2011年1月11日火曜日

神の国の福音

先日「神のことば」と題したポストにコメントと質問を頂いた。

「神のことば」ポストは、現代福音派の大衆的福音理解に疑問を投げかける一方、使徒的福音はどういうものであったかを素描したものだが、その中には「神の国」と言う表現が含まれていない、と言う指摘を頂いた。では使徒的福音は「神の国の福音」が前提されているのか、繋がりがあるのか、と言うご質問である。

以下、「神のことば」ポストと文脈をなるべく合わせながら、「神の国」の福音とはどう繋がるかを説明してみたい。

「神の国の福音」はマルコの福音書によれば、バプテスマのヨハネが、そしてイエスが宣べ伝えた福音です。「二つの福音?」でも指摘したように彼らの預言者的警告と福音は 「イスラエルに向かっての福音」と言う民族的、時限的性格を持っています。

この「神の国の福音」はイエス・キリストの十字架と復活の出来事において集約した形で成就しました。だからイースター後の使徒たちは「神の国の福音」を「イエス・キリストの福音」として宣べ伝えたわけです。

問題は、現代福音派の大衆的福音理解における十字架贖罪一辺倒の提示の仕方です。
キリスト教は「十字架で死んだ自称メシア」を教祖としては発生し得なかった、と言うことがこのような福音提示では抜け落ちてしまいます。
当時のユダヤ人にとってメシア運動指導者が十字架刑に貼り付けになって死んだら、最早運動はそこで一巻の終わりです。そんなメシアはメシアでなかった証拠のようなものだからです。

ではなぜキリスト教は発生し得たのか。イエスが死者の中から復活した事実と、弟子たちがその事実をもとに(復活したイエスに導かれて)聖書に従ってそれまでの自分たちの「イスラエル物語」を再解釈したからです。(ルカ24章)。

「神の国」はバプテスマのヨハネが、ナザレのイエスが造語した単なるスローガンではありません。「神の国」は終末を指し示す表現です。
それは、旧約聖書の預言者たちが、「ヤハウェが王となってイスラエルの繁栄を回復される時、つまり終末に起こるであろう事柄」を要約する表現です。

表現上「神の国」に最も近いものとして、イザヤ52:7や40:9-10を挙げることができるでしょう。
良い知らせを伝える者の足は
山々の上にあって、何と美しいことよ。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、
救いを告げ知らせ、
あなたの神が王となる。」と
シオンに言う者の足は。

シオンに良い知らせを伝える者よ。
高い山に登れ。
エルサレムに良い知らせを伝える者よ。
力の限り声をあげよ。
声をあげよ。恐れるな。
ユダの町々に言え。
「見よ。あなたがたの神を。」
見よ。神である主は力を持って来られ
その御腕で統べ治める
もちろん当時のユダヤ人にとって「神の国」の実現のシナリオは一定ではありませんでした。又現状維持を望む少数派(サドカイ派など)などは「神の国」運動が盛り上がるのに対して政治的に敏感になっていました。
しかし殆んどのユダヤ人たちはメシヤ王によるローマからの武力的解放を期待していたようです。

イエスの「神の国」運動はイスラエルに悔い改めを迫ると言う意味でバプテスマのヨハネを踏襲していましたが、病人の癒しや悪霊の追い出しなど、「既に神の国は来ている」面を示していました。

何はともあれ、「神の国」と言う「終末に起こるであろうと預言されていたイスラエルの復興」に関するストーリーラインは幾つもの解釈を可能にするものでした。
しかし、殆んどのユダヤ人たちはこの「神の国」のストーリーラインに沿ってメシアを期待し、イスラエルの復興を期待していたことには変わりありません。

問題は、エルサレム入城まで期待通りに進んでいたと思われた、彼らの、そして弟子たちの神の国ストーリーラインは、イエスの十字架刑によって破綻した、かに見えた、と言うことなのです。

そう言う訳でユダヤ人にとっては躓き、ギリシャ人にとっては愚かとしか映らない「十字架に架けられたイエス」こそ、神が聖書に証しされた通りに、「敵の手に渡されて苦難を受けた後、よみがえって神の右の座に挙げられた『人の子・メシア』なのだ」、と使徒たちは「神の国」ストーリーラインの再解釈を福音として提示したのです。

筆者は、現代福音派の大衆的福音理解における「十字架贖罪」は、十字架と言う出来事の歴史的なパラドックスを、意図的にではないにしても、予定調和的、救済的論理で覆い隠してしまう、変換してしまう危険がある、と指摘したかったのです。

2 件のコメント:

  1. ご丁寧に解説いただき、ありがとうございました。神の国の福音も、再解釈されて提示されたということですね。

    それにしても、福音は贖罪のみで終わらないのに、いつのまにか他の要素が抜け落ちてしまったことは、ローザンヌ会議でも指摘されたように思います。

    私たちはしっかりと、福音のもつ広がりを受け止め続ける必要がありますね。

    返信削除
  2. クレオパさん、続きを読んで下さって言わんとしたことを受け止めて下さりありがとうございます。
    「神の国の福音」の再解釈と言う概観までは説明しましたが、どのように再解釈されたのか、と言うニュアンスまでは内容的に書き込めませんでした。聖書神学的にはかなり面倒な概念的説明を必要とするので、とても一つのポストでは扱えませんでした。
    又機会を見つけてということで宿題にしたいと思います。

    返信削除