2011年1月12日水曜日

イランのクリスチャンのために

以前「イラン・コネクション」でも少し紹介しましたが、困難な中でイラン宣教は進展しています。

しかし昨年クリスマスから福音的キリスト者の逮捕や拘束がエスカレートしているようです。

詳しくは「イラン・コネクション」で紹介した、ウェッブサイトELAMの"70 Christians Arrested"
のレポートや、Voice of America のニュース記事をご覧ください。

福音的クリスチャンによる働きで、イスラムからキリスト教に回心する者が増えているのが背景にあるようです。
当然イスラム国家において権力によるこのような強圧的な威嚇は予想されることですが、主の守りとイランの教会が権力の威圧に屈しないよう勇気が与えられるよう、お祈りください。

4 件のコメント:

  1. もともとイランは国教が定められていて、先祖伝来の宗教を信じることは合法ですが、国教以外の宗教への改宗は死刑の対象です。
    そういった意味では、キリスト者への迫害も「合法」ということでしょう。
    ここでは個々の国名には言及しませんが、信教の自由が保障されていない国は意外とたくさんあります。
    日本はキリスト者が少ない・・・など、いろいろありますが、信教の自由が保障されている点は感謝しなくては!と思います。

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  2. Meeさんコメントありがとう。
    信教自由の権利確立は西欧においても簡単ではなかったですね。
    イランはイスラム革命前のパーレビ国王時代に西洋化世俗化政策で、急速に近代化しようとした歴史があります。
    その反動のイスラム革命から30年が経ち、現在の政府に対する不満分子は増えているようです。昨年でしたか結構な規模の政治デモもありました。政情不安な中、内務省による今回のような威圧は単にクリスチャンだけに向けての示威行為ではない可能性もあります。
    何はともあれ信教自由の権利は人権のコアに関するものだと思いますので、単に国情の違いでは済まされない問題だと思います。
    中国での人権問題もそうですが、国際関係において人権に関する取り扱いは大きなウェートを占める可能性があります。通常は経済原理がオールマイティーのように見えますけどね。

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  3. 第二の宗教改革者2011年1月16日 19:31

    先祖伝来の宗教を信じる人が、イエスを信じることを決心したとします。そうした人は、これまでの宗教習慣や先祖からの伝統、親族との人間関係を捨て、西洋で発達した教会制度や習慣(クリスマスを12月25日に祝うとか)やバプテスマを受ける(伝統的宗教団体から離れ、キリスト教会の会員になる)という慣習に従う必要はあるのでしょうか? とくにイランのような厳しいイスラム圏においては、命をねらわれることになります。

    イエスはそのような福音を伝えたのでしょうか?イエスは、宗教籍を変える、洗礼を受けるということを、福音に含めていたのでしょうか? 
    これは、西洋がイエスの福音に付け加えたことにすぎないように思うのですが、どう思われますか。

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  4. 第二の宗教改革者さん、コメントありがとうございます。
    ご質問は一般論のようですが、例としてイスラム圏のような場合のことも含まれていますね。
    既成宗教が共存する中で宗教を変える場合、その意義は多分に一宗教から他の宗教に移籍するような意味合いになりかねません。
    しかし、イエスを信じるとは使徒的な意味ではどういうことでしょうか。原始キリスト教の文脈ではそれは宗教の選択ではないと思います。イエスを唯一の主とすることです。異邦人の場合には偶像を捨てて生ける神に立ち返ることです。そしてイエスを主とする信仰共同体に加わり、主の召しに相応しく歩み始めることです。その時「キリストにある新しい人」として生きるために「古い人(古い習慣」を脱ぎ捨てて行くことを使徒であるパウロは勧めています。
    宗教制度化したキリスト教(西洋に限らないと思いますが)では往々にして洗礼の持つ本来的意義が失われ、「文化的キリスト教」への通過儀礼として機能するようになってしまっていると思います。
    問題はそのような機能に化してしまった洗礼を受けなければならないかどうかではなく、本来の洗礼の意義を回復できるかどうかだと思います。
    イランの教会は多分に地下教会として進展しているようです。もちろん危険を考慮してです。それでもなお人々は「福音」に飢え乾いているのです。そしてイエスを信じた元イスラム教徒は、内発的にイエスをメシヤと証ししている、と言うのが実情だと思います。
    迫害下の教会は原始教会も含めて、指導者の場合は殉教の可能性があります。遠藤周作の『沈黙』ではありませんが、棄教したように見せて、しかしひっそりと信仰を保持する人はいるでしょうね。その選択はご本人のものであり、他人がとやかく言えるようなものではないと思います。
    ただそれは個別のケースについて言えることであって、イエスに倣う、イエスに従おうとする者は、イエスを主と告白する場と機会を吟味して行動すると思います。それが弾圧や投獄を意味する場合、敢えてそうすることはその人の信仰の選択として大いにあり得ると思います。
    ご質問の回答になっているかどうか分かりませんが、そんなことを思いました。

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