がある。
年齢は多分筆者より二回りくらい若いと思われるが、漫画などポップ・カルチャーに通じ、ソフトな切り口の読みやすい記事が多い。
しかし時に至極“お堅い”記事も書く、硬軟両方カバーするブログとお見受けしている。
さて一番最近記事「これからの経済、政治、宗教」に、
英隆一朗神父の「危機の時代におけるキリスト教の霊性のありかた」
を紹介している。
そして久保木牧師は、特に英神父が「現下の混乱期はファシズムを招来する」、との予測に反応して《橋下現象》や《ナショナリズム台頭》に繋げてご自身の感想を書いている。
最後にこういう風に結んでいる。
最後にこういう風に結んでいる。
ファシズムや原理主義を超えた確かな生き方、アイデンティティを伝えていく…そんな時代からの挑戦にわくわくしながら、向かっていきたいと思わされています。まあ、ともかく、上記の動画をご覧いただければと思います。いろんなブログ上で、活発な議論がなされていく内容の深さがあると思います。
最後の「いろんなブログ上で、活発な議論がなされていく内容の深さがあると思います。」と言う提言に触発されてこの記事を書いているのだが、確かに現状分析、特に「危機面」「大混乱期」であることを色々具体的な事例を通して解説していて面白い。
久保木牧師も反応した動画の最後20分位のところを筆者なりにかいつまんでまとめると以下のようになる。
久保木牧師も反応した動画の最後20分位のところを筆者なりにかいつまんでまとめると以下のようになる。
実体経済が退潮し金融経済(マネーゲーム)に移行している。2008年のリーマンショックで資本主義経済の親玉であるアメリカの没落がはっきりしてきた。過去の帝国の衰亡論から見ても(マクロ社会的)危機的状況は明らか。(資本主義経済は親玉がいて成り立つ。)
英神父の分析と予測はそれなりのバッグ・グラウンド・リーディングがあってのことだろうが、筆者の率直な印象は「ちょっと単純化された構図かな」である。
資本主義によって無縁(地縁・血縁・社縁)社会が促進された。(良い面でもある)自由の代償。
自殺者も年3万人超だが、無縁仏も3万人超。
自然災害も世界的に見て増加している。
社会的混乱が深刻化し、民主主義が崩壊してファシズム国家が出現することが危惧される。そうなると宗教原理主義が出てくる。日本の場合は国家神道。
ワーキングプアが増えて仕事が低賃金外国人に奪われ、自己承認の根拠となる「学歴」も「仕事」も無くなれば、「国籍」が残るだけ。ナショナリズム台頭の温床となる。
こういう危機の時代に「伝統」の復活も起こる。「宗教の時代」が来る。キリスト教も仏教も神道も脚光を浴びる時代が来る。しかし今凋落傾向にあるキリスト教がこの時代にどんな備えが出来ているだろうか、が問題。
最近の二つの「キリスト教ブーム」(明治維新、第二次大戦後)を見ても、社会の混乱期はキリスト教のチャンスだ。
高山右近やキリシタン殉教者の姿勢から学ぶことが多い。
確かに人々は混乱期に「安心立命」を願って宗教を求める傾向はあるだろう。
しかしその宗教が「既成宗教」かと言うとそうとも言えないのではないかと思う。
英神父は同動画で「スピリチュアリティ・ブームはもう過ぎた」と言っているが、ポストモダン状況での「スピリチュアリティ」志向は一過的なものではなく、ポストモダンの宗教性の側面なのではないかと思う。
キリスト教を含めた伝統的な宗教はこのポストモダン霊性と並立して生き延びるのではないかと思うが、伝統宗教のどんな要素が混乱期の人々の求めるところとなるかは宗教団体側の考えていることと一致するとは限らないと思う。
多分に自分たちが再発見される側になる可能性もあるのではないか。
自分たちの気が付いていない、あるいはそれほど重要視ししていない側面に人々が「自分たちの必要な宗教性」を発見するかもしれないのではないか。
仮に英神父の予測が当たって「宗教の時代が到来し」、「キリスト教会が再発見される時代が来た」時、キリスト教会はどんな風にこの「混乱期のキリスト教への期待」を受け止めればいいのか。
これは多分に筆者の直感的印象だが、例えば多くの福音派教会を支配していると思われる「プラグマティック」なキリスト教は余り魅力的に映らないのではないか。
やはりある種の「トランセンデンス(超越)」を希求する「祈りの宗教」が人々の心の支えになっていくのではないか、と思う。
ポストモダン的な嗜好からすると「オーセンティシティー(真心から発している、心底掛け値なしの姿や内実)」が一枚絡んでくるのではないか、と思う。
カトリックや聖公会などのハイチャーチ的立派な祈祷文が「伝統」を反映して心の拠り所となるだけではなく、新しい祈祷文や賛美が必要になってくると思う。
それらの祈祷文や賛美歌は「軽いノリ」のものでは務まらず、人々の心の深さを探って証しするような、つまり人間の霊的部分を掘り下げるようなインパクトを持つ必要があるのではないかと思う。
筆者は久保木牧師のように「わくわくしながら」この時代の挑戦を受ける余裕はない。
「キリスト教ブーム」に果敢にチャレンヂするような宣教姿勢を持つ積極性もない。
ただ時代がどう動いても「ぶれない」キリスト教を模索していきたいと思っている。
さて誰か久保木牧師の提言を受け止めて、このテーマを別のブログで掘り下げて頂ければ楽しいのだが・・・。
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