しかしこれはメモ程度の文章なので、ただそのような思索のジャンルに入るものとだけ言っておこう。
※神学的考察として少し名前や著作を挙げれば、
①H・リチャード・ニーバー「キリストと文化」、などがあるかな・・・。
②ポール・ティーリッヒ「文化の神学」(Theology of Culture)、
もちろん、どの文化(歴史や言語、思想的伝統)で神学するか、と言うことの自覚的反省そのものも「文化の神学」となるのだろうが。
「福音と文化」は日本の福音主義神学では、日本福音主義神学会創設当時ある程度関心の高いテーマであったような記憶がある。(学会誌のバックナンバーで論文タイトルをご覧ください。)
但し、当然ながらそれは「伝道の対象としての日本文化」と言う設定が色濃く出ていて、自省的な方向のものは少ないように思うが。
このブログではまだ「福音と文化」と言うテーマで「日本の文化」の問題について書いたことは余りない。
しかし、「福音主義」という事では主に北米の事情を「社会や文化の文脈」で書いたことは何回もある。
そんな中で「文化の多層性」を睨みながら書いた文章があった。
福音主義キリスト教と文化
ここで用いた「文化の多層性」の整理は、
①メイン・カルチャー(言語や国民的価値観のようなもの)のようなものであった。
②宗教文化(プロテスタンティズムは北米でのメインな宗教文化)
③「福音主義」や「バイブル・ベルト」という宗教でのサブカルチャー
④人種的背景の違いから来るサブカルチャー(スン・チャー・ラーの韓国系福音主義キリスト教)
※先日「いのフェス」で起こったことも、もっと仔細な「文化の多層性」衝突問題として分析するのも、あるいは興味深いかもしれない。
とにかく、このメモ的文章で言わんとしているのは、単に「福音と文化」ではなく、もっと細かい「文化」を捉えて行く必要があるのではないか、と言うことだと思う。
※そう言えば、のらくら者の日記の記事はそのような「細かい文化」の問題ではなく、「文化の古層」「行動様式に表れる潜在的なもの」への実践倫理的問題提起だったように思う。
「空気」と、(丸山眞男が指摘した)日本人の「古層」とには深い関係がある。キリスト教会にとって、福音(メロディー・旋律)も、「古層」(執拗低音)の 問題に取り組まなければ、和音の色彩はすべて変質してしまう。クリスチャンも本書を熟読して考えてもらえればと願う。もっと掘り下げて欲しいのだが・・・。
「日本文化を基底としている、日本文化に規定されている、キリスト者」と言う自省的分析視点を持ちつつ、「日本文化」を宣教の文脈に置かないと、と言うことでしょうね。
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