2011年2月4日金曜日

福音派は今どこに?

戦後のキリスト教ブームから始まり、60年代以降の右肩上がりの経済成長と同調するが如く、福音派は“成長”してきた。
その後いつの頃からか停滞し、退潮し、ついに最近は諸不祥事が象徴する如く、内部から崩壊が始まった観がある。

筆者はあるキリスト教系組織で副業として働いているが、その組織もまた日本の経済成長とバブル崩壊に同調するが如く、拡大縮小のサイクルを通った。

この並行現象をどう見るか。
教会が成長している、と見られた現象は多分に表面的なもので宗教的内実は貧困だったのか。
あるいは福音派教会の浮沈は経済の動向とたまたま軌を一にしただけなのか。

どちらにしても現在の福音派教会の状況は嘆かわしい面が多い。

最近の教会不祥事(スキャンダルだけでなく、あらゆる教団的、組織的面での胡散臭さ、優柔不断、不誠実さ)が示すのは、教理的な正統主義(orthodoxy)と実践的正統主義(orthopraxy)の乖離ではないか。

「福音に相応しく生きる」と言う「神学と倫理の一致」が欠如している、と言わなければならない。

これは多分に教派形成が自己目的化し、数値目標を立てて教勢拡大をしているうちに段々と神学ではなくプラグマティズムがのさばって来た結果なのではないか。
実利主義がキリストに相応しい品格を脇に追いやってきた結果ではないのか。

このことばが適当かどうか不明な点もあるが、日本の教会も、即ち福音派も「ポストモダンの時代」に突入しているとすると、福音派のアイデンティティーを作ってきた「聖書信仰」は一歩も二歩も掘り下げられなければならないだろう。
単に「聖書信仰」を、「聖書は信仰と生活の唯一の規範」を標榜するだけでは、最早福音派の一致を維持できないだろう。

解釈学的、世界観的視点から言えることは、聖書と言う複雑な文書をただ権威とするだけでは問題は解決しないことが自明となってきている。
今日様々な神学的、実践的事柄で福音派を二分三分するような問題は幾つもある。
(別に今に始まったことではないが)聖書解釈の対立がしばしば表面に出てきている。(義認論、進化論の受容の仕方、同性愛、等々)

今までのように「聖書信仰」と言う同じ土俵に上っているのだから、問題は正しい釈義だ、なんて暢気なことを言ってられない。
一歩論争から引いて対立の構図を解釈学的視点から捉え直して見なければ問題は解決しない。世界観的対立の構図を見据えた上で、どのように対話が可能か知恵を出さなければならない。自己の論理の合理性・正当性に訴えるだけではだめなのである。

「聖書信仰」と言う宗教改革時の原理を不動の基盤と見てはならない。
宗教改革の原則は、聖書に照らして絶えず改革することである。
「信仰義認」と言う教理も、公同信条も、不動ではない。

聖書自体が歴史的に、クリティカルに解釈される時代を生きている私たちは、自分たちの神学的伝統を絶対視したり、神聖視したりする不毛に陥ってはいられない。
大事なのはどのような「聖書の権威」観を持つのかである。
スタティックな「権威の書」では間に合わないのである。

福音派が特に留意しなければならないのは、「福音」それ自体の掘り下げではないか。
どういう福音を宣証するのか、が問われている。
個人主義的な救済観に囚われてきた近代主義的福音主義の福音理解を、もう一度使徒的福音に照らして修正する必要がある、と筆者は感じている。

N. T. ライトが指摘しているように、使徒信条の「史的イエス」に関する条項は、「処女懐胎」と「ポンテオ・ピラト」の間に何も言及がない。ナザレのイエスの「神の国の福音の宣教」に関しては何もないのである。
聖書である福音書に照らして「神の国の福音」を、「神の国」と「十字架」を包括的に捉える福音を提示していかなければならない、と言うライトの主張に良く耳を傾ける必要があるのではないか。

1 件のコメント:

  1. はじめまして。
    中川と申します。
    他の方のブログ紹介を見て記事を見させていただきました。

    N. T. ライトという人の名前をたびたび耳にするようになりました。
    まだ、翻訳はされていないはずですが、どんな方なのでしょう。

    私自身も教会のカルト化問題を扱っているのですが、福音派に大きく欠けてしまっていることの一つに「キリスト教霊性」があると考えています。
    なぜ「キリスト教霊性」が欠けているかといえば、福音書に見る受肉の思想が、キリストの十字架と受苦に吸収されてしまっているからではないかと。
    ルター研究をしたとき、十字架論をテーマとした論文はやまのようになるのだけど、ルターの受肉論に関する論文が皆無でした。
    受肉論の土台のない所に十字架論は成り立ちません。
    もちろん、受肉とは福音書にあるイエスさまの姿ですから、福音書が失われているということにもなってしまいます。

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