「夢を見るために 毎朝僕は 目覚めるのです」
村上春樹インタヴュー集 1997-2011
を読んでいる。
半ばを少し越えたところで、引用したい箇所が見つかった。
その文章の中で僕が言いたかったのは、地下鉄サリン事件とは、彼らのナラティブと、我々のナラティブの闘いであったのだということです。彼らのナラティブはカルト・ナラティブです。それは強固に設立されたナラティブであり、局地的には強い説得性を持っています。それゆえに多くの知的な若者たちがそのカルトに引き寄せられました。彼らは美しい精神の王国の存在を信じました。そして彼らは我々の暮らす、矛盾に満ちて便宜的な社会を攻撃しました。彼らの目からすれば、それは堕落したシステムであり、破壊すべきものだった。だから彼らは地下鉄を攻撃しました。騒擾(そうじょう)を引き起こすために。彼らは自分たちに与えられたそのナラティブを強く信じていたからです。彼らは自分たちのそのようなナラティブが絶対的に正しく、他のナラティブは間違っており、堕落しており、破壊されるべきものだと思い込まされていました。『アンダーグラウンド』については既に読後感想を書いた。(リンク)
たしかに我々自身、この便宜的で堕落した社会に暮らしている我々自身、ここにあるナラティブは間違っているのではないかと考えることもあります。でも我々には他に選びようもないのです。デモクラシーやら、結婚制度やらにうんざりすることがあったとしても、なんとも仕方ありません。それでなんとかやっていくしかない。もちろんそれらはぜんぜん完璧ではなく、多くの矛盾に満ちているけれど、それらはとにかく歳月をかけて、それなりのテストを受けてきたものです。それが我々の手にしているナラティブです。
僕は多くの人にインタヴューをすることによって、それらの「普通のナラティブ」を地道に採集していたのだと思います。現実にそこにある、リアルなナラティブを。それらは決して見栄えの良いナラティブではありません。しかし本物のナラティブです。そして僕はそれを『アンダーグラウンド』という本の中にまとめました。そしてその本が刊行されたあとで、教団信者の人々にインタヴューを試みました。彼らは能弁で、進んでいろんなことを語ってくれました。頭もいいし、知的な人々です。いわゆる「一般の人」よりは興味深くもあります。でも彼らがどんなことを語ったのか、僕には今ではよく思い出せません。彼らの話には多くの場合奥行きのようなものがなく、皮相的だった。ちょっと強い風が吹いたら、みんなどこかに飛んでいってしまいそうに思えました。でもいわゆる「一般の人」が話してくれた物語は、きちんとあとに残るんです。そこには本物の重みがあり、本物の中身があります。その話は知的でないかもしれないし、聡明とは言えないかもしれない。ある時には退屈かもしれない。でもそれはちゃんとあとに残るんです。全部で六十人以上の人々にインタヴューをしたあとで、僕はそのことに気づきました。 彼らの話しはどれも、僕の心に、頭に、魂に残っています。僕がその経験から学んだことは、物語というのは、たとえ見栄えが悪く、スマートでなくても、もしそれが正直で強いものであれば、きちんとあとまで残るのだということでした。(362-363ページ)
村上春樹の本は半分位は読んだと思うが、今回このインタヴュー集を読んで、彼の小説の創作過程がどのようなものであるか少し知ることが出来た。
簡単に言うと彼の紡ぐ「物語」は知的に操作(構成)されたものではない、ということだ。
村上にとって小説を書くとは、何か一つの印象に残るような情景とか、本当に簡単な文章の切れ端をある期間ためて熟成させたあと、それが物語りとなって生成していくのを、ライターである村上が追体験して書きとめるような作業なのだという。
それはゲームを作りながら同時にプレーヤーとして楽しむような感じだという。
彼は「書く作業」はかなりきついという。
だから身体、心とも十分準備してかかる必要があるという。
まっ、そんなところが読んでいて面白かった。
話をオウム真理教に移そう。
村上は引用文冒頭で、地下鉄サリン事件を「ナラティブの戦い」とまとめている。
それは彼が事件被害者のインタヴューと、オウム信者のインタヴューとを終えて抱いた率直な感想なのだと思う。
興味深いのはオウム信者が紡ぐナラティブではなく、事件被害者家族の日常にナラティブに「本物」を見ていることだと思う。
村上自身は自分を「普通の人」とよく定義する。
そして自身が翻訳するレイモンド・カーヴァーなどブルーカラーの出自を持つ作家の紡ぐナラティブに親近感を抱いているようなのである。
牧師として「キリスト教を語る」時、しばしばキリスト教の専門用語を使うことになるのだが、単に上手く説明しただけでは説得力がない(と思われる)理由の一つは、「日常世界」と言う『主要なリアリティー』(アルフレッド・シュッツの現象学的社会学で提出された様々な「リアリティー」のアンカーとなるもの)にしっかりと切り結んだナラティブを提供できていない、と言う事があるのかもしれない。
しかしだからと言って「普通のナラティブ」にどれだけの力があるか、と問われたら村上のようにその体験を深く掘り下げてナラティブとして再構成し、その中で「喪失」を位置づけ、ある程度「意味の混乱や欠落」のようなものに対峙することになるのではないか。
(忘れてならないのは「ユーモア」が必要だ、と村上はしばしば言っていることだ。)
ちょっと蛇足だが、加藤周一は日本人の世界観・価値観を「この世主義」のような表現でまとめていたが、日常世界に対する超越を認めず、ひたすら日常を洗練し、特に美的に洗練することで「聖の意義」を獲得していた、みたいなことを言っていたような印象がある。(最近全然読んでいないのでかなりあぶなかしいが・・・。)