久し振りとなる「神学遍歴」シリーズである。
今のところアズベリー神学校時代のことを書いているが、今回も。
前回は神学者、H. Richard Niebuhrについて書いたが、今回はアズベリー神学校で受講した中でやや異色で、個人的に興味深かったクラスを三つほど紹介しておこうと思う。
①中間時代の神学
今では「第二神殿期ユダヤ教」等と言われるが、旧約聖書と新約聖書の「間」の(諸説はあるだろうが)約400年間の間のユダヤ教文学についての学びである。
教授は「聖書神学」と言って、その頃はまだ神学校の受講科目ではメジャーになっていなかった部門を担当していた。
と言うことで(確か)先ず紹介されたのは、クリスター・ステンダールの「聖書神学」と言う論文(The Interpreter's Dictionary of the Bible所収)だったかと思う。
クラスは講義の他に課題として聖書学関係の専門雑誌から教授が指定した論文の中から幾つか選び出して、そのアブストラクト(要約)を書く、というものだった。
多分4つ5つ読んだと思う。
記憶が確かなら、James Muilenburgを知るようになったのもこの課題の故だった。
講義で紹介された学者の名前は、
D・S・ラッセル(八田正光訳『聖書の中間時代:後期ユダヤ教の歴史・文学・思想』ヨルダン社、一九六八年。)
Joseph Bonsirven
などであった。
②Supervised Ministry
意訳すると「臨床神学入門」とでも言えばいいか、教授がスーパーバイザーとなって学生たちの小グループを指導するのだが、 神学的作業(リフレクション)は神学書を読むことから始まるのではなく、様々な「ミニストリーの現場」から得た経験を元に行なうものであった。
筆者が行った「ミニストリーの現場」は、総合病院、ミニマム・セキュリティー刑務所でのチャプレン見習いのようなものや、大学キャンパスでの個人伝道のようなものであった。
例えば病室で死期の近い患者さんと何とか会話をして、それから帰ってきて、それを一つの「ケース・スタディー」としてまとめるのだが、状況描写と、会話の中から「神学的テーマ」を見つけ出して、ミニストリーの体験を振り返る、というような神学作業を行なう。
グループの学生たちが一堂に会して、それぞれのケース・スタディーをもとにディスカッションする、そして教授が気付いたことを提案したりする、と言うのが Supervised Ministryの一連の作業であった。
実地を通して神学する、と言うプロセスを教えるものであった。
③説教学上級クラス
上級と言っても説教そのものの学びではなく、説教の中で取り扱われるテーマを如何に現代や社会や等広い視野で掘り下げるか、と言うクラスであった。
このクラスを通して筆者は初めて「ホロコースト」に触れることになった。
ノーベル平和を受賞した、エリー・ウィーゼルのアウシュビッツの体験を下にした自伝的小説「夜」を読んだ衝撃は大きかった。
その他にもこのクラスでは、「普通の説教」ではカバーしない事柄をクリスチャン、説教者としてどう捉えていくかを考えさせてくれた。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2012年9月13日木曜日
2012年9月9日日曜日
今朝の礼拝案内
(※うっかり昨日中に掲載するのを忘れてしまいました。)
主日礼拝
9月5日 午前10時30分
朗読箇所 ヨハネの福音書 17:1-26
説 教 題 「世に遣わしました」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《説教シリーズ》「遣わされて」⑧
主日礼拝
9月5日 午前10時30分
朗読箇所 ヨハネの福音書 17:1-26
説 教 題 「世に遣わしました」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《説教シリーズ》「遣わされて」⑧
2012年9月6日木曜日
リトリート
所属する日本聖泉キリスト教会連合の「教役者リトリート」に出かけてきた。
場所は那須高原、9月3日~5日の二泊三日。
コンセプトは霊修的な要素の少ないリトリート。
つまり《主にリラックスした時間を過ごす》のが目的の、しかし名前はリトリート。
小さな連合なので参加した人数は7名。
既に良く知っている間柄ではあるが、年数回「教役者会」で顔を合わす時は時間の都合で話すことのできない話題も、ゆったりとした時間の進行の中で「あれ、これ」と思い出したようにポツポツ話すことができるリトリートだった。
だから時間も内容も「ストラクチャー」のない中で、唯一二日目の午前中に「デボーション」と称して、集中的に各自が「牧師」として仕えている教会が直面している問題・課題、あるいは牧師自身の問題・課題などを分かち合う時を持った。
司会者が最初に自分の問題・課題を語ったが、その中で「壁」「後継者問題」と言う事が語られていたので、以降それらの二つをキーワードに各自の近況を分かち合った。
