2016年3月28日月曜日

今日のツイート 2016/3/28

天安門事件、1989年。

その時学生だった唐路さんは今は中国政府の動向を伝えるジャーナリスト。ツィッターで発信する。
「反体制活動家(うち3人は海外)の親族に対する警察のハラスメント・・・。」

こちらは、唐路さんのインタヴュー記事(2013年3月9日)。
中国の動向を観察リポート。 Former Tianamen Square Activist Talks With MPN About Recent Return, "Racist Restaurant"

 

こちらは、天安門事件当時を語るインタヴュー

2016年3月26日土曜日

明日の礼拝案内

イースター主日礼拝
 
2016年3月27日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コリント第一の手紙 15:35-49
説 教 題 「種のはなし」
説 教 者 小嶋崇 牧師



※昼食会があります。

2016年3月25日金曜日

(4)『霊性』を神学する 2

極めてアバウトな『霊性』についての神学的文章を書き付ける・・・という趣向で始めたが、昨年11月に「1」を書いたままになっていた。

一応前回定義らしきものを掲げたので、まず再掲。

霊性とは、「生活の深みに達する実践的宗教の訓練(ディシプリン)」のことである。
その後「霊性」の教会史的発展を段階的にスケッチしてみたが、それも再掲。

(1)垂直的(神への信仰)なものと、水平的(隣人への奉仕)なものとが「固く噛み合っている(分離していない)」あり方・・・モーセの十戒、トーラー・律法、預言者の社会正義観、山上の垂訓、「律法の要約」、などに現れているものと捉えることができる。
(2)修道的生活、瞑想、神との合一
(3)神秘主義、観想的生活
(4)奉仕と宣教の修道(フランシスコ)
(5)脱修道、宗教改革者ルター
(6)世俗内禁欲、職業の宗教化(カルヴィニズム)
最初から種明かしをするのも何だが、実は筆者の関心ある『霊性』は定義にも匂わされている様に、何か特別な修練や修行を必要とするものではなく、「日常」を深くするような、そんなところに表されるものを考えている。

言ってみれば「反・達人主義」といった感じである。

別にそれほど反感があるわけではなく、恐らくプロテスタントの環境に育ったためそう言う因子を知らずと抱えているからだろう。

で、(1)の聖書に見られる『霊性』とは、生活における「神と人に対する従順と奉仕」に統合的に現れているものと考える。(これについてはまだ詳細は論じない。)

聖書的『霊性』は特別な霊的生活を必要としない、という視点がまずあり、それが巡りめぐってプロテスタントの「世俗内召命」に還流した、と見る見方を取っているのである。


さて、そんなあてずっぽうな神学的洞察をいい加減な補強の仕方で取り繕おうと物色していたら、たまたまこんな文章に遭遇した。
映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」
  『あるとき神父様から、あなたにとって
祈りとは何ですかって聞かれたときに、
私はとっさに「生活です」って答えたんです。』
________森のイスキア主宰 佐藤初女
 これはあるブログ記事だが、佐藤初女さんの訃報(2016年2月1日)を紹介したものだ。

祈りとは・・・生活です

まさに筆者が思い描いている非達人的霊性を言っているのではないか、と思った。

ではこれを題材に『霊性』を神学するの(2)を書こうと思い立ち、図書館から何冊か佐藤初女さんの本を借りてきて読んだのだが、このことズバリを言っている箇所を見つけられないままになっている。

まっ、紹介したブログ記事で示されているように、映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」を見ればあるのだろうが、似たようなことは他の本の中でも言っていそうなもの・・・とページをめくってみたわけだが・・・。


実は佐藤初女さんのことは、この文章に出会うまで知らなかったわけではない。

いや、実は会ったこともある。

このブログでも何度か紹介したことがあるが、「ジュリアの会・作品展」のフラワー・アレンジメントのジュリアの会を主宰するYさんの知人が佐藤初女さんと親しく、千葉だったかの講演会の帰りに、作品展に寄ってくれたのだった。

今回このような形で佐藤初女さんの文章を読むようになるとは想像しなかったが・・・。

改めて本を読みながら、生活の場面に表される「霊性」を垣間見せて頂いたような気がする。

特に「食」を大事に考えておられ、「食」という人間の「動物的生理」をベースにした人間観、食を中心にした人間の暮らし・営みのありようから「森のイスキア」を訪ねてくる人たちの「悩みや迷い」に答えるその姿勢にうなずくことが多い。

