2016年6月26日日曜日

今日の(連)ツイート 2016/6/26

多分ミッション系の大学生の方のものだと思いますが・・・。




※「キリスト教」として教えられていることはどんな説かは何となく想像つくが・・・。

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、2

「はじめに」(12-21ページ)

『福音派』か『福音主義』か
 そこで本書において、私は「福音派」という二十世紀の枠付けの強い、あたかもそういう教派が存在するかのような呼び方をなるべく避けようと思う。二十世紀のエヴァンジエリカリズムを「福音伝道主義」と的確に訳しているケースもあるが、本書では「福音主義」を多用する。そのとき、宗教改革がベースにあることも心するが、筆者はむしろベビントンのように十八世紀から現代に至る、教派を超えた霊的流れを意識していると、鷹揚にとらえていただきたい。(14ページ)
おそらく二刷目以降で既に改まっていると思うが、「日本の福音主義が南アフリカのオランダ改革派教会のデイヴィッド・ボッシュ・・・」(274ページ)の「福音主義」はこの文章の主語としては、「福音主義者」か「福音派」とあるべきところを「福音主義」としたところに、最初の段階で用語の選択に逡巡した影響が出ているのかもしれない。

 12ページの最初で、「福音主義(エヴァンジェリカリズム)、福音派(エヴァンジェリカルズ)とは、キリスト教のどのような考え方やどのグループを指すのであろうか。」とあるように
Evangelicalism・・・福音主義・・・考え方
Evangelicals ・・・福音派・・・グループ
と使い分けはなされているので、問題は「福音主義を標榜するグループや個人」に対応する用語として「福音派」を使うのに気が進まなかった、ということになるのだろう。

理由は(おそらく)、「福音派」があたかも「一つの教派」であるかのように思われたり、(あるいは)このグループが「一枚岩」的のように取られたりするのに対し、そうではなく「福音派」は多様な幅を持っていることを示したかったから・・・ということになるのだろう。


初っ端から細かな話で申し訳なかったが、用語の整理に関してちょっと気になったことをコメントしてみた。

本書が「聖書信仰」を主題とし、その「・・・福音主義の聖書理解を歴史的な流れにそって検証する・・・」(16ページ)とあるので、「宗教改革」から派生する諸グループ・運動を「福音主義」という同一用語でより広く捉えよう(捉えたい)とする試みとして理解し、共鳴・共感したいと思う。

(次回に続く)

2016年6月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年6月26日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 11:1-4
説 教 題 「御名が崇められますように」
説 教 者 小嶋崇 牧師

いのり(5)

(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続3)

およそ半年振りの「更新」というか「続報」です。

民主党クリントン、共和党トランプ、両候補者の指名獲得がほぼ確実になったわけですが、この段階で「トランプ候補」と「福音派キリスト教」の改めての「折り合いを付ける」大きな会合が先日ニュー・ヨークでありました。


トランプと福音派キリスト教、続2で紹介したことですが、

エミリーの印象では、保守派/福音派キリスト者のトランプ候補支持が依然高止まりしている理由は、トランプの信仰とか宗教的背景ではなく(むしろ乖離している)、保守派/福音派キリスト者の抱く「アメリカとキリスト教の同一性」が危機に瀕しており、その問題に一番アッピールする候補がたまたまトランプであること、そして何よりもトランプ自身が、今まで非政治的でさえあった今回の支持者たちのように「政治の素人」である点がアッピールしているのではないかと指摘する。
、「アメリカとキリスト教の同一性の危機」が焦点の一つになっているらしいのです。

「福音派」の中でも特に保守的な福音派キリスト教の関心となっているのがなにであるか・・・この会合に参加してトランプ候補に質問を投げかけたのがジェームズ・ドブソン氏です。

彼の質問スピーチ(質問の形の演説みたいな、と云う意味で)に、「アメリカとキリスト教の同一性危機」問題の一面が見て取れる気がします。(米ヤフー・ニュースが入手した音声を文章にしたもの
And then, of course, our Founding Fathers wrote that in the Constitution, where the Bill of Rights, those 10 enumerated rights, started with religious liberty. It was put number one for a reason! Because that sets the tone. That is the foundation for all our other freedoms. And yet when Barack Obama became president, I think there was a conscious effort to undermine our religious liberty. You’ve probably seen it from that time to this. Have you noticed that the president and Democrats and Hillary — yes, Hillary — no longer talk about “freedom of religion”? They talk about “freedom of worship.” Why have they changed that? It’s very small, a one-word change. Well, freedom of worship means that you are confined to your churches and your synagogues, but freedom of religion, as identified in the Constitution, is in the public square, it’s everywhere. So they have tried to limit us to our church activity. So we’re seeing more and more of that.
この質問に対するトランプの返答は予想されるようなものとはいえ、「保守派の福音派キリスト教」と「トランプ大統領選の宗教政策」は明確に合致する、という見解を示しています。

(※このヤフー・ニュースはしっかり読み込んで分析する必要がありそうですが、今はその時間がないので次のトピックに移ります。)