中には教会のミニストリーを新展開させる「積極的な」ものもあれば、停滞や牧師としての「パフォーマンス」や「召名」への疑問、などと言うどちらかと言うと「消極的な」ものまで様々。
筆者も牧師個人としても、教会としてもある種「停滞」の中にいることをお話した。
一巡して「まとめ」をしてくれとの司会者の要望で、みんなの忌憚ないお話を聞かせていただいた中から二つのキーワードがあるように思わせられたので、そのことを少々「お勧め」のような感じで語らせていただいた。
①牧師も教会の兄弟・姉妹の一人であること
牧師が信徒との関係で、色々期待をかけられたり、「パフォーマンス」のように説教や牧会指導を「演じている」様に感じ、孤立していったり、自己嫌悪に陥ったりすることがある。
その背景には牧師と言う仕事を過剰に「特別視する」ことがないだろうか、と言うことを指摘させていただいた。
基本的スタンスとして「兄弟・姉妹として同じ教会員の一人」であることを忘れないようにすることが大事ではないか、と指摘させていただいた。
②「私たちの教会」ではなく「キリストの教会」
通常自分が所属する教会は一(地域)教会であり、ついつい「自分たちの教会」として語られやすい。教会の現在や将来に対して「自分たちの思い」をついつい反映させてしまいやすい。
しかし私たちが属する一(地域)教会は、「私たちの教会」である前に「キリストの教会」であることを自覚しておくことが大事ではないか。
「自分たちの教会」の10年後、20年後の将来を展望して様々な思いや計画を描く時、それを超えた「キリストの来臨」の終末に焦点を合わせた将来設計、と言う視点も忘れてはならない。
教会を私物化することのないように。
と言ったようなことを指摘させていただいた。
初めての試みであったが参加者からは「良いリトリートだった」と言う感想を聞いている。
お互いを慰めあい、励ましあう機会となったのではないかと思う。
場所は那須高原、9月3日~5日の二泊三日。
コンセプトは霊修的な要素の少ないリトリート。
つまり《主にリラックスした時間を過ごす》のが目的の、しかし名前はリトリート。
小さな連合なので参加した人数は7名。
既に良く知っている間柄ではあるが、年数回「教役者会」で顔を合わす時は時間の都合で話すことのできない話題も、ゆったりとした時間の進行の中で「あれ、これ」と思い出したようにポツポツ話すことができるリトリートだった。
だから時間も内容も「ストラクチャー」のない中で、唯一二日目の午前中に「デボーション」と称して、集中的に各自が「牧師」として仕えている教会が直面している問題・課題、あるいは牧師自身の問題・課題などを分かち合う時を持った。
司会者が最初に自分の問題・課題を語ったが、その中で「壁」「後継者問題」と言う事が語られていたので、以降それらの二つをキーワードに各自の近況を分かち合った。
中には教会のミニストリーを新展開させる「積極的な」ものもあれば、停滞や牧師としての「パフォーマンス」や「召名」への疑問、などと言うどちらかと言うと「消極的な」ものまで様々。
筆者も牧師個人としても、教会としてもある種「停滞」の中にいることをお話した。
一巡して「まとめ」をしてくれとの司会者の要望で、みんなの忌憚ないお話を聞かせていただいた中から二つのキーワードがあるように思わせられたので、そのことを少々「お勧め」のような感じで語らせていただいた。
①牧師も教会の兄弟・姉妹の一人であること
牧師が信徒との関係で、色々期待をかけられたり、「パフォーマンス」のように説教や牧会指導を「演じている」様に感じ、孤立していったり、自己嫌悪に陥ったりすることがある。
その背景には牧師と言う仕事を過剰に「特別視する」ことがないだろうか、と言うことを指摘させていただいた。
基本的スタンスとして「兄弟・姉妹として同じ教会員の一人」であることを忘れないようにすることが大事ではないか、と指摘させていただいた。
②「私たちの教会」ではなく「キリストの教会」
通常自分が所属する教会は一(地域)教会であり、ついつい「自分たちの教会」として語られやすい。教会の現在や将来に対して「自分たちの思い」をついつい反映させてしまいやすい。
しかし私たちが属する一(地域)教会は、「私たちの教会」である前に「キリストの教会」であることを自覚しておくことが大事ではないか。
「自分たちの教会」の10年後、20年後の将来を展望して様々な思いや計画を描く時、それを超えた「キリストの来臨」の終末に焦点を合わせた将来設計、と言う視点も忘れてはならない。
教会を私物化することのないように。
と言ったようなことを指摘させていただいた。
初めての試みであったが参加者からは「良いリトリートだった」と言う感想を聞いている。
お互いを慰めあい、励ましあう機会となったのではないかと思う。
2012年9月2日日曜日
科学と哲学を区別することによって
久し振りに「英語圏ブログ紹介」を兼ねて。
ロス・マーッケンジーのsoli deo gloriaブログ。
