国宣教、十字架、復活、・・・すべて歴史=公けな場における出来事です。
真にイエスの弟子となろうとすれば、信仰の公け性から逃避することはできない、と言うのがThe Challenge of Jesus に含意されていると思います。
(公けvsプライベートと言う対立図式で理解していただければ、ライト主教がパーソナルな霊性に否定的な方ではないことは、彼が如何に教会人として祈りと礼拝を重んじていることで説明がつくと思いますが・・・。)
2010年8月5日木曜日
大和郷
大和郷、「やまとむら」と読みます。
その昔、三菱の岩崎氏がモデル住宅用に分譲した、名勝六義園を囲む一帯です。
殆どの住宅には広い庭があり、緑が豊富です。
ただし高い塀に囲まれていて、道路から庭を眺めることはできませんが・・・。
六義園には多種の鳥たちが棲息しているようです。
緑が豊富なので、それなりに昆虫も。
夏は蝉ですね。
教会の庭でも、梅雨明けから、先ず油蝉がジーと鳴き始めました。
まもなく、みんみん蝉。
数日後には、早くも、ツクツク法師。
今日の夕方には、ヒグラシの鳴き声も聞こえました。
教会の庭は塀で遮られることもなく、開けっぴろげです。
雑草が生い茂っていても、「お庭きれいになさっていますねー。」と褒められてしまいます。
もっと手を入れなければと思いつつ、ありがたく聞いています。
その昔、三菱の岩崎氏がモデル住宅用に分譲した、名勝六義園を囲む一帯です。
殆どの住宅には広い庭があり、緑が豊富です。
ただし高い塀に囲まれていて、道路から庭を眺めることはできませんが・・・。
六義園には多種の鳥たちが棲息しているようです。緑が豊富なので、それなりに昆虫も。
夏は蝉ですね。
教会の庭でも、梅雨明けから、先ず油蝉がジーと鳴き始めました。
まもなく、みんみん蝉。
数日後には、早くも、ツクツク法師。
今日の夕方には、ヒグラシの鳴き声も聞こえました。
教会の庭は塀で遮られることもなく、開けっぴろげです。
雑草が生い茂っていても、「お庭きれいになさっていますねー。」と褒められてしまいます。
もっと手を入れなければと思いつつ、ありがたく聞いています。
2010年8月4日水曜日
性格と品性
血液型でその人の性格がある程度分かる。
と思っている人は案外多いと思います。
実際どの程度まで信じるかは別として、血液型と性格を結びつける話題には事欠きません。話題として入りやすいですし・・・。
筆者はO型です。よく言われるのは、O型は大雑把。何事もきちっと決めるのではなく、“いい加減”にして置くのを好む、と。
対照的なのがA型。几帳面。きちっ、きちっとしていないと気がすまないタイプ。
血液型で性格を判断できるのはかなりあいまいな範囲まで。後は個人差や、一個人に別の性格タイプが共存するのが普通ではないかと思います。
性格は遺伝的に受け継いだもの(血液型はその一つ?)もあるでしょうが、やはり後天的なものの影響も強いはず。
そこで話題にしたいのが「品性」。

最近キリスト教会で度々話題に上がる「牧師不祥事事件」は、個人の人格的欠点や性格の問題に還元するだけでは不十分です。
不祥事を起こしていない牧師も、そしてキリスト者も、等しく「品性」の問題が問われている、と筆者は感じています。
キリスト者の品性は本で学ぶのではなく、人から学ぶことが殆どです。
模範となるべき人物の品性を学ぶのです。
たとえ「キリスト者の品性の模範はイエス・キリストである」としても、実際に対人関係にあるキリスト者たちが模範となるべきです。
その点牧師の品性は重要だと思います。
牧師が目指すべき「キリスト者の品性」のエッセンスは何でしょうか。
恐らく最も抱合的な品性は「愛」だと思います。
しかし、「愛」は実に多面的で、時に捕らえどころのない、あるいは恣意的に解釈される品性でもあります。
筆者は、「愛」を具体的人間の模範となる品性として考える時、次の三つの要素を考えます。