その一端を紹介しておこう。
 食べることというのは、訊く人は“えっ?”というような表情になりますが、食べ方を見ていると、その人のこころが伝わってくるものです。こころの中が詰まっている人は、なかなか食べることができません。それでも、ひとくち、ふたくちと食べ進み、“おいしい”と感じたとき、心の扉が徐々に開いていき、それまで胸の奥にため込んでいたものを、ぽつぽつと吐き出していくんですね。
 そういうとき、私は、自分からあまり話さないで、聴くことを大事にしております。先入観を持たず、自分の中を空っぽにして、その方の身になり、こころを置き換えて、一心に耳を傾けるのです。(佐藤初女『いのちの森の台所』集英社文庫、20-21ページ)

  本当の奉仕とは、自分のいいと思うことをするのではなくて、相手が望んでいることを自分で感じ、チャンスを見てさりげなく差し出すことだと思うんです。それはたとえるなら、道端に置いて通り過ぎるようなもの。振り返りもしないで。振り返るということは、何かを求めているということになります。ですから、置いたままさりげなく通り過ぎるということを、いつも考えています。(佐藤初女『いのちの森の台所』集英社文庫、159ページ)

今回は以上です。(次回に続く)

2016年3月21日月曜日

(5)北米神学校事情2015-16

日本では卒業式シーズンもほぼ終わり、学年の切り替わる春休みとなっています。

しばらく前になりますが、北米神学校事情2014、で北米神学校の「認可制度」や、教派の伸張と連動する神学校生徒数のことなどを書きました。

まっ、裏事情的ネタが多かった感じですが、「北米神学校」の入門的記事を書きました。(意外とこの類の情報は日本語では少ないようです。)

その記事から一年ほど経って、「追記」を書くようなニュースに接しました。

北米最古のアンドーバー・ニュートン神学校キャンパスが売却によって閉鎖されるというのです。

既に2014年の「事情」 でも言及した「主流派の神学校の統廃合問題」が老舗中の老舗にも及んだ、という話です。(統廃合自体は名前が示すように既にあったわけですが・・・。)

こちらの記事ではイェール神学校と合併するのではないか、とされています。

最初の記事に詳しいように、入学者数の減少により、(プリンストン神学校のような運営基金となる資産が潤沢ではない)苦しい資金繰りをしている神学校は環境の変化に合わせてどんどん経営変更やプログラムを変化させていかなければならないようです。

最も身近な環境である、就職先となる「教会事情」は衰退傾向にあり、「借金を抱えていない、パートタイムでもよい」卒業生を雇用条件にしている教会が多くなっているようです。当然神学校側もそれに合わせたプログラムを模索する必要があります。


(それからまたしばらく経って)
ニューヨーク・タイムズ「宗教欄」のマーク・オッペンハイマー記者がつい先日(2016年3月18日)このような興味深い記事を書いています。

それによれば、かなりラディカルな対応をしている神学校もあるようです。

クレアモント・リンカーン大学はメソジスト系のクレアモント神学校から派生して出来た学校で、本部ビルはありますがそれは運営のためのもので、クラスはすべてオンラインによるのだそうです。

三つの分野で修士プログラムを提供しています。
 (1)倫理的指導力
 (2)宗派間活動
 (3)社会への影響

これらのコースワークの中心は、多元社会を見据えた「対話能力」養成であり、伝統的な宗教知識(聖書その他)の涵養は敢えて要求しません。

オッペンハイマーの記事では、このようなラディカルな取組みの背景として、神学校入学者数の激減や、入学者の高齢化、それに伴う経営環境の厳しさ、等を挙げています。
(その一例としてアンドーバー・ニュートン神学校のことも取り上げられています。)


しばらく前『牧師は神学者か?』を連載しましたが、そのうちのデーヴィッド・フィッチの機能的神学者論辺りと比較していただくと、メインラインの神学校と福音派系の神学校の「環境の変化」の捉え方、それに対する戦略の違い・・・など興味深い点が出てくると思います。


2016年3月19日土曜日

明日の礼拝案内

棕櫚の聖日 礼拝
 
2016年3月20日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 2:1-15
説 教 題 「キリストの割礼」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(26)/パウロ書簡の学び(143)

2016年3月13日日曜日

(4)あれから5年が経って

率直に言って、なぜ5年目だとこんなにメディアが取り上げるのだろう、と感じている。

もちろん東日本大震災のことである。

3年目、4年目と何か段々メディアが取り上げる量が減っていたように感じていたので、急に5年目でまた注目されるようになったように感じているのは筆者だけだろうか。

まあーそれはそれで置いておいて、本題に入る。

5年目の区切りとして何を書いておいたらいいか、東日本大震災からどんなレッスン・訓戒を5年目の時点としては覚えておくべきか、・・・と考えていた。

そんな時見た動画がこれだ。

『吉田調書の意味するもの』~2014年10月18日講演会の補足説明~


5年前、福島第一関連でしばしばお世話になったのが、小出裕章助教(昨年退職)とこの後藤政志さんだ。

(炉心溶融に関して)正確な情報が足りなかった事故直後からのしばらくの間、「苛酷事故」というそれまで聞いたことのなかった言葉を使って炉心格納容器の安全性や破綻のシナリオをいろいろ推理して説明してくれたことを覚えている。

