2014年2月27日木曜日

(4)ナラティブの闘い

先日図書館で借りてきた
「夢を見るために 毎朝僕は 目覚めるのです」
村上春樹インタヴュー集 1997-2011
を読んでいる。

半ばを少し越えたところで、引用したい箇所が見つかった。
 その文章の中で僕が言いたかったのは、地下鉄サリン事件とは、彼らのナラティブと、我々のナラティブの闘いであったのだということです。彼らのナラティブはカルト・ナラティブです。それは強固に設立されたナラティブであり、局地的には強い説得性を持っています。それゆえに多くの知的な若者たちがそのカルトに引き寄せられました。彼らは美しい精神の王国の存在を信じました。そして彼らは我々の暮らす、矛盾に満ちて便宜的な社会を攻撃しました。彼らの目からすれば、それは堕落したシステムであり、破壊すべきものだった。だから彼らは地下鉄を攻撃しました。騒擾(そうじょう)を引き起こすために。彼らは自分たちに与えられたそのナラティブを強く信じていたからです。彼らは自分たちのそのようなナラティブが絶対的に正しく、他のナラティブは間違っており、堕落しており、破壊されるべきものだと思い込まされていました。
 たしかに我々自身、この便宜的で堕落した社会に暮らしている我々自身、ここにあるナラティブは間違っているのではないかと考えることもあります。でも我々には他に選びようもないのです。デモクラシーやら、結婚制度やらにうんざりすることがあったとしても、なんとも仕方ありません。それでなんとかやっていくしかない。もちろんそれらはぜんぜん完璧ではなく、多くの矛盾に満ちているけれど、それらはとにかく歳月をかけて、それなりのテストを受けてきたものです。それが我々の手にしているナラティブです。
 僕は多くの人にインタヴューをすることによって、それらの「普通のナラティブ」を地道に採集していたのだと思います。現実にそこにある、リアルなナラティブを。それらは決して見栄えの良いナラティブではありません。しかし本物のナラティブです。そして僕はそれを『アンダーグラウンド』という本の中にまとめました。そしてその本が刊行されたあとで、教団信者の人々にインタヴューを試みました。彼らは能弁で、進んでいろんなことを語ってくれました。頭もいいし、知的な人々です。いわゆる「一般の人」よりは興味深くもあります。でも彼らがどんなことを語ったのか、僕には今ではよく思い出せません。彼らの話には多くの場合奥行きのようなものがなく、皮相的だった。ちょっと強い風が吹いたら、みんなどこかに飛んでいってしまいそうに思えました。でもいわゆる「一般の人」が話してくれた物語は、きちんとあとに残るんです。そこには本物の重みがあり、本物の中身があります。その話は知的でないかもしれないし、聡明とは言えないかもしれない。ある時には退屈かもしれない。でもそれはちゃんとあとに残るんです。全部で六十人以上の人々にインタヴューをしたあとで、僕はそのことに気づきました。 彼らの話しはどれも、僕の心に、頭に、魂に残っています。僕がその経験から学んだことは、物語というのは、たとえ見栄えが悪く、スマートでなくても、もしそれが正直で強いものであれば、きちんとあとまで残るのだということでした。(362-363ページ)
『アンダーグラウンド』については既に読後感想を書いた。(リンク

村上春樹の本は半分位は読んだと思うが、今回このインタヴュー集を読んで、彼の小説の創作過程がどのようなものであるか少し知ることが出来た。

簡単に言うと彼の紡ぐ「物語」は知的に操作(構成)されたものではない、ということだ。

村上にとって小説を書くとは、何か一つの印象に残るような情景とか、本当に簡単な文章の切れ端をある期間ためて熟成させたあと、それが物語りとなって生成していくのを、ライターである村上が追体験して書きとめるような作業なのだという。

