2011年2月11日金曜日

キリスト者のゴール

しばらく続いた「のらくら者の日記」さんとの対話も、
「私の方は昨日書いた文章でほぼネタ切れなので、どうかこれ以上振らないようお願いいたします!」と言うことなので、一先ずこのシリーズはおしまいです。残念!

さて、教会のブログ、牧師のブログ、と言うと「説教」が掲載されていることが多い。
筆者の場合はこのブログ上で「説教」を掲載することはないと思う。
あるとしたら「ネット、ブログ読者」に対するメッセージになるだろう。
その場合やはり教会の中でなされる「説教」とは大分趣が違うであろう。

そんなことを言ってはいるが、ネット上にある他の牧師の説教を読まないわけではない。
その場合余り鑑賞する意図ではなく、どんな説教をしているか、どんな内容か、どんな釈義をしているか等、分析・検証するためであることが多い。

今回標題のようなものを検索してみた。

検索してみると「キリスト者人生にはゴールがある」と語りつつ、そのゴールは何なのか具体的に言及しないものも結構ありました。

具体的に言及したものを、その部分だけ抜粋して以下に紹介しますと、
① キリスト者のゴールは、再臨のキリストにお出会いすることです。それが最高最大の希望です。
② キリスト者のゴールは、この世にあるのではなく、天の御国です。この世に望みがあるのではなく、天の御国にこそ、キリスト者の目標があります。
③ (2)栄化の恵み
 ではそのような私たちの聖化の歩みはいつまで続き、どこが到達点、ゴールなのでしょうか。聖書は私たちの聖化の歩みのゴールはこの地上ではなく、天の御国であり、そこで到達する完成の姿は、実に、イエス・キリストと同じ栄光の姿に変えられることであると教えます。これを教理の言葉で「栄化」、「グローリフィケイション」と言うのです。
①は、終末論の一モメントである「キリストの再臨(パルーシア)」 に言及しますが、ポイントは「キリストと会う」あるいは「キリスト共にある」と言うことかもしれません。
②は、いわゆる天国です。この場合の「天の御国」は「神の国」のマタイ福音書表現のことではないようです。このような簡単な表現から推し量るのもなんですが、「この世にあるのではなく」と限定していますので霊肉二元論的な背景があると言っていいでしょう。
③は、三つの中では一番教理的な表現となっていますが、救済論的伝統表現である。いわゆる「救いの順序(オルド・サリューティス)」に基づくものと言って差し支えないでしょう。

三つに共通するのは、終末論にしても、救済論にしても、個人的な側面しか視野に入っていないこと、そして「この世」を否定的に取ること、ではないかと思います。

恐らく一般的説教としてこのような二つの特徴的視点で終始する説教は未だに多いと思われます。
改革派の神学的伝統では「契約の神学」があり、また新・カルヴィニズムの影響によって「被造世界の救済」と言う視点は残っていますが・・・。

「キリスト者のゴール」の問題は、「個人的」か「被造世界全体」か、と言う二者択一ではなく、どう関連付けるかの問題だと思います。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(ローマの信徒への手紙 / 8章21-23節)
パウロの救済観では「栄化」は「身体のよみがえり」であり、被造物全体が「滅びへの隷属」から解放されること結び合わさっています。

その意味で非身体的栄化、非物質的被造世界の回復はパウロにとっては神学的論理矛盾となるでしょう。個人的終末論・救済論が「この世のものではない」「地上のものではない」と主張する時は、この点に注意する必要があります。意図せずにパウロの終末観・救済観を否定することに繋がるでしょう。

長い間大衆的なキリスト教に埋め込まれてきた「霊肉二元論的」に解釈されたキリスト者のゴールが、個人の魂の問題や、個人の死後の問題に極小化されていないかどうか点検する必要があるでしょう。

「神の救済のグランド・デザイン」をエペソ書1章やコロサイ書に見られる「宇宙論的キリスト論」の視点から今一度検証してみるよう同労の牧師、説教者たちにお奨めします。

2011年2月9日水曜日

公共の神学

先日来、幸運にも「のらくら者の日記」さんと公開対話をさせて頂いている。
筆者が書く文章は大抵言い足りない、説明の足りないものだが、「のらくら者さんは丁寧に何通りかの言い回しや比喩を用いて読者に届くように書いていてくださる。

