2016年1月16日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年1月17日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ人への手紙 2:1-15
説 教 題 「根を下ろす」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(24)/パウロ書簡の学び(141)

(5)組織神学の(入門用)教科書談義

組織神学、と聞いてほとんどの読者は「何それ?」ではなかろうか。

しかし西洋キリスト教神学の伝統から言えば「神学する」とは組織神学のことを言うといっても過言でなかろう。

問題はそのやり方だが、やはり何でもそうだろうが「奥が深い」。

しばらく前とあるブログ記事を読んでいたら次のような嘆きというか失望のことばが紹介されていた。

曰く、
北米及び英語圏の福音派神学校・聖書学校で最も使用されている「組織神学」入門用教科書は○○のものである。

この記事に対してコメント欄にはほぼ一様に「嘆かわしい」側からの当該教科書の批判がなされていた。

その中にこういうのがあった。(まあー皮肉っぽいものではありますが。)
Kyle: Yep, I'm afraid you're right. In the opening chapter of his Systematic Theology (pp. 35-37), ○○○○ offers this truly amazing summary of how we should practice systematic theology: (1) "Find all the relevant verses" on a certain topic; (2) "summarize the points made in the relevant verses"; (3) "Finally, the teachings of the various verses should be summarized into one or more points that the Bible affirms about that subject."

Happily, this procedure "is possible for any Christian who can read his or her Bible and can look up words in a concordance". Wow, talk about "scientific" theology!

That description of theological method is hilarious. I thought I'd give it a try - so here's a systematic theology of pissing (following ○○○○'s 3 steps):

(1) I looked up "pisseth" in Strong's Concordance: 1 Sam 25:22, 25:34; 1 Kings 14:10, 16:11, 21:21; 2 Kings 9:8.

(2) The main point in these relevant verses is that the person "who pisseth against a wall" will be condemned and cut off.

(3) Therefore, here is what the Bible affirms about the subject: we should always use the restroom, and all those who piss on walls should be excluded from the church.
○○○○通りに神学すれば、「路上で用を足す者は教会から除外される」となる。とまあからかいコメントですね。

今度のコメントは○○○○の批判ではないですが、教科書の目的は「簡便な回答を与える」ことではなく、実際に神学頭を使うことだ、と申しております。

Hi Les and JBH -- thanks for your comments. And I agree: I hope we can avoid "erudite muck flinging"!

I also agree with you about the charismatic sections of ○○○○'s Systematic Theology -- I think this stuff is very interesting and creative, and it has helped to foster serious theological reflection on Pentecostal/charismatic experience.

But I still can't help feeling discouraged at the popularity of ○○○○'s book as a classroom text -- there are plenty of better books available! In particular, a good theological textbook should model actual theological thinking, instead of merely providing students with the illusion of ready-made answers. After all, many theological students will go on to become pastors: and in pastoral ministry, what's needed is not ready-made answers, but the ability to think theologically in new and unpredictable situations.
今度の方はシンガポールの方ですが、○○○○は退屈だ。それよりマクグラスの方がいいよ、と申しております。

(さらに脱植民地国で神学談義がこれほどつまらないのは、○○○○が圧倒的人気を博しているからかもしれない。と申しております。)

Hi Ben,

Though it's very late for me to comment yet the post and your question are irresistibly intriguing.

Over at Trinity Theological College, Singapore, McGrath's 4th ed. text is preferred as it's a good introduction to theology.

And that'll also lead the students to McGrath's other advanced works.

On the other hand, ○○○○'s text is surprisingly very dull. When I was looking for a systematic theology text, I'd never got enough reason to get ○○○○ though its latest edition's front cover is beautiful.

Not sure if his text is that popular worldwide, but it seems to be so in my part of the world.

If it's true that ○○○○ is the most widely used text, then no wonder the theological scene, especially at post-colonial countries like Malaysia and Singapore (where I'm from), is generally dull and unexciting as compared to other parts of the world.


