2011年1月7日金曜日

バルト父子

先日「新年の祈り」に登場した「ブルームハルト父子」
・・・ほど有名ではないが、あの20世紀最高の神学者の一人、カール・バルトにもちゃんとした新約聖書学者の息子がいるのです。
マーカス・バルト

筆者は情けない話だがカール・バルトには触手が伸びない。あの教会教義学と言う大著がエベレストのように見えて最初から登る気が起きない。
彼の著作は僅かに「新約聖書における国家」と言ったタイトルの小論を読んだだけである。

しかし、マーカス・バルトの方はと言うと、これが偉大なる父の陰に隠れて余り人々の口に上らないが、読んでみると非常にいいのである。

どういいのかは一言で言えないが、ライトを結構読んでから彼の書いたもの、例えば「イスラエルと教会」「義認」を読むと、「へえー、何だもうこんなことを彼は30年前に言っていたんだ」と言う箇所がいくつも見つかる。

マーカス・バルトは時代の先を行っていた印象がある。

さて、「のらくら者の日記」によると「更にN.T.ライト博士」で、何と日本人のブログ上で「ライト」のことが議論されている、と言うではないか。
小海キリスト教会の水草牧師、よく存じ上げないが、山崎師、そして最近のコメントの追加には、えんどうさん、とライトの義認論について討論が繰り広げられている。
どうやら筆者の主宰する「N・T・ライト読書会」も一役買っているようである。
喜ばしい、嬉しいことである。
プロにせよ、コンにせよ、こうしてライトが取り上げられて論評されることに大いに溜飲の下がる思いがする。

おっと、このポストの主役はライトではなく、マーカス・バルトであった。
彼の小本「義認」から少し紹介しよう。

特に先日の「神のことば」で取り上げた、現代福音派の救済理解に関することで、特に「私のためにキリストが身代わりとなって死の罰を受けてくださった」と言うキリストの代理の意義に関してバルトが以下のような解釈を提示している。
This does not mean that the accursed Christ dies in the place of those whom he represents. On the contrary, when the king who typifies all Israel dies, every one of his servants is "crucified with him." ...In turn, since the Israel that Jesus Christ represents is representative of "all fresh," the whole world, every man is also "co-crucified" with Christ. Whether or not all men know yet of this death, whether or not they believe in God and in the Messiah and witness he has sent, they are legally dead. The delivering over of their advocate is fatal for them. His death is their death.
つまり「身代わりに死んだ」のではなく「代表として死んだ」のであり、故にキリスト者はその代表死(と復活)に与るのである。 このような解釈が、ガラテヤ2:19-20にも活かされるはずであろう。
現代福音派の理解はバルトが脚注で以下のように警鐘を鳴らしているように、極めて主観的、実存的「私のために」になる危険があると言わねばならない。(イタリックは二引用とも筆者のもの。)
It is shown especially by Rom. 5:6-8 that "for us" of Christ's death was already in effect "while we were yet sinners." The representative function of Christ's death depends on God's commission and recognition-not on the faith and conversion of men.
実はこのマーカス・バルトを高く評価しているのは、「ユーアンゲリオン」ブログ(右側にリンクあり) のマイケル・バード師もその一人である。

果たして息子マーカスの方の著書は邦訳されているのであろうか。
もしされていないとしたら大変残念である。

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