それはゲームを作りながら同時にプレーヤーとして楽しむような感じだという。

彼は「書く作業」はかなりきついという。
だから身体、心とも十分準備してかかる必要があるという。

まっ、そんなところが読んでいて面白かった。

話をオウム真理教に移そう。

村上は引用文冒頭で、地下鉄サリン事件を「ナラティブの戦い」とまとめている。

それは彼が事件被害者のインタヴューと、オウム信者のインタヴューとを終えて抱いた率直な感想なのだと思う。

興味深いのはオウム信者が紡ぐナラティブではなく、事件被害者家族の日常にナラティブに「本物」を見ていることだと思う。

村上自身は自分を「普通の人」とよく定義する。

そして自身が翻訳するレイモンド・カーヴァーなどブルーカラーの出自を持つ作家の紡ぐナラティブに親近感を抱いているようなのである。

牧師として「キリスト教を語る」時、しばしばキリスト教の専門用語を使うことになるのだが、単に上手く説明しただけでは説得力がない(と思われる)理由の一つは、「日常世界」と言う『主要なリアリティー』(アルフレッド・シュッツの現象学的社会学で提出された様々な「リアリティー」のアンカーとなるもの)にしっかりと切り結んだナラティブを提供できていない、と言う事があるのかもしれない。

しかしだからと言って「普通のナラティブ」にどれだけの力があるか、と問われたら村上のようにその体験を深く掘り下げてナラティブとして再構成し、その中で「喪失」を位置づけ、ある程度「意味の混乱や欠落」のようなものに対峙することになるのではないか。

(忘れてならないのは「ユーモア」が必要だ、と村上はしばしば言っていることだ。)

ちょっと蛇足だが、加藤周一は日本人の世界観・価値観を「この世主義」のような表現でまとめていたが、日常世界に対する超越を認めず、ひたすら日常を洗練し、特に美的に洗練することで「聖の意義」を獲得していた、みたいなことを言っていたような印象がある。(最近全然読んでいないのでかなりあぶなかしいが・・・。)



2014年2月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年2月23日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨナ書 1:1-15

説 教 題 「神の命令と嵐」
説 教 者 小嶋崇 牧師

 
ヨナ物語(1) 1章・・・ヨナの逃亡

2014年2月20日木曜日

(3)機能的意味等価性

暫く前にちょっとした騒ぎとなった本がある。

濱野智史の前田敦子はキリストは超えただ。

このタイトルを目にして筆者が思わず呟いた(ツイート)が拾われ、ネットのニュースに名前を出され、その後週刊誌の記事の取材まで受けた、と言う因縁めいた本だ。

 まさか自分までがこれに絡んでネットメディアに巻き込まれてしまうなんて、ちょっとした「心の傷」を負った。(勿論冗談の意味で)

 その後遺症もあって、その時は実際に読んでやれと思ったのを控えていた。

 そしてほとぼりが冷めた頃を見計らって図書館から借りて(ここ大事)読んでみたわけである。

 読後感を一言で言ってしまえば、両価的、と言おうか・・・。
 それを説明する前に少し長くなるが著者の「AKB(あっちゃん)回心体験」を引用してみよう。
 その翌年の第二回総選挙で、あっちゃんは大島優子に一位の座を譲った。その次の第三回選挙で、一位の座に返り咲いた。それは祝福されるべきことである。事実、武道館はあっちゃんコールで沸き立った。しかしそれでも彼女は、自分の存在を快く思わないアンチたちがいることを思わずにはいられなかった。だからこそ彼女は、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」と発したのだ。この、自らを切り裂くような悲痛なまでの願いに、AKBヲタは震撼せざるをえない。その徹底した利他性に感染せざるをえないのだ。
 正直に告白すれば、私はあっちゃんのこの言葉を聴くまで、あっちゃんのみならず、AKBそのものに対しても軽いアンチだった。それまで私は、いまの日本社会でもまだ多数派であろう、AKBに対する無関心層とまったく同じ感覚を抱いていたのである。「なぜ、こんなかわいくない子たちがテレビに出ているのか」「なぜ、あっちゃんのような子がセンターなのか」。私も当然のように、ごく自然に、そのようなネガティブな印象を持っていたのだ。
 しかし私はあっちゃんの利他性に満ちた言葉を聞いた瞬間、ひざまずいた。AKBに転んだのである。あっちゃんがいかに巨大なアンチの悪意に耐えてきたのか、その苦しみを瞬時に直覚してしまったからだ。私のAKBヲタ=信者としての日々は、そこからはじまった。それからというもの、私にはもう、AKBの彼女たちがあまりの輝きを持った聖なる存在にしか、見えなくなっていったのである。(048-049ページ)
投稿題を「機能的意味等価性」としたのは、本人が「キリスト」をAKB(あっちゃん)と言う宗教体験を説明するのに際して取っている方法だからだ。
 簡単に言えば「あっちゃんの利他性」はキリストの自己犠牲と機能的に意味等価である、と主張しているのだ。
 実際タイトルでは「キリストを超えた」などと言っているが、実際には利他性を孕む社会現象の中にAKB(あっちゃん)のような「リトル・キリスト」が出現する可能性があることを示唆している。(特に036-037ページあたりの文章)