その中で「私にとっての公共の神学とは」と言うことで貴重な意見を伺えたので、せっかくだからここに引用して少々考えさせて頂きたい。
私とって「公共」とは、ポストモダンとも言われるこの御時世に対して責任もって神学することであります。その切り口はいろいろありましょうが、やはり「断片化」「局地化」「多元化」の趨勢に対して、大事なことはある種の「総合(synthesis)」を試みることでありましょう。信仰生活の現場のために、 整合性ある一つの世界観を提供することです。

ですから、私の中での独断的な基準は、新約学者なら「新約神学叢書」を、組織神学者(教義学者)なら「教義学 叢書」を世に問わなければ、本物の学者じゃないということです。
原文では二つに切り離されてはいないが、ここでは論ずるために分離させて頂いた。

①ポストモダン状況での「公共の神学」
一般に科学が進歩するにつれ、専門化し細分化する傾向は自然科学だけでなく、人文科学にも見られるものであり、神学においても「神学諸科」に分化して行ったのは近世のことだと思う。
この辺の問題、「神学の断片化」を現象学的に叙述した本として思い出すのは、Edward Farley, Theologia: Fragmentation and Unity of Theological Educationである。今手元に見つからないので、ネットで簡単な要約を見ていただくとファーリーの問題意識がお分かりになると思う。
これはもともとの神学的伝統を一つの理想あるいは戻るべき規範としてみた場合の歴史的再構成で、アラスデア・マッキンタイアーのAfter Virtueに通じるような問題意識とそのための歴史的叙述と言う提示方法ではないかと思う。
要約では
Farley’s basic thesis is that theologia—a unified understanding of “theology”
that leads to a Christian way of life—has been displaced by a disconnected, fragmented understanding of
“theology”.
と、もともと神学が目指していた「実践的知」が視界から消え、神学教育が牧師の必要とする専門知識に分化したことをdisplacementと見ている。

筆者がこの本を読んだ当時と現在のポストモダン状況における知の問題とは少し位相が違うかもしれないが重なる部分はあると思う。
のらくら者さんが指摘するように「統合された知」としての神学は「総合」synthesisあるいはintegrationを高次元で実現するものが期待されているのだと思う。その場合恐らく「神学緒論」「教義学」「倫理学」「弁証学」と言った垣根を乗り越えるような神学的業績になるのではないか。

②叢書
のらくら者さんは現在活躍している学者の中で「叢書」のような形で神学や聖書学の本論になる業績を生産している人物として、マクグラスとライトを双璧と見ているようで興味深い。

神学が分化し専門化した結果実質の薄くなる傾向に対して、スケールは劣るがそれなりの神学的伝統を修復しようとしている人物として、William J. Abraham(パーキンス神学校)とEllen T. Charry(プリンストン神学校)の著作が面白いのではないかと思う。前者は近著Canonical Theismをチームワークを作って出版している。
Charryの方は、By the Renewing of Your Minds: the Pastoral Function of Christian Doctrine を著しているがその副題が示すように実践的な知の回復、一つの統合を試みているのだと思っている。
私の場合、この5年間の置かれた状況とは、「罪の問題」「邪悪の存在」をほとほと考えさせられてきたことです。大きなテーマは「神学の規範性」というこでした。「記述的(descriptive)」から「規範的(prescriptive または normative)」が解釈学的にどう関わり、どのように移行するのか、大きな関心であり続けています。けれどもそのモデルを方法論の著作からではな く、「総合」を試みた著作から読み取りたいと思いました。
うーむ、なんか本格的に神学しているなーと感じさせる述懐ですね。牧会現場における現実から神学的テーマを見定め、それに対して相応しい神学的作業を模索する・・・、どういう風に結実するのか楽しみにさせていただきます。

「悪」の多面的な表現、特に暴力の問題に関して神学的著作を著しているのはMiroslav Volfが一例でしょうか。

何はともあれ筆者が「振った(?)」ことによって瓢箪からこま、になって刺激になりました。色々書いてくださりありがとうございました。

何かの機会に「振る」かもしれませんが、その時は又よろしく。

(※マクグラスの追加情報、大変参考になりました。改めて取り組んでみます。NatureとTheoryは買ってあります。)