以上、

2016年1月13日水曜日

(3)教養の危機かなー

ここ1-2年、ツイッターのTLを眺めながら通奏低音のように響く問題の一つが「教養の危機」ではないだろうか。

グローバリゼーションが叫ばれ、「国際競争生き残り」が至上命題みたいに印象づけられる中、大学の「一般教養」がどんどん解体され、実学志向が明瞭となり、「哲学いらない」「文学いらない」「人文科学もいらない」風になっているようだ。

人文科学って「ヒューマニティー」ですよ。
人を人たらしめる精神的伝統を軽視するんですか。
といっても西洋ルネサンスの態度を、文化を明治期に輸入しただけ、といやそうなのかも知れませんが・・・。

 

今日はたまたまこの本の書評がツイッターで紹介されていた。

[2016/2/28追記 シノドス・ジャーナルで著者の音楽ジャーナリスト・菅野恵理子が「ハーバード大学は『音楽』で人を育てる――アメリカのトップ大学が取り組むリベラルアーツ教育」と題して短い紹介記事を書いている。]

翻って日本の大学は、実学中心へと方向転換しつつあり、「文学部不要論」まで出る始末だ。けれども、ビジネスや外交の場において信頼や共感を得るにも、教養に裏打ちされた人間的魅力は不可欠だと思う。
評者の松村由利子さんは元新聞記者の歌人だ。

「教養の危機」に対するささやかな抵抗を込めたコメント、と受け取った。

さらに以前このブログで取り上げた北川東子氏の教養についての文章を再読したが、「教養の危機」はやはり深まったように思う。
私のセンサーがとらえた兆候のどれもが、「二一世紀的教養」とは、国際的な破壊の流れのなかで生き延びていくための人類的な智慧のことであり、あるいは少なくとも、この智慧を可能とする知的戦略であることを暗示している。

昨年「イチオシ」で取り上げた水村美苗『日本語が亡びるとき』も、インターネット・英語連合軍というグローバリゼーションに対する日本語・日本文学という土着教養伝統の危機を警鐘し、防衛戦略を提示するものであった。


段々組織的な抵抗を考えていかないとなー・・・。

2016年1月11日月曜日

今日のツイート 2016/1/11

今日はいわゆる「連ツイ」というのを。

で(最初の以外は)「埋め込み」ではなく引用で。

私は1990年からドイツに住んでいるが、過去25年間に日本で今ほど欧州が注目されたことは、一度もなかった。これらの事件の余韻はまださめておらず、2016年にも長い影を落とす。

*イスラム・テロとの戦い
  最も大きな影は、イスラム過激派の脅威が欧州の街角に到達したことだ。残念だが新春の欧州は、テロと戦争の暗雲に覆われている。

2016年1月9日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2016年1月10日(日) 午前10時30分

 
朗読箇所 ペテロの手紙第一 2:18-25
説 教 題 「たましいの牧者」
説 教 者 小嶋崇 牧師

こころ(1)

2016年1月8日金曜日

(3)涙とともに種を蒔く者

聖書の中にはそれほど難しいことではないが、いま一つその意味がしっくりこない箇所は多々ある。

かなり昔に書かれたというだけでなく、背景となる文化や生活基盤がいまと大分異なることを考えれば当然である。

しかし読みなれた箇所で、分かったつもりでいて実はよくその意味を知っていなかった、ということは時々起こる。

もちろんそう言うときは「目からうろこ」の体験をするときだ。

この動画で、現在デューク大学神学部の学部長代行をなさっているエレン・デイビス教授がそんな体験を語っている。

5分20秒辺りからの場所だが、詩篇の一節を引用する。

涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(詩篇126:5-6)

そして語る。
「なぜ涙とともに種を蒔くのだろう、と長年思っていた。
しかしアフリカに来て、ここのクリスチャンたちと一緒に働くようになって知った。
種を蒔くとは、二つのうちの一つを選択することなのだ。
いまその種を腹を空かせた子どもに与えて食べるのか、
それとも来年の収穫のためにその種を畑に蒔くのか。」
つまり、腹を空かせた子どもたちを振り切って、畑に種を蒔く。とても涙なしにはできない。
そんな厳しい生活が背後にある。