 彼は回心とは言わず、「転んだ」と表現している。キリシタンや第二次大戦中の知識人の「転向」を匂わす言葉だ。
 世間的に見てAKB(あっちゃん)を宗教することは彼のようなアカデミックな仕事をしているものには「後ろめたい思い」「恥じらい」があるのかもしれない。

 彼は本の中で何回か「超越」と言う言葉を使ってこのAKB(あっちゃん)宗教の「真正性」を示唆している。

 著者の経験は、ウィリアム・ジェームズの「宗教的経験の諸相」の範疇には入るであろう中身はあるのだと思う。それが両価的といった理由である。

 ただ彼が自己が入り込んだAKB(あっちゃん)宗教現象を過度にキリスト教を参照枠にして説明する時、「超越」が指示しているものが余りにも落差があるのである。

 比較宗教的に言えば「AKB(あっちゃん)宗教」と「キリスト教」では「超越」の内容も、次元も、歴史的存立基盤も比較にならないほど、と感じるのは筆者のような立場の者からは致し方ない第一印象だ。

 恐らく「AKB(あっちゃん)的宗教」と機能的意味等価性を持つ現象は案外日常的にありそうな気がする。世俗化した現代人が「宗教」に感染するのはひとえに免疫がないからではなかろうか。

 オウム真理教を引き合いに出すまでもなく、現代人が潜在的に「宗教に感染する下地」はそれなりにある。

 問題はどのような宗教に引っかかるか、ではなかろうか。

 AKB(あっちゃん)的宗教に感染する程度であれば害はない。
 いやタカラヅカや韓流ドラマや、所謂はまっちゃうものは色々あろう。
 そしてそれらはストレス発散になったり好奇心を興して人生に刺激を与えるポジティブな精神的健康効果があるのではないかと思う。

 でも今のところはそんな位に言っておくのが妥当ではなかろうか。
 「キリスト」や「キリスト教」を引っ張り出して張り合う必要はないように思う。
    

2014年2月15日土曜日

(3)長谷川三千子と現御神

NHK経営委員の一人、埼玉大学名誉教授・長谷川三千子氏の文章が物議をかもしている。

以下そのターゲットとなった小論文(英国ガーディアン紙はエッセイと訳している)を引用してみる。

神にささげるお供へもののほとんどすべては、人間がもらつても嬉(うれ)しいものばかりである。上等の御神酒(おみき)は言ふに及ばず、海山の幸や お菓子の類……。或(あ)るとき神社の奉納のお祭りをごく真近(まぢか)で拝見する機会があつたとき、ちやうどお昼を食べそこねて空腹で、目の前を運ばれゆくお供物に思はず腹が鳴つて恥ずかしかつた記憶がある。あゝ、さぞや神さまも美味(おい)しく召上るだらうなあ、と思つたものである。
 しかしにささげることはできても、人間に供することは決してできないものがある。自らの命である。よく陳腐な口説き文句に「君のためには命をさ さげる」などといふセリフがあるが、言ふ者も聞く者も、そんなセリフを文字通りに信じはしない。もしも本当にさう言つて、女の前で割腹自殺する男がゐたら、(よほどの毒婦でないかぎり)喜ぶ女はゐないであらう。下手をしたら、精神的打撃をかうむつたと言つて遺族に賠償を請求するかも知れない。人間は、人の死をささげられても、受け取ることができないのである。
 人間が自らの死をささげることができるのは、に対してのみである。そして、もしもそれが本当に正しくささげられれば、それ以上の奉納はありえない。それは絶対の祭りとも言ふべきものである。
神道における供物は「神」にとっても、「人間」にとっても、(おいしい)嬉しいものである、と始められている。

 供え物(犠牲)は多くの宗教に共通するものであり、恐らくその意味合いは様々であろう。

 長谷川氏は神道祭儀の一般論を「導入」部分で述べながら、すぐに「人間が自らの死をささげる」と言うおよそ特殊な犠牲的行為を「神に対してのみ」ささげられるものと限定する。