2011年2月8日火曜日

教義学と聖書学

先日のポスト「福音派は今どこに?」があれよあれよと言う間に当ブログ人気ポストランキングの第二位に浮上してしまった。
「のらくら者の日記」さんのご紹介「新しいカテゴリー」によるところ大である。

こちらも愛読させて頂いているが、昨年後半あたりなかなか心身ともに大変そうなことが書いてあったので実は心配していたのだが・・・。

最近は教派の中でのやり取りがご心労の種のようである。お察しします。

さて件のポストで筆者の殴り書きを過分に引用頂いたのだが、「直観」の大切さを言われていた。筆者もどっちかと言うと先ず直観から思考がスタートし、熟慮を後付する方である。
昔は「こじつけのコジ」と揶揄されたこともあったほど。

相撲界にしても教会にしても「閉鎖的社会」においてはしばしば非常識なことが不問に付されてまかり通ることがある。そう言う時こそ「常識的な感覚」による「それちょっとおかしいんじゃない」と物申す勇気が大切だと思っている。
その機会を捉えるのは「熟慮の末」よりも「直観」によるところが大きい。
その機会を逸してしまうと次第に暗黙の了解、言及のタブー視のような雰囲気が支配始めると思うので「直感」は大事にしたい。
ただその後には「究明する」プロセスがあり、分析や熟慮によって補完しなければ発言が説得的にならないとは思うが。

さて話は変わって筆者が聖書学、特に新約聖書学に入れ込んでいるのは多分にN.T.ライトの存在が大きいが、それだけでなくのらくら者さんの分析の如く、神学、特に組織神学方面での興味が薄れてきたことは否めない。
新約聖書学も、他のアカデミックなディシプリンと同様、狭い専門分野に閉じこもり、同業者同士でしか通用しない言語ゲームに陥ることはある。
当然専門化するだけ学問が緻密になったり細分化する傾向はしょうがないのかもしれないが、どんな専門分野であれ、一般の人への啓蒙をするだけの努力はして欲しいものである。
でなけれぱその学問は公共性がないことを示していることになりかねない。

筆者の考えではライトの魅力はその学問的内容の面のみならず、「公共」を大前提にしている学究スタイルにある。
先ずイエス・キリストの出来事、受肉、神の国宣教、十字架の死と復活、すべてが公共の意味を持っている、と言う確信である。
次に「歴史」とはまさに「公共に属する」ものであり、歴史的な出来事は公共において論議される必要がある、と言う確信が続く。
ライトがなぜ一般人へのコミュニケーションを大切にするかと言うと、イエス・キリストの出来事は研究者が論議するだけの意味合いのものではなく、福音だからである。
福音とは「公共」に向かって発せられるべきものだからである。
ライトの著作や講演を聞いているとこの辺のスピリットがびんびん響いてくる。
だから筆者がライト、ライトと騒ぐのは、彼が単に優れているからとかではなく、パブリックな内容をパブリックに届かせようとしている熱意に感動するからである。

と言うことでのらくら者さんに教えて欲しいと思うのは、このようなスピリットや感覚で神学をしている、教義学をしている人がどれだけいるだろうか、と言うことである。
かつて神学は諸科学の女王と呼ばれたそうである。
かつて哲学者は理想の王に相応しいとされたそうである。
では現代そのような意気込みで仕事をしている神学者はどれだけいるだろうか。
専門の殻を破って公共の神学を構築しようと汗水たらしている神学者、教義学者はどこにいるのだろうか。

ちなみに少し訂正させて頂くと、筆者は別に何も専門と言えるほどのものはなく、雑学の書生、中途半端なものかじり、でとてもとても「教義学から新約学に移行した」などと言える様な者ではない。
しいてかじったといえば「社会学」「宗教社会学」あたりである。

その意味で公共の社会学あるいは社会哲学として苦悩して思索している(と筆者が感じる)方の名前を挙げれば、ユルゲン・ハーバーマス、チャールズ・テイラー、ロバート・ベラーなどである。彼らが発言する時筆者は耳を傾けたくなる。

のらくら者さん、是非現在最も熱ーい、パブリックな神学者、傾聴すべき教義学者、歴史神学者を推薦してください。(マグラスは既にたくさん邦訳されているので除外します。)