彼の最近の投稿記事、 Distinguishing Science From Philosophyがちょっと面白いのではないかと思った。
「科学と哲学を区別することによって」と訳したが、ロスの記事では「哲学」には宗教も含めた「世界観」的解釈を持つ思想が意図されている。
先ず「科学」だが、簡単に定義すれば「科学的知識」と「哲学的主張」の違いは、
(1)
科学:「地球は太陽系惑星の中心ではない。」
哲学A:「人類は特別な存在ではない。」
哲学B:「地理的位置は物事を意義付ける尺度ではない。」
(2)
科学:「太陽は1700億を数える銀河の一つ、『天の川銀河』にある2000億個の星の一つである。」
哲学A:「人類は宇宙においては全く無意味な存在である。」
哲学B:「人間は非常に有り得ないほど偶然の存在である。」
哲学C:「人間はその固有性と有り得なさの故に高度に意義深い存在である。」
(3)
科学:「人間のDNAとチンパンジーのDNAは97%同一である。」
哲学A:「人類は他の動物と何ら異なるところはない。」
哲学B:「動物の命は人間の命と平等に価値がある。」
哲学C:「(チンパンジーとの)3%の違いに如何に人間が固有で特別な存在であるかが示されている。」
このように対比してみれば、「科学的知識」と「哲学的主張」の違いが良く分かるのではないか、とロス・マッケンジーさんは申しております。
皆さんはどんな印象をお持ちになりましたか。
ロス・マーッケンジーのsoli deo gloriaブログ。
彼の最近の投稿記事、 Distinguishing Science From Philosophyがちょっと面白いのではないかと思った。
「科学と哲学を区別することによって」と訳したが、ロスの記事では「哲学」には宗教も含めた「世界観」的解釈を持つ思想が意図されている。
先ず「科学」だが、簡単に定義すれば「科学的知識」と「哲学的主張」の違いは、
Scientific knowledge is something that is experimentally testable, open to confirmation, and can be agreed upon by a wide range of parties. Philosophical claims do not have these qualities. They are not testable in a laboratory.まっこれは余りにも教科書的で珍しいものは何もないが、次にロスが挙げる例(科学と哲学の相違)が分かりやすくしてくれる。
(1)
科学:「地球は太陽系惑星の中心ではない。」
哲学A:「人類は特別な存在ではない。」
哲学B:「地理的位置は物事を意義付ける尺度ではない。」
(2)
科学:「太陽は1700億を数える銀河の一つ、『天の川銀河』にある2000億個の星の一つである。」
哲学A:「人類は宇宙においては全く無意味な存在である。」
哲学B:「人間は非常に有り得ないほど偶然の存在である。」
哲学C:「人間はその固有性と有り得なさの故に高度に意義深い存在である。」
(3)
科学:「人間のDNAとチンパンジーのDNAは97%同一である。」
哲学A:「人類は他の動物と何ら異なるところはない。」
哲学B:「動物の命は人間の命と平等に価値がある。」
哲学C:「(チンパンジーとの)3%の違いに如何に人間が固有で特別な存在であるかが示されている。」
このように対比してみれば、「科学的知識」と「哲学的主張」の違いが良く分かるのではないか、とロス・マッケンジーさんは申しております。
皆さんはどんな印象をお持ちになりましたか。
2012年9月1日土曜日
2012年8月29日水曜日
(パウロ)神学談義
今日の午後、客人があり、しばらく「神学談義」をした。
主にパウロ研究についてであったが、今となってはパウロ神学の古典的研究になってしまった感のある、W. D. Davies, PAUL AND RABBINIC JUDAISM.に話題が及んだ。
客人は現在新約聖書学の博士課程でバリバリ研究中であるが、この古典をある意味再発見してその内容に驚いていた。
「ニュー・パースペクティヴ・オン・パウロ(NPP)」はまだまだ日本には馴染みが薄いが、その先行的論文を書いた、クリスター・ステンダールの論文
Krister Stendahl, “The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West” in Paul Among Jews and Gentiles (Philadelphia: Fortress), 1976, pp. 78-96. First published in English in Harvard Theological Review, 56 (1963), pp. 199-215
もNPPの議論がE.P.Sandersによって1970年代後半に火をつけられるまで、独立峰的であったようだ。