 先日も線路で動けなくなったお年寄りを助けようとして自らの命を落とした女性のことが多くの人に感動を与えた。

 本人は「自らの死をささげる」意図はなかったであろうが、概ね「(結果的に)死に至る」ような自己犠牲は人道的な倫理観、価値観の上になされるものである。

 その場合「死」は目的ではなく、他の人の命なり、何なりを助けたり守ったりするために起こることであって、それを「犠牲」と見るのは人々がそこに何か人間精神の崇高なものを見るからであろう。

 それを「宗教的」な次元で捉えることも可能かも知れないが、一般的には極度の利他的行為とみなすのが妥当であろう。

 重要なことは、長谷川氏がどうやらそのような(人道的な)人間の犠牲的行為とは次元を異にする自死が「神」だけにささげられる特殊行為としてある、と言うことを主張していることである。

 そしてそのような行為は「奉納」、「絶対の祭り」、と言う宗教的(神道的?)言辞によって修飾されることによって異次元化されているように読める。

 野村秋介氏が二十年前、朝日新聞東京本社で自裁をとげたとき、彼は決して朝日新聞のために死んだりしたのではなかつた。彼らほど、人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない。人間が自らの命をもつてと対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中の目の前で、野村秋介はにその死をささげたのである。
 「すめらみこと いやさか」と彼が三回唱えたとき、彼がそこに呼び出したのは、日本の神々の遠い子孫であられると同時に、自らも現御神(あきつみかみ)であられる天皇陛下であつた。そしてそのとき、たとへその一瞬のことではあれ、わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられたのである。
 野村秋介氏の死を追悼することの意味はそこにある。と私は思ふ。そして、それ以外のところにはない、と思つてゐる。
(仮名遣いは原文のまま)引用元
かように、この文章は「野村秋介氏の死を追悼する」ために書かれたものであることが分かる。
 
 しかしここに表されている「野村秋介氏の死」の意義は、長谷川氏による「神学」的解釈に昇華させられている、と捉えても概ね間違いではあるまい。

 このような長谷川氏の「天皇観」が戦後否定されたことへの怨念さえ透けて見えてくるように感じるのは筆者だけであろうか。

 特に朝日新聞を評して
・・・彼(野村秋介)は決して朝日新聞のために死んだりしたのではなかつた。彼らほど、人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない。人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中・・・
と言っているが、ここに「導入」部分において「神」と「人間」に区別した意図が、レトリカルなものであるのが見て取れる。

 朝日新聞ではなかったら、それとは別に「人の死を受け取る資格」がある個人やグループがいたりするのだろうか。長谷川氏にはそれは(今上)天皇陛下をおいて他にはないのだと推測するが。

 「野村秋介事件」の詳細を筆者は知らないが、長谷川氏は「野村秋介の自殺」を(朝日新聞社に対する捨て身の抗議ではなく)「絶対の祭り」と言う神学的意味に方向変換したいのだ、と言う事は伝わってくる。
 (清らかで崇高な『神』へのささげものだった野村の死は、断じて朝日新聞などという『野蛮』な連中に対してなされたものでははない。その汚名を挽回し、その死を浄化したい・・・と言う思惑であろうか。)

 いずれにしても、第二次大戦までの「国家神道」で位置づけられた絶対的天皇崇拝を髣髴とさせるこの文章が、NHKと言う公共放送の経営委員によって発せられたと言うことは意義深いことだと思う。

 長谷川氏が
わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられた
と大胆にも自己の「神学」を論理的に立脚するため、憲法を無視するような物言いをした時点で、「公共放送」の重要職につく資格が大いに問われることは当然であろう。

 このような思想を公言する人物を経営委員に推した首相の責任もまた、いやより重いと言うべきだろう。

 また菅官房長官が「表現の自由」などという理由でその発言の是非を問わない姿勢も大いに問題だ。

 「小川榮太郎」と言う文芸評論家が『靖国の神学・私論 ~安倍総理の参拝が意味するもの~』()と言う文章を書いているが、
 客観的に見るならば、歴史過程におけるすべての戦争は、正しいのでも悪いのでもない、ただ端的な戦争である。すべての戦争は「普通の戦争」なのだと言つてもよい。