①寛容
人に対して寛容であると言うことは、相手を様々な弱点や欠点を持つにもかかわらず、一個の人格として尊重できる、と言うことではないかと思います。
②忍耐
寛容は時に忍耐と言う「態度」、として持続されることを要請します。愛が相手を建設的に受け容れようとする場合、欠点の多い者同士必要になるのはしばしば忍耐です。
③謙遜
これが最も判定しがたい愛の品性ではないかと思います。しばしば謙遜は自己満足の範囲に留まりがちです。自分が謙っていることに関心が向き、相手を建て上げるために、自己を制御するような謙遜にならないことが多いのではないかと思います。
筆者は牧師としてどれだけ、寛容と、忍耐と、謙遜を持って兄弟姉妹に仕えているでしょうか。
皆さんの教会の牧師たちはいかがでしょうか。
一歩進んで、牧師だけでなく、お互い教会の兄弟姉妹が、どれだけ、寛容と、忍耐と、謙遜を持って仕え合っているでしょうか。
私たちの品性を磨くために他者が必要なのではありません。私たちの品性が磨かれるのはあくまで結果です。もちろん目標にすることは結構なことですが・・・。
大事なのは、お互いを建て上げる、つまり主の体である教会が建て上がるために、寛容と、忍耐と、謙遜が必要とされていることではないでしょうか。
と思っている人は案外多いと思います。
実際どの程度まで信じるかは別として、血液型と性格を結びつける話題には事欠きません。話題として入りやすいですし・・・。
筆者はO型です。よく言われるのは、O型は大雑把。何事もきちっと決めるのではなく、“いい加減”にして置くのを好む、と。
対照的なのがA型。几帳面。きちっ、きちっとしていないと気がすまないタイプ。
血液型で性格を判断できるのはかなりあいまいな範囲まで。後は個人差や、一個人に別の性格タイプが共存するのが普通ではないかと思います。
性格は遺伝的に受け継いだもの(血液型はその一つ?)もあるでしょうが、やはり後天的なものの影響も強いはず。
そこで話題にしたいのが「品性」。

最近キリスト教会で度々話題に上がる「牧師不祥事事件」は、個人の人格的欠点や性格の問題に還元するだけでは不十分です。
不祥事を起こしていない牧師も、そしてキリスト者も、等しく「品性」の問題が問われている、と筆者は感じています。
キリスト者の品性は本で学ぶのではなく、人から学ぶことが殆どです。
模範となるべき人物の品性を学ぶのです。
たとえ「キリスト者の品性の模範はイエス・キリストである」としても、実際に対人関係にあるキリスト者たちが模範となるべきです。
その点牧師の品性は重要だと思います。
牧師が目指すべき「キリスト者の品性」のエッセンスは何でしょうか。
恐らく最も抱合的な品性は「愛」だと思います。
しかし、「愛」は実に多面的で、時に捕らえどころのない、あるいは恣意的に解釈される品性でもあります。
筆者は、「愛」を具体的人間の模範となる品性として考える時、次の三つの要素を考えます。
①寛容
人に対して寛容であると言うことは、相手を様々な弱点や欠点を持つにもかかわらず、一個の人格として尊重できる、と言うことではないかと思います。
②忍耐
寛容は時に忍耐と言う「態度」、として持続されることを要請します。愛が相手を建設的に受け容れようとする場合、欠点の多い者同士必要になるのはしばしば忍耐です。
③謙遜
これが最も判定しがたい愛の品性ではないかと思います。しばしば謙遜は自己満足の範囲に留まりがちです。自分が謙っていることに関心が向き、相手を建て上げるために、自己を制御するような謙遜にならないことが多いのではないかと思います。
筆者は牧師としてどれだけ、寛容と、忍耐と、謙遜を持って兄弟姉妹に仕えているでしょうか。
皆さんの教会の牧師たちはいかがでしょうか。
一歩進んで、牧師だけでなく、お互い教会の兄弟姉妹が、どれだけ、寛容と、忍耐と、謙遜を持って仕え合っているでしょうか。
