話が前後しているが、自分が通う教会も決まり、何か非常に落ち着いた感じがした。
又今までの留学地ではどこもキャンパス内か、キャンパス付近の教会に、ただ日曜礼拝に出席するだけであったのが、イーストベイ・フリーメソジスト教会ではまさに教会コミュニティーと言う感じであった。
それまで知らなかった日系人社会、特に20世紀の初め頃(より正確には1920年代くらいだろうか)、移民政策でたくさんの人がアメリカに一旗上げようとやって来た歴史を本ではなく、教会に通うおじいさんやおばあさんの話から聞くことができた。(彼らは一世と呼ばれる。)
農夫やガーデナ(園芸士)など苦労して仕事を得、家族を支え子供には良い教育を与え・・・と、ひとかたならぬ苦労があったことが窺い知れた。
戦争中は自宅財産を没収され、ユタやアリゾナの砂漠にある強制収容所に入れられ、と言う格別の苦節をも通った。(その時の話は余り聞くことは出来なかったけれど・・・。)
と言うわけでバークリーの7年間は勉学よりも日系コミュニティーとの接点の方が濃かった。
ヨタヨタしながら、のろのろペースで総合試験にパスし、博士論文内容申請のための指導教官を依頼し、申請書を書き上げるまでにほぼ5~6年かかっていた。
博士論文の内容は論文コミッティーの一人バークリー校の社会学教授で日本でも知名度の高いロバート・N・ベラー教授の『市民宗教』の概念を用い、アメリカ市民宗教と日本市民宗教を歴史的に比較する、と言うものだった。
日本型市民宗教のモデルに選んだのは明治期の天皇制。
論文申請(テーゼとアウトライン及び簡単な内容説明)を書き上げるまでに時間を食い、パスだけしたところで時間切れ、と自分の方からギブアップしてしまった。
中には時間を置いて論文を書き上げる人もいることはいるが、自分にはとてもそんな気力もないと潔くあきらめてしまった。
まあー簡単に言えば「挫折」です。
その日はさすがに泣いた。
こうしてケンタッキーを振り出しに始まった筆者の米国遊学はついに終幕を迎えることになったわけである。実質11年半の滞在期間は人から見れば無駄な贅沢なものだろう。自嘲気味に「遊学」と呼ばざるを得ない理由でもある。
それでも「挫折」と共に色んなことも吸収した青年時代、と言うことにしておこう。
※あれだけ長い間米国に滞在したのに、帰国後は一度も行っていない。バークリー時代の知人とは度々訪日した時に顔を合わせる機会があったのだが、自分から行こうと言う気持ちがなかなか芽生えてこない。
そんな訳だから、お世話になったイーストベイ・フリーメソジスト教会の梅北牧師始め、一世の方々が次々と召天される報を聞き淋しい限りである。
GTUでお世話になった、M・J教授も、J・C教授も現在は違う学校で教鞭を取っておられる。
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