 しかし、その「普通の戦争」のただなかに、或る「絶対的なもの」がたちあらはれてくることがある。それは、おそらく世界の歴史を見わたしても、めつたにあることではない。また、それは、そこに居合はせたすべての人に見えるものでもない。むしろ、ほんの少数の人の目にしか映らないと言へるかも知れない。けれども、それは何らかの形で、その同時代の人々、あるいはその後の人々にまで感知されうるものであつて、大東亜戦争のうちには、確かに、さうした「絶対的なもの」が含まれてゐたのである。(長谷川三千子『神やぶれたまはず 昭和20年8月15日正午』29頁)
と、どうやら「長谷川神学」を援用しているようである。

 長谷川氏にしても、小川氏にしても、「絶対的なもの」とはつまるところ何を指すのであろうか。

 天皇か、それとも天皇を「絶対的なもの」と一時的にもせよ日本国臣民が「感じた」ことか。

 どうも平時では感じることが出来ない「天皇=現御神」が、第二次大戦中や「野村秋介事件」を通して特別に啓示された出来事であった、と見定めたいらしい。


 となると、「天皇=現御遠」が発現するためには「絶対の祭り」を要請することになるのではないだろうか。その最も「華々しい」ものは戦争、あるいはそれに準ずるような「お国のための殉死」になるのではないか。
 
 そんな危惧を覚える文章である。  

 どうやら安倍総理の「戦後レジームからの脱却」とは、崇高な自己犠牲によって「絶対的なもの」を作り出すような仕掛けを「作り直す」狙いがあるのではなかろうか。(考え過ぎであってくれればいいのだが。)

 少なくとも長谷川氏の方からはそのように見えているのだろう。(詳しくは《おまけ》を参照。)

《おまけ》
 長谷川氏が「安倍応援団」の一員として「戦後レジームの脱却」を掲げ、「日本を取り戻す」安倍氏の狙いが「大事業」であることを嬉々として語る動画。


明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年2月16日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:1-8
説 教 題 「福音とは、2」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ人への手紙(3)
福音・・・希望

2014年2月11日火曜日

(3)神学遍歴⑪

さてGTU時代のことを話し始めたのだ。

ところでGTUと言う余り名前を聞かない学校のことを紹介しているブログがあったので紹介しておこう。
アメリカ神学校留学ガイドブログ・GTU編

筆者の指導教官となった方を敢えて名前を出さずに書き進めよう。
(別に恨みはないのだが、多少不満は感じていたし、今でも余り良い思い出とは言えない。)

彼はカリフォルニア大学バークリー校の社会学で、(多分ロバート・ベラーの指導で)博士を取った。
インド地域研究と「宗教と暴力」をテーマに業績を上げて今はかなり有名になっている。
9.11以降、メディアでコメンテーターとしてもよく出てくる人だ。

今ははっきり覚えていないのだが、その頃(1982年)はGTUのオフィスはまだ小さな建物の中にあり、彼のオフィスはその屋根裏のような階にあったように思う。

とにかく忙しい人で、盛んに動き回っていた。
GTUの先生と言うより、バークリー校で教えている方が多かったかもしれない。
何しろリベラルな大学だから、彼はなかなか生徒たちに人気があった。

そんなことでこちらはなかなか遠慮してコースワークへの指導や相談などを持ち出すのが段々億劫になった。

彼がGTUで教えていたコースで記憶に残るのは、「比較宗教倫理学」と「ガンジー」のクラスだった。
前者は教科書はプリントアウトで、今は手元に残っていない。

後者のクラスで使った教科書(しかしちゃんと読めなかった)で、ジョアン・ボンデュラントのガンジーの政治哲学(権力との対立に関する実践理論)を扱った、Conquest of Violence: The Gandhian Philosophy of Conflict がある。

邦訳はされていないようだが、所謂ガンジーの取った「非暴力抵抗」をサッチャグラハ(真理把握)の視点から分析したものである。

その中で「犠牲の要素」がサチャグラハの実践として指摘されている。
理性的な議論では相手に通じない時、コンフロンテーションにおいて受苦を選択することになる。
それ(一種のショック)によって相手の視点を変え、抗議する側の道義に気づかせる役割を果たす、と分析されている。

昨年国会議事堂周辺を「特定秘密保護法」成立反対をするデモ隊を「テロリスト」呼ばわりした方がいるが、この辺の「抗議活動」における「暴力」あるいは「犠牲」の解釈は結構近いものがあるのかもしれない。

もちろん物理的な暴力を行使するのは主に権力側だが、自爆テロのようなケースや、チベット僧侶の焼死自殺による抗議は、犠牲と(自分の肉体への)暴力との二面があるのではないかと思う。