2011年2月6日日曜日

神学と倫理

筆者が大いに益を受けている新約聖書学者はN. T. ライトだけではない。
何人か名前を挙げることができるが今日はそのうち一人だけ。

Richard B. Hays

デューク神学校の新約学教授で、最近第12代目のディーン(神学校のトップ)に選ばれた。
ご存知の方も多いと思うが、ライトの30年来の友人でもあり、研究においてもお互いに刺激し合っている仲である。

どちらかと言うとパウロ研究の業績が多いが、新約聖書倫理学の方面でも画期的な業績を残している。

最近ヘイズのような現代の「神学者」で神学と倫理学の分野で活躍している人たちをリストアップしたウェッブサイトに出会った。
その名も、Theology and Ethics
英国国教会のアンドリュー・ゴッダードの管理するサイトである。

アルファベット順にサーチできるようになっている。
一通り目を通して見たが大体主な方々は網羅しているようである。
人によって情報量の差があるが現在活躍している30~40代以上の方々をリストアップしているということで、英語圏の神学状況を手っ取り早く知るには格好のサイトではないかと思う。

当然というのも変だが、日本人の名前は一人もない。
アジア、アフリカ、英語圏以外のヨーロッパも入っていないようだから、不思議でも何でもないが。

このサイトのもう一つ興味深い点は、ゴッダード個人の「ブログ」の方にアングリカン・コミュニオンで今分裂の危機を招いている「同性愛者司祭問題」を詳しくフォローしている。
ランベス会議やウィンザー・リポート、数々の提案に対する各国聖公会の反応などがまとめられている。

日本聖公会のこの問題に対する態度、「聖書の権威」と「聖書解釈」に関する地域的・文化的差異の理解など、簡単だがどのようなスタンスを持っているかを垣間見る文書も掲載されている。

世界大の教会(コミュニオン)がこのような神学的・倫理的問題にどのような決着をつけるのか、他人事ではない「生きた問題」から学ぶことの出来るサイトになっている。

(※日曜日は更新お休みにしているが、明日外出して出来ない分前倒しで掲載させて頂きました。)

2011年2月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月6日 午前10時30分

説教箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説 教 題 「まことのぶどうの木」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。
※次週、食の日です。募金と共に協力お願いします。

2011年2月4日金曜日

福音派は今どこに?

戦後のキリスト教ブームから始まり、60年代以降の右肩上がりの経済成長と同調するが如く、福音派は“成長”してきた。
その後いつの頃からか停滞し、退潮し、ついに最近は諸不祥事が象徴する如く、内部から崩壊が始まった観がある。

筆者はあるキリスト教系組織で副業として働いているが、その組織もまた日本の経済成長とバブル崩壊に同調するが如く、拡大縮小のサイクルを通った。

この並行現象をどう見るか。
教会が成長している、と見られた現象は多分に表面的なもので宗教的内実は貧困だったのか。
あるいは福音派教会の浮沈は経済の動向とたまたま軌を一にしただけなのか。

どちらにしても現在の福音派教会の状況は嘆かわしい面が多い。

最近の教会不祥事(スキャンダルだけでなく、あらゆる教団的、組織的面での胡散臭さ、優柔不断、不誠実さ)が示すのは、教理的な正統主義(orthodoxy)と実践的正統主義(orthopraxy)の乖離ではないか。

「福音に相応しく生きる」と言う「神学と倫理の一致」が欠如している、と言わなければならない。

これは多分に教派形成が自己目的化し、数値目標を立てて教勢拡大をしているうちに段々と神学ではなくプラグマティズムがのさばって来た結果なのではないか。
実利主義がキリストに相応しい品格を脇に追いやってきた結果ではないのか。

このことばが適当かどうか不明な点もあるが、日本の教会も、即ち福音派も「ポストモダンの時代」に突入しているとすると、福音派のアイデンティティーを作ってきた「聖書信仰」は一歩も二歩も掘り下げられなければならないだろう。
単に「聖書信仰」を、「聖書は信仰と生活の唯一の規範」を標榜するだけでは、最早福音派の一致を維持できないだろう。

解釈学的、世界観的視点から言えることは、聖書と言う複雑な文書をただ権威とするだけでは問題は解決しないことが自明となってきている。
今日様々な神学的、実践的事柄で福音派を二分三分するような問題は幾つもある。
(別に今に始まったことではないが)聖書解釈の対立がしばしば表面に出てきている。(義認論、進化論の受容の仕方、同性愛、等々)