このように研究の最前線にいる者達がいかにも最初に発見したように思うことも、その萌芽的なものがそれ以前に既に指摘されているようなことはあるものだ。
ところで筆者は、デーヴィースのこの本をたまたま古本で探して購入して読んでいた。
まだ本格的に「新約聖書学」に興味を持つ前だったように思う。
いや、もしかしたら、既に購入していたが、関心を持つようになってから後読んだのかもしれない。
とにかく次にデーヴィース繋がりで話題にしたのは、E.P.SandersとMargaret Daviesの共著、Studying the Synoptic Gospelsの本で、この時点でこのマーガレットはE.P.Sandersの奥さんだと、そのようなことを話した。つまりデーヴィースの娘婿。
ところがたまたま先ほど調べていたら、これは勘違いであることが、E. P. Sanders's Relationship to W. D. Daviesの記事で指摘されていた。
ありゃま、姓名がたまたま一致していただけだったなんて・・・。
E.P.Sandersがデーヴィースの弟子であり、デーヴィースの研究を更に推し進めた、と言う関係からも、二重に勘違いが強化されたようだ。
と言うわけで真夏の暑い日のとんだ勘違い、と言うお話でした。
主にパウロ研究についてであったが、今となってはパウロ神学の古典的研究になってしまった感のある、W. D. Davies, PAUL AND RABBINIC JUDAISM.に話題が及んだ。
客人は現在新約聖書学の博士課程でバリバリ研究中であるが、この古典をある意味再発見してその内容に驚いていた。
「ニュー・パースペクティヴ・オン・パウロ(NPP)」はまだまだ日本には馴染みが薄いが、その先行的論文を書いた、クリスター・ステンダールの論文
Krister Stendahl, “The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West” in Paul Among Jews and Gentiles (Philadelphia: Fortress), 1976, pp. 78-96. First published in English in Harvard Theological Review, 56 (1963), pp. 199-215
もNPPの議論がE.P.Sandersによって1970年代後半に火をつけられるまで、独立峰的であったようだ。
このように研究の最前線にいる者達がいかにも最初に発見したように思うことも、その萌芽的なものがそれ以前に既に指摘されているようなことはあるものだ。
ところで筆者は、デーヴィースのこの本をたまたま古本で探して購入して読んでいた。
まだ本格的に「新約聖書学」に興味を持つ前だったように思う。
いや、もしかしたら、既に購入していたが、関心を持つようになってから後読んだのかもしれない。
とにかく次にデーヴィース繋がりで話題にしたのは、E.P.SandersとMargaret Daviesの共著、Studying the Synoptic Gospelsの本で、この時点でこのマーガレットはE.P.Sandersの奥さんだと、そのようなことを話した。つまりデーヴィースの娘婿。
ところがたまたま先ほど調べていたら、これは勘違いであることが、E. P. Sanders's Relationship to W. D. Daviesの記事で指摘されていた。
ありゃま、姓名がたまたま一致していただけだったなんて・・・。
E.P.Sandersがデーヴィースの弟子であり、デーヴィースの研究を更に推し進めた、と言う関係からも、二重に勘違いが強化されたようだ。
と言うわけで真夏の暑い日のとんだ勘違い、と言うお話でした。
2012年8月25日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
8月26日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「御霊のために蒔く」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(89)
ガラテヤ人への手紙(77)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう
(B) 6:6-10 善を行なう
8月26日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「御霊のために蒔く」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(89)
ガラテヤ人への手紙(77)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう
(B) 6:6-10 善を行なう
登録:
投稿 (Atom)