都知事選が低投票率に終わり、議会制民主主義の停滞を感ずる中、ガンジーのような非暴力抵抗によるコンフロンテーションによって「真理」を把握する、と言う実践は示唆があるだろうか、少し思いを寄せる機会になった。


2014年2月9日日曜日

(4)スラヴォイ・ジジェク

最近少しずつ耳にするようになったスラヴォイ・ジジェク。

今日は図書館で彼の「ポストモダンの共産主義」を借りてきて読み出した。

初めて彼の名前を耳にしたのは数年前だろうか。
一応「面白そうだな」と思ったがそのままにしておいた。

先日アップした政治神学を書いている時にも何度もジジェクの名前に出くわした。
そろそろ読み時か、と思い借りてきたわけだ。

そんな流れでユーチューブを探していたら、こんなのがあった。



面白かったので思わず2本とも見てしまった。

一緒にいるのは、ウィキリークスのジュリアン・アサンジ、司会しているのはエイミー・グッドマン。

昨年特定秘密保護法が通過した背景にはデジタル社会における情報漏洩があるわけだが、情報公開を巡る政治権力、企業、マスメディアとの駆け引きが紹介されていてそれも面白い。

中でジジェクはユダヤ・キリスト教の遺産としての私的空間における思索の自由(神学すること)、みたいなことに言及していたが、あるいは佐藤優の同志社大学神学部で「・・・虚学であるが故に、危機的な状況で人間の役に立つ神学という不思議な知・・・」と説明していることと通底するところがあるかもしれない。

その他、京都大学の芦名教授のキリスト教学(特殊講義)でも取上げられている。

ジジェクの神学思想の特徴については、ベン・マイヤースの「信仰と神学」ブログで少し紹介されている。(リンク




2014年2月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年2月9日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ローマ人への手紙 15:1-13
説 教 題 「キリストを通して」
説 教 者 小嶋崇 牧師

説教シリーズ:キリスト者の交わり(2)

※礼拝後、昼食会

2014年2月2日日曜日

(1)父と暮らせば

これまでは豊島区の図書館を利用してきたが、暫く前から文京区の図書館を利用するようになった。

きっかけは丸谷才一の「エホバの顔を避けて」が豊島区では見当たらず、ネットで検索していたら文京区の図書館にあったからだ。

予約して取りに行ったついでに「DVDセクション」をちらっと見てみた。

大して数はない。
娯楽的なものは更に少ない。
(寅さんシリーズはかなり揃っているようだが・・・。)

そんな限られた中で見つけたのが「父と暮らせば」。
井上ひさし原作の原爆についての映画だ。



一応評判になった、賞も幾つか取った映画だったような記憶があり、借りてみることにした。

どうも2時間近くも見続けると言うのは苦痛ではないかと思ったのだが、見始めたら終わりまで見てしまった。

原爆という以外全く予備知識がなかったので、原田芳雄演ずる父親がどう言うことなのか最初分からなかった。

ようやく娘の行く末を案じて現れる「死んだ親父」と分かってから、ストーリーが分かり易くなった。

宮沢りえ演じる「生き残った」娘の心の負い目がテーマなのだと、そして何とか父がその負い目から解放しようと画策する姿がコミカルに演じられているのが面白さなのだと、分かった。

ストーリーは淡々と進み登場人物も限られている。

特にうるうるする場面もなく、しかし父が原爆の恐ろしさを「紙芝居」風に語る場面が変に緊張感を持っていた。

最後、ひっそりと余生を過ごさねばならないと自分を追い込む娘が原爆直後の瓦礫の下敷きになった父を回想する場面がクライマックスとなる。

父を見放せない(実際は助けられなかったことを苦にしていたのか)娘が、父から「逃げろ」と促され、板挟みとなる。

じゃんけんで決めることにするが、父はその昔娘をじゃんけんで勝たせる遊びをやっていたらしいのだが、グーを出し続けるが、それを知っている娘もグーを出し続けこう着状態になり、互いに「逃げろ」「見捨てられない」の言い張り合いとなる。

この場面にきてやはり涙ポロリ、となってしまった。

原爆、戦争の悲惨さを父親と娘の情愛の切なさで際立たせたドラマであった。

それにしても木下演じる浅野忠信は存在感薄かったなー。

2014年2月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月2日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 16:5-15
説 教 題 「あなたがたの益」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《御霊の働き》1

※聖餐式があります。