2011年1月31日月曜日

教派の意味

時々ふらっと普段の時に教会を訪れる方がいる。
そんな方は教派と言う業界用語は用いないが、キリスト教会の中に様々なグループがあることをうっすら意識していて、当教会の教派的背景を知らないことを申し訳なさそうに会話を始められることがある。
日本の場合そんな質問の中で一番多いのは「新教(プロテスタント)」と「旧教(カトリック)」の違いについて、と言う印象である。
プロテスタント諸派について幾分かでも知識をお持ちの方は少ない。

筆者の勝手な「ざっくりとした教派の歴史」を紹介しておこう。

現在多くの教派が存在するが、宗教改革時のプロテスタント諸派は国民教会(ルーテル、改革派、聖公会)とアナバプティスト、あるいは国民教会圏の自由教会運動と言う二つの流れに大別できると思う。
自由教会、ピューリタンの流れから、その後移民して北米大陸やその他の地域に設立した信仰共同体の時代が続く。
いわゆる教派(デノミネーション)教会はこの後の発展系として位置づけられるのではないだろうか。
時代から言うと一番発展したのは19世紀から20世紀、リヴァイヴァル運動や世界宣教運動とも関連していると思う。
どちらにしても「教派」とは、プロテスタント宗教改革後の自由教会運動の延長線上にある、と言えるのではないか。

当教会は「日本聖泉基督教会連合」に所属するが、立場として「ウェスレアン・アルミニアン」を規約に掲げる。基本的には単立教会の連合であり、連合の仕方はバプテストの理念を踏襲している背景がある。

数年前、バプテスト教会連合の理事長を講師に招いて「連合」のあり方や問題についての研修会をしたことがあった。

日本聖泉基督教会連合は前身となる「インマヌエル綜合伝道団」の監督政体の行き過ぎにプロテストして離脱した教会を中心に設立された。だからもともと教団的な統率に対してはアレルギー体質を持っている。
ただ個々の教会においては牧師の監督政体を踏襲してはいたが・・・。

さてその研修会で面白い発見があった。
バプテスト教会と言えば独立心の強いはずのグループだと思っていたのだが、理事長の話では、教団のリソース(指示や援助)に依存する傾向が若い世代の牧師に結構あるのだそうだ。
それに反してもともと監督政体の聖泉は今では個々の教会が独自路線を歩む傾向が強い。
バプテスト連合はより中央集権というか中央依存的になり、聖泉連合の方は独立志向が強くなっている、と言う現状なのである。
お互いのグループのもともとの特徴が交代した形で「今」の姿に現れている、と言う印象を持った。

さて「教派」と言うのは主に自らの教理的特徴を根拠に「教派形成」、つまり自教派の教会増殖をしているのではないかと思うが、最近ふと考えてみると、聖泉連合などはそれほど自己の教派的特徴(ウェスレアン・アルミニアン主義)には拘泥していない風がある。
昔は「聖別会」が連合レベルでも各個教会レベルでも持たれていたが、今では殆んど聞かなくなった。
今や「ホーリネス」を大看板にしている教会は少ない。それよりも個々の教会のニーズや現状に合わせて教会形成がなされているようである。
聖泉連合はもともと教団色を持たないから自然の成り行きと言えばそれまでだが、教理的な意味での「教派的特徴」はかなり後退している。

周りを見ても同様な傾向は強いのではないか。
昔ほど教理的伝統に対する執着がなくなり、教会成長的なプラグマティックな傾向が強くなっているのではないか。

筆者の印象では教理的な視点からの「教派形成」、いわゆるデノミネーショナリズムはだんだん過去のものになっているような気がする。
20世紀以降何が各教会の指標にになってきたかと言うと、それは「福音派対自由主義派」であったり「聖書論」であった。
しかしそれを取り巻く神学的文脈もまた変わりつつある。

だから現在でも「教派」として自己増殖するような目標の掲げ方はその存在理由をどこに求めるかと言うことで、神学的・教理的なのか、それとももっとプラグマティックなものなのか、自問自答してみる必要があるのではないか。

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