これを見て筆者も「なるほどなー」、と思った次第。

2016年1月3日日曜日

(2)教会巡り2016年

教会巡りについて書くのはこれが第3弾目となりました。

第1弾目第2弾目

今年もこの「教会巡り」が初めての投稿です。

で、まずはご挨拶から。

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
この年末年始も、巣鴨聖泉キリスト教会は主日礼拝が3週連続でお休みとなりました。
 12月24日夜のイブ礼拝を挟む、12月20日と27日の2回。
 元旦礼拝を越えた3日(今日)。

では順にどの教会へ行って礼拝を守ったかご報告します。


12月20日は、日本聖公会東京諸聖徒教会へ。

 近所なのですが筆者の4つ5つある散歩コースからはちょっと外れていて殆ど(教会が)あることに気づきませんでした。

 たまたま数週間前歩いていて古めかしい建物に出くわしたら、それがこの教会だったという・・・。

 それで今度の教会巡りに訪ねてみようと思い立ちました。

 訪れた20日は多くの教会ではプログラムがクリスマスにちなんでいましたが、こちらではほぼ普段どおり(キリスト教暦に基づいた典礼ですから、聖書箇所はクリスマスでしたが)。

 礼拝では聖餐式があり、特別に案内がないので、スキップしようと思いましたが、案内の人が「洗礼を受けていれば、受けてください」ということなので前に進み出ました。

 しかしなんですね、自分が与っている聖餐式の形と違うとえらくハードルが高く感じられました。

 やり方も分からないし。

 そもそも式に伴う聖書の箇所やら、応答文やら、賛美やらが多くて、何をやっているのやら追っかけるだけでやっと。

 ということで参加せずに見るだけでいいや、などと横着な考えになっていました。


さて訳あって次は新年3日の礼拝について。

近所の日本基督教団の教会の礼拝に出席しました。

名前は伏せておきます。

(後から書く教会でのことがあって)何かいろいろ考えることもありました。

何はさておきこの日は聖餐式があり、当教会で用いている式文が日本基督教団のものなのでアットホームな感じで助かりました。

そうそう、配餐の時ぶどう酒とぶどうジュースと両方あったのですが、間違ってぶどう酒の方を取ってしまいました。

しかしこんな風にオプション式にしているところもあるのですね。

説教は・・・少し長かった。

そして「聞きやすい説教」ということをより具体的に、明確に捉えられるようになったので、自分が今後何を気をつけるべきか、という点についての参考になりました。


さて年末、27日の礼拝について書きます。

しかし詳細は書かないでおきます。

その理由を詳細に具体的に書くことができないのがもどかしいですが。

ただ予想もしてなかった「説教体験」だったので、そのことをメモしておきます。

その他のことはみなある程度想定内というか予定調和的に進んだのですが、説教が始まって何か少しずついい意味での「違和感」「意外観」を覚えるようになりました。

 あれっ何かこの説教違うぞ。何が違うんだろう。

明らかにまだキャリアの浅い牧師が、時に声が上ずり、緊張しているのが分かる話し方であったが、次第に不思議な響きの話し(の語り)に引き込まれていくように感じた。

全体で30分少しくらいの長さであったろうか、ほぼ一定のスピードで、声の強弱やアクセントがほぼ皆無の、始めから最後まで静かな佇まいの説教であった。

このちっともドラマチックでない声の調子で語られる説教の内容は、しかし実にしっかりした人物描写や情景描写が配されたドラマチックなものであった。

25年牧師をやってきて、自分の説教の貧しさを感じ恥ずかしくなるような体験であった。

教会に育ち、米国に留学もし、多くの感動的で、エキサイティングな説教をいくつも聴いてきたと思うが、このような説教は初めてだった。

その日帰ってきてから、ずーっと考えている。

 何が違うのだろう。
 あの説教はどのように構成されていたのだろう。
 どのように準備したのだろう。

とても真似はできないが、しかし様々なことを示唆してくれる得がたい説教体験となった。




今回の教会巡りでは、2回聖餐式に与った。

典礼の占める割合というか、典礼的な度合いを5段階くらいで示すと、自分としての居心地のいい典礼度は大体、「2」ときに「3」もあり、といった感じではないか。

今回最初に行った聖公会や以前行った福音ルーテルは大体「3~4」という感じかな。

さて、では今年もこの「教会巡り」でピックアップしたことを参考にしながら、巣鴨教会の礼拝や教会案内に活かしてみよう。