先日のポスト「福音派は今どこに?」があれよあれよと言う間に当ブログ人気ポストランキングの第二位に浮上してしまった。
「のらくら者の日記」さんのご紹介「新しいカテゴリー」によるところ大である。
こちらも愛読させて頂いているが、昨年後半あたりなかなか心身ともに大変そうなことが書いてあったので実は心配していたのだが・・・。
最近は教派の中でのやり取りがご心労の種のようである。お察しします。
さて件のポストで筆者の殴り書きを過分に引用頂いたのだが、「直観」の大切さを言われていた。筆者もどっちかと言うと先ず直観から思考がスタートし、熟慮を後付する方である。
昔は「こじつけのコジ」と揶揄されたこともあったほど。
相撲界にしても教会にしても「閉鎖的社会」においてはしばしば非常識なことが不問に付されてまかり通ることがある。そう言う時こそ「常識的な感覚」による「それちょっとおかしいんじゃない」と物申す勇気が大切だと思っている。
その機会を捉えるのは「熟慮の末」よりも「直観」によるところが大きい。
その機会を逸してしまうと次第に暗黙の了解、言及のタブー視のような雰囲気が支配始めると思うので「直感」は大事にしたい。
ただその後には「究明する」プロセスがあり、分析や熟慮によって補完しなければ発言が説得的にならないとは思うが。
さて話は変わって筆者が聖書学、特に新約聖書学に入れ込んでいるのは多分にN.T.ライトの存在が大きいが、それだけでなくのらくら者さんの分析の如く、神学、特に組織神学方面での興味が薄れてきたことは否めない。
新約聖書学も、他のアカデミックなディシプリンと同様、狭い専門分野に閉じこもり、同業者同士でしか通用しない言語ゲームに陥ることはある。
当然専門化するだけ学問が緻密になったり細分化する傾向はしょうがないのかもしれないが、どんな専門分野であれ、一般の人への啓蒙をするだけの努力はして欲しいものである。
でなけれぱその学問は公共性がないことを示していることになりかねない。
筆者の考えではライトの魅力はその学問的内容の面のみならず、「公共」を大前提にしている学究スタイルにある。
先ずイエス・キリストの出来事、受肉、神の国宣教、十字架の死と復活、すべてが公共の意味を持っている、と言う確信である。
次に「歴史」とはまさに「公共に属する」ものであり、歴史的な出来事は公共において論議される必要がある、と言う確信が続く。
ライトがなぜ一般人へのコミュニケーションを大切にするかと言うと、イエス・キリストの出来事は研究者が論議するだけの意味合いのものではなく、福音だからである。
福音とは「公共」に向かって発せられるべきものだからである。
ライトの著作や講演を聞いているとこの辺のスピリットがびんびん響いてくる。
だから筆者がライト、ライトと騒ぐのは、彼が単に優れているからとかではなく、パブリックな内容をパブリックに届かせようとしている熱意に感動するからである。
と言うことでのらくら者さんに教えて欲しいと思うのは、このようなスピリットや感覚で神学をしている、教義学をしている人がどれだけいるだろうか、と言うことである。
かつて神学は諸科学の女王と呼ばれたそうである。
かつて哲学者は理想の王に相応しいとされたそうである。
では現代そのような意気込みで仕事をしている神学者はどれだけいるだろうか。
専門の殻を破って公共の神学を構築しようと汗水たらしている神学者、教義学者はどこにいるのだろうか。
ちなみに少し訂正させて頂くと、筆者は別に何も専門と言えるほどのものはなく、雑学の書生、中途半端なものかじり、でとてもとても「教義学から新約学に移行した」などと言える様な者ではない。
しいてかじったといえば「社会学」「宗教社会学」あたりである。
その意味で公共の社会学あるいは社会哲学として苦悩して思索している(と筆者が感じる)方の名前を挙げれば、ユルゲン・ハーバーマス、チャールズ・テイラー、ロバート・ベラーなどである。彼らが発言する時筆者は耳を傾けたくなる。
のらくら者さん、是非現在最も熱ーい、パブリックな神学者、傾聴すべき教義学者、歴史神学者を推薦してください。(マグラスは既にたくさん邦訳されているので除外します。)
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