私たちの品性を磨くために他者が必要なのではありません。私たちの品性が磨かれるのはあくまで結果です。もちろん目標にすることは結構なことですが・・・。
大事なのは、お互いを建て上げる、つまり主の体である教会が建て上がるために、寛容と、忍耐と、謙遜が必要とされていることではないでしょうか。
2010年8月3日火曜日
暑中お見舞い申し上げます
昨日はヘビーなブログ・エントリーだったので、今日は軽く。
巣鴨聖泉キリスト教会は2001年会堂建替え前も、建替え後も基本的にエアコンは使っていない。
今年のような夏はエアコンが欲しくなる。
ちょっと後悔もある。(でも予算的に無理だったから仕方ない。)
頼りは屋上緑化と風通しである。
自然の力を利用して涼しくしたいのだが、これには限界があるのは分かっている。
それで考え付いた方法。
礼拝時間を短縮する。
牧師が勝手に決めていいのかどうか・・・。
でも暑い中集まっている聴衆の負担を軽減するため、礼拝時間を(主に説教時間を)10分短縮。
今年の夏は短縮説教で乗り切ろう。
巣鴨聖泉キリスト教会は2001年会堂建替え前も、建替え後も基本的にエアコンは使っていない。
今年のような夏はエアコンが欲しくなる。
ちょっと後悔もある。(でも予算的に無理だったから仕方ない。)
頼りは屋上緑化と風通しである。
自然の力を利用して涼しくしたいのだが、これには限界があるのは分かっている。
それで考え付いた方法。
礼拝時間を短縮する。
牧師が勝手に決めていいのかどうか・・・。
でも暑い中集まっている聴衆の負担を軽減するため、礼拝時間を(主に説教時間を)10分短縮。
今年の夏は短縮説教で乗り切ろう。
2010年8月2日月曜日
ポストモダンと福音
ポストモダンという言葉・設定は、ポストモダンという語で括られる現象の広大さ曖昧さの故に、議論にある種の胡散臭さを与えてしまうだろうと思います。
しかしモダニズム的「『真理』の論理性・言語的明晰性・実証性に対する無垢な信頼」の時代が過ぎ去っていることは、少しきちんと物事を考える個々人の心に深く受け止められているだろうと思われます。
そう言う時代にあって、教会堂を持ち決まった順序で礼拝をする、牧師あるいは聖職者が管理する宗教組織である「教会」は“既成”宗教団体とみなされます。
ポストモダンの時代を生きる“個人化した”“主観的”スピリチュアリティーを模索する人々はこのような“規制教会”に殆ど期待しないだろうと思われます。
教会は歴史的に形成された『使徒的福音』を現代に宣教する務めを担っていますが、「聞く耳を持たない」「笛を吹いても踊らない」人々に向かってどのように福音を携えていけるのでしょうか。
モダニズム的福音宣教は「福音の言葉」を伝達すれば、後は聞いた人がそのメッセージを“信ずれば救われる”としてきました。
最早そのような『福音伝達』はポストモダン時代の人々の“心”には届きそうもありません。
筆者が考える「教会が今福音宣教のためにできること」は二つあります。
一つ目は、「使徒的福音の回復」です。
モダニズム的福音宣教をポストモダンに適合しようとしても、既にメッセージ内容が時代的に限定されているので、無駄なことではないかと思っています。
むしろ原初に立ち返り、使徒たちが伝えた「真正な福音」を単なるメッセージ内容だけでなく、「世界観」と「生活原理」ともども教会の中に回復することが先決だと思います。
このために必要なアプローチは“歴史的”探求です。
聖書学、神学、宣教学、教会論は徹底的に使徒的福音の世界観の意味地平から探求される必要があると思います。
時間がかかりますがエッセンシャルな要素だと思います。
二つ目は、ポストモダン時代を生きる人々の心の有り様を良く掴むことです。
“個人化した”、孤独で、疎外されやすく、主観的なスピリチュアリティーを形成する人々の心。