今までのように「聖書信仰」と言う同じ土俵に上っているのだから、問題は正しい釈義だ、なんて暢気なことを言ってられない。
一歩論争から引いて対立の構図を解釈学的視点から捉え直して見なければ問題は解決しない。世界観的対立の構図を見据えた上で、どのように対話が可能か知恵を出さなければならない。自己の論理の合理性・正当性に訴えるだけではだめなのである。

「聖書信仰」と言う宗教改革時の原理を不動の基盤と見てはならない。
宗教改革の原則は、聖書に照らして絶えず改革することである。
「信仰義認」と言う教理も、公同信条も、不動ではない。

聖書自体が歴史的に、クリティカルに解釈される時代を生きている私たちは、自分たちの神学的伝統を絶対視したり、神聖視したりする不毛に陥ってはいられない。
大事なのはどのような「聖書の権威」観を持つのかである。
スタティックな「権威の書」では間に合わないのである。

福音派が特に留意しなければならないのは、「福音」それ自体の掘り下げではないか。
どういう福音を宣証するのか、が問われている。
個人主義的な救済観に囚われてきた近代主義的福音主義の福音理解を、もう一度使徒的福音に照らして修正する必要がある、と筆者は感じている。

N. T. ライトが指摘しているように、使徒信条の「史的イエス」に関する条項は、「処女懐胎」と「ポンテオ・ピラト」の間に何も言及がない。ナザレのイエスの「神の国の福音の宣教」に関しては何もないのである。
聖書である福音書に照らして「神の国の福音」を、「神の国」と「十字架」を包括的に捉える福音を提示していかなければならない、と言うライトの主張に良く耳を傾ける必要があるのではないか。

2011年2月2日水曜日

摂理

Divine Providence 神の摂理

摂理とはキリスト者が結構用いることばだ。
そして気をつけて用いないといけないことばだ。

人生様々なことに遭遇するが、その背後で「神がすべてを統べ治めておられる」というのは信者の持つ基本的信仰態度で、これは誰もが持つべき態度だと思う。
 
しかし個々の出来事・事象に対し神がどの程度、どのような形で介在しているか、と言うことに関してはよく吟味しなければならないことである。

筆者の知人で交通事故で子供を亡くされた方があった。
当然すぐには受け入れられない事実であった。
しかしこのことを通して未信者であったご主人が「子供が行った天国に自分も行きたい」と入信するきっかけとなった。
それでこの方は交通事故自体はさておき、この出来事の背後に神の摂理を信じるようになった。

人が出会う艱難辛苦の中にはとても不条理に感じられるものがある。
あの旧約聖書のヨブみたいに「なぜ神は?」と質問し通しのような所を通られる方もいる。
「神の義」を問い続ける信仰の格闘がある。

一方でキリスト者の中には非常に自分勝手に自分に好都合なことも、不都合なことも、どっちも摂理で片付けてしまうような浅薄な信仰態度の方が居られる様に思う。
「子供が首尾よく希望校に合格した時」も、「期待に反して落ちた場合」でも、どちらにも摂理で説明をつける。

振り返ってみると筆者もそのような一人に入ると思う。
もともと優柔不断なタイプなので、自分から決断して選択しないことが多い。
出た結果を摂理として受け入れたい、受け入れやすい人間なのである。

ただ日常茶飯事にまで「神の摂理」を持ち込むわけではない。
日々出くわすことの多くは、自分の選択や行動の結果であり、又複雑な人間関係、社会的やその他の条件付けの中での出来事であることを理解している。

だから、と言っては何だが、信仰者でありながら、一々自分の選択しようとしていることに「神様導いてください」と祈るわけではない。
「神の摂理」とはそのような人間の自由意志の範囲を許容し、又様々な自律的諸条件を許容された上で、神が働いておられる意志ではないか、と考える。

だからやはり信仰的な問題として「摂理」を考える上で最も困難なのは到底神の計らいとは思えない苦難を抱えている方々のことになる。

ただその国に生まれてきただけで貧困・飢餓を宿命付けられているような人たち。
不治の病やハンディを背負って生まれてきた人たち。
圧倒的に不当な不正・抑圧・差別を故なく受けている人たち。

このような人たちの現実を前にして「神の摂理」は問われなければならないのだろう。
そのような人生の厳しい現実に向き合っている人にこそ「神の摂理」と「神の正義」の深い問いかけが可能なのではないか。