この動画は一昨年のものだが、事故当時のことを(久し振りで)思い出しながら、見させていただいた。

発表された「吉田調書」とつき合わせながら、苛酷事故の核心は何かを熱心に究明している。一聴の価値ありと思う。

格納容器設計に携わったエンジニアとしての専門的な観点からの意見だが、やはり核心を突いていると思う。

中心となるのは「東日本壊滅のシナリオは現実的にあった。そうならなかったのは偶然。」(22分過ぎ辺り)という認識だ。

そのような性格の(スケールの)苛酷事故でありながら、
 (1)幾つもの設計ミスがあった。(今回のような苛酷事故に対する対応が取れていなかった。)
 (2)事故後の対応に関し、所員・作業員の勇気や犠牲的精神等の「美談で済まされるような話ではない。」
 (3)電源、(1万人規模の)人員確保、等事故対策に関するロジスティックスができていなかった。(第二次大戦のときの日本軍の失敗と同じ。)

といったところがポイントとして挙げられている。

要するに炉心溶融事故が起こった格納容器は「ワースト・シナリオ・ケース」の想定では設計されておらず、今回の苛酷事故を教訓にする場合、それらの設計上の弱点をどのようにするかの算段をしっかり建てていなければならないが・・・果たして日本の他の原発はどうなっているのか。という問題だ。

原発の安全対策は基本的に「人的介入を要しない設計」を二重三重にして安全確保するのが大事であり、万が一のとき「決死隊を組織して防ぐ」ような対策は間違っている。

そして最後に、今回のような苛酷事故で、コントロールを失いプラント破壊、東日本壊滅に繋がりかねなかった事態が「偶然に左右されるようなシステム」を果たして存続させるべきだろうか、それは許せるだろうか、と疑問を提出している。

やはり肝心なポイントは「東日本壊滅に繋がりかねなかった事態」という点だろう。


後藤さんの分析は格納容器の設計に関わることでの指摘であったと思うが、つい二三日前のNEWS23(TBS)であったか、NHKの番組であったかが指摘していたように、吉田所長、菅総理が「東日本壊滅のワースト・シナリオ」を現実のものと認識し、「決死の防御」を巡ってやりとりがあったということ。

そしてその番組で指摘されていたが、複数プラントの炉心溶融に時差があったため、一つ一つ個別に対応する余裕が与えられたが、それは全く偶然のなせるわざで、仮にもし三つのプラントの炉心溶融がほぼ同時に起こっていたら対応は出来なかっただろう、ということ。


以上、5年目にしての東日本大震災から最も深刻な教訓を得るとすると、そのひとつは間違いなく実際の事故の結果ではなく、偶然に免れたが、ワースト・シナリオの場合「東日本壊滅の事態に至った」であろう、ということ。
 
このワースト・シナリオで推定されえた結果を更に吟味し、どれだけ真剣に可能現実として今後に活かすか、ではないだろうか。
 

※この朝日報道による、元米兵士が証言した「核爆発は免れたものの危機一髪だった」事象とも重なる。

 
事後的にだが、このような形で認識する「あの時もし・・・だったら、○○は壊滅的打撃を受けていたかもしれなかった」は、原発事故でも水素爆弾処理でも、そのスケールに見合った検証と対応を必要とするだろう。

2016年3月12日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2016年3月13日(日) 午前10時30分

朗読箇所 哀歌 3:1-24
説 教 題 「こころを治める」
説 教 者 小嶋崇 牧師

こころ(3)

2016年3月8日火曜日

今日のツイート 2016/3/8

2016年3月の「キリスト教書部門ベストセラー、トップ10」

 大人用「塗り絵」の本が3冊も!!

 ジョエル・オスティーンの本も2冊!!

 あのサラ・ヤングの本も!!


しかし、このツイートが引き金となって、次々引用ツイートが続いています。
その中には北米キリスト教の情けない現在を嘆くものも。(「こんなことだから、トランプがトップを走っているんだよ。」)

2016年3月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年3月6日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ローマ 8:31-39
説 教 題 「わたしたちの主キリスト・イエス」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2016年3月4日金曜日

今日のツイート 2016/3/4

「何を寝ぼけたこと言ってんだ」と(思わず)言いたくなるような元ツイート。

元ツイートとはこちら。


ただこう言うことが視野狭窄な政策によって起こりかねないので、水村美苗も『日本語が滅びるとき』を書いたわけだろうし・・・。(こちらの記事をどうぞ)