彼らの既成宗教の枠外で形成される「心の組み立て」を理解することです。
その脆弱性、一過性、混合性、などの弱点を理解することも必要です。
反知的に“霊性”や“伝統”に没入する危険性も理解する必要があります。
ポストモダン霊性は「何でもあり」です。
異端やカルト、オカルトや呪術的なことも、スピリチュアリティーという枠組みの中では並列状態です。
霊的に渇いた心は、「何でも癒してくれそうな」ものを正邪の区別をつけずに取り込もうとします。
どこに使徒的福音との接点が形成されるか
難しい問題です。
決まったパターンと言うのはないでしょう。
自分の主観や感性に頼るポストモダン霊性探求者と「真の会話・対話」を獲得する状況を得ることが大切だと思います。
それはどのように、どんな場所で起こりうるか。
この時代に遣わされた地域教会の個別的条件を良く考えながら編み出されていくべきではないかと思います。
しかしモダニズム的「『真理』の論理性・言語的明晰性・実証性に対する無垢な信頼」の時代が過ぎ去っていることは、少しきちんと物事を考える個々人の心に深く受け止められているだろうと思われます。
そう言う時代にあって、教会堂を持ち決まった順序で礼拝をする、牧師あるいは聖職者が管理する宗教組織である「教会」は“既成”宗教団体とみなされます。
ポストモダンの時代を生きる“個人化した”“主観的”スピリチュアリティーを模索する人々はこのような“規制教会”に殆ど期待しないだろうと思われます。
教会は歴史的に形成された『使徒的福音』を現代に宣教する務めを担っていますが、「聞く耳を持たない」「笛を吹いても踊らない」人々に向かってどのように福音を携えていけるのでしょうか。
モダニズム的福音宣教は「福音の言葉」を伝達すれば、後は聞いた人がそのメッセージを“信ずれば救われる”としてきました。
最早そのような『福音伝達』はポストモダン時代の人々の“心”には届きそうもありません。
筆者が考える「教会が今福音宣教のためにできること」は二つあります。
一つ目は、「使徒的福音の回復」です。
モダニズム的福音宣教をポストモダンに適合しようとしても、既にメッセージ内容が時代的に限定されているので、無駄なことではないかと思っています。
むしろ原初に立ち返り、使徒たちが伝えた「真正な福音」を単なるメッセージ内容だけでなく、「世界観」と「生活原理」ともども教会の中に回復することが先決だと思います。
このために必要なアプローチは“歴史的”探求です。
聖書学、神学、宣教学、教会論は徹底的に使徒的福音の世界観の意味地平から探求される必要があると思います。
時間がかかりますがエッセンシャルな要素だと思います。
二つ目は、ポストモダン時代を生きる人々の心の有り様を良く掴むことです。
“個人化した”、孤独で、疎外されやすく、主観的なスピリチュアリティーを形成する人々の心。
彼らの既成宗教の枠外で形成される「心の組み立て」を理解することです。
その脆弱性、一過性、混合性、などの弱点を理解することも必要です。
反知的に“霊性”や“伝統”に没入する危険性も理解する必要があります。
ポストモダン霊性は「何でもあり」です。
異端やカルト、オカルトや呪術的なことも、スピリチュアリティーという枠組みの中では並列状態です。
霊的に渇いた心は、「何でも癒してくれそうな」ものを正邪の区別をつけずに取り込もうとします。
どこに使徒的福音との接点が形成されるか
難しい問題です。
決まったパターンと言うのはないでしょう。
自分の主観や感性に頼るポストモダン霊性探求者と「真の会話・対話」を獲得する状況を得ることが大切だと思います。
それはどのように、どんな場所で起こりうるか。
この時代に遣わされた地域教会の個別的条件を良く考えながら編み出されていくべきではないかと思います。
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