2011年1月26日水曜日

説教についてあれこれ

牧師の仕事と言えばプロテスタントの場合は説教が中心、と言ってもいいかもしれない。

牧師になって、説教をするようになって、既に20年が経つわけだが、まだベテランの域にも達していない段階で何をか言わんや、である。でも説教について現在どう思っているか書いてみよう。

説教のスタイルは人それぞれである。
神学校の説教学では「3ポイント」の論理的展開型がモデルであったが、実際に説教するようになってそのような模範的な説教は殆んどしたことがない。

確かに3ポイント位にまとめると記憶のためにも、話の展開を追うためにも利があると思うが。

筆者が「守っている」のは時間制限。30分以内が目標である。最近はほぼ守られていると思う。

人によっては説教の原稿を作り、それを読み上げるタイプの説教をしている方もいるかもしれない。筆者も若い頃は、会衆を前にして原稿のようなものがないと不安になることもあったが、原稿を書くまではやらないで来た。

と言っても、説教要旨・アウトラインのようなものはその日の週報に書いてある。場合によってはそれを読み上げるような時もあれば、会衆が読んだことを前提で話を進める場合もある。最近では後者の場合の方が断然多い。

若い頃は一回説教終えると、解放感と言うか安堵感で胸が一杯になったものである。「あーこれでしばらく説教から解放される・・・」と言う風に。
やはり一種のプレッシャーなのである。人前に立ってある時間しゃべると言うことは・・・。

説教は一つのパブリックスピーチであり、コミュニケーションであるから、一方的にしゃべってはいても聞く側の反応を見ながら間を取ったりアクセントをつけたり、などと言う工夫が必要になるのだが、筆者の場合そこまで気にしてやってこなかったように思う。
自分が考えて用意したことを表に出すだけで精一杯の時の方が殆んどのような気がする。
この辺はまだまだ進化しなくてはならない。

説教をするようになってある時ふと気が付いて驚いた表現がある。それは説教を「取り次ぐ」と言うこと。何に驚いたのかと言うと、そのニュアンスにあるシャーマン的な可能性のことである。
一番平易に取れば「取り次ぐ」は伝言するくらいの意であろう。しかし誰のことばを伝言するかというと、これが「神のことば」と言うことになる。

通常は書かれた聖書を解釈して語る、と言う意味で用いているのだが、場合によっては聞く側の方に(語る側の方でも)「神様から私への直接の語りかけ」を期待するようなニュアンスがあるのではなかろうか。
まっ、口寄せや霊媒とは次元が違うとしても、何かしらただの人間に過ぎない一牧師の語る言葉が神様からのパーソナルなメッセージとして聞きたいと言う願望が時にあるのではなかろうか。
勿論時として結果的に「このメッセージは自分に直接語られたように思います」などと言う後日談は聞くことがあるが。

いや筆者の場合はそのようなことを聞いたことは殆んどないが。
むしろ説教をどのように聴いていただいたのか、その手応えが殆んど分からないことが多い。
反応を示してくださる方はいないわけではないが、大抵それは「先生の話は難しい」と言う評が多い。

あれこれ思いつくままに書いてきたが、目下の目標は「説教をするだけの牧師」から、「説教家」らしい方に少しずつ進化して行くことではないかと思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