トランプと福音派キリスト教、続2でも紹介しましたが、昨年12月時点で、福音派キリスト教の「ややリベラル」な見解を持つ南部バプテスト連盟のラッセル・ムーア氏や、「保守派」のジェームズ・ドブソン氏がトランプ候補を嫌ってテッド・クルーズ候補に絞り込む動向について書きました。

その後クルーズ候補は選挙戦から撤退し、不本意ながらトランプ候補に選択を迫られる状況が発生しました。

その状況での
「トランプ候補」と「福音派キリスト教」の改めて「折り合いを付ける」
機会がこの会合の目的だったように思います。

この(招待者が限定された)会合は、ヤフー・ニュースの記録からはカーソン元候補のアイデアで設けられたようです。

キリスト教側からこの会合をリードしたのは、初期からトランプ候補支持を鮮明にしていたフランクリン・グラハム氏(開会祈祷を担当し、自身も含め誰しもみな罪びとである、とトランプ候補に対する道徳的ネガティブ感のガードを下げている部分も垣間見えたりしています。)とリバティー大学学長のジェリー・フォルウェル・ジュニア氏です。

本会合の前に、主な出席者をトランプタワーに招いて「顔合わせ・交流の時」が持たれたようですが、そこでのジェームズ・ドブソン氏の感想がインタヴューとして収録され、ネット公開されています。

そのインタヴューの中でドブソン氏が「トランプ氏の回心」(ごく最近誰かがトランプ氏を個人伝道(?)し、それにトランプ氏が応じて「イエス・キリストを信じ受け入れた(?)」とのこと)部分を語っていますが、その部分を文字起こしした記事では、ドブソン氏のように「アメリカとキリスト教の同一性」のような見方から「大統領と政治」の問題に取組むことを「一辺倒なもの」として批判しています。


さて、今後またどんな進展があるかもしれませんので、一応この「ドナルド・トランプと福音派キリスト教」連載は未完と言うことにしておきます。

2016年6月24日金曜日

今日のツイート 2016/6/24

隣の芝生は何とやら・・・

ではないですが、参考にはなるでしょう。


 ※しかしEU外からの移民問題プラスEU内での人口移動に拍車がかかる、なんてことは起こらないでしょうか・・・。

2016年6月22日水曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、1

このブログでは時折「福音主義」や「聖書・聖書解釈」などについて書いている。

いわゆる「福音派(evangelicals)」にとって聖書がかなり重要であり、特に宗教改革以降のグループの信仰箇条等の形成において一段とその「権威性」が増した傾きがあり、その功罪・副産物様々を含めて今日に至っている。

ジェンダー・イシューズ(性差問題) でも触れたが、「聖書の権威」を高調し、あらゆる「真理問題」を聖書を基にして(ニュアンスの幅はいろいろありますが)解決したい、そう福音派の方々が思うならば(別に筆者はそうではないと言っていません。まがりなりにも筆者が属する教会連合は日本福音同盟のメンバーですし、筆者自身も日本福音主義神学会のメンバーです。)、「聖書信仰」の原則を有効に、建設的に、活かして行くには以下の三つ(三つ目はちょっと高望み過ぎかもしれませんが・・・)がかなり必須条件となるように思います。

 (1)全般的聖書リタラシーの向上

 (2)解釈論的視野の訓練

 (3)討論におけるリアリスティックな達成目標設定

 今ここでは一つ一つのポイントについて解説しませんが、少なくとも教会指導者・神学者の方々で、「聖書を権威的に使用する」必要のある方々はかなり自覚的にこれらの条件を理解して運用して行かないと、「『聖書信仰』の将来には(今までに勝るとも劣らない?)途方もない困難が待ち構えている」ように個人的には案じています。


 さて前置きはそこまでにして、今回は藤本満『聖書信仰』を取り上げた動機・理由・背景に関わることを書いてみます。

 実は「あとがき」にもありますが、本書の背景に多少なりとも筆者が関わっている、そう言うことが一点。(その縁で本書を贈呈して頂きました。ということは「書評」ででもお返しできればいいかな、とも思ったわけです。)

 幾つか書評やブログ記事(これ、や、これ、や、これ) もあるが、まだまだ取り上げられてもいいように思うのです。

 というのも本書は「聖書信仰」を題材にしていますが、それを巡っての神学史の概説的な面があり、言及される神学者や著作が多い上、その大多数は訳されていないと思われます。

 筆者のようにある程度英語圏で神学教育を受けた者にとっては「スタンダード」的なものが散見されるとはいえ、それ以外にかなり多くの専門書があります。

 インデックスでも作ってみれば明白と思いますが、一般読者が「名前だけでも知っている」というものさえかなり少数ではないかと想像します。

 もっと割り切った言い方をすれば、「書評」を書くにはちょっと面倒なほどサブ・トピックが多い、と感じます。(何しろ章数が多い。)

 ※しかし、まず「概略」を一挙にまとめたことで、今後「参照」的な用い方には便利だと思います。

ということで、筆者が採用する方法は、

 (1)一章ずつ(目安)内容に目を通し、その中から目に付いた「トピック」「人」「著作」等を取り上げ、(全く個人的な関心から)好きなことをコメントする。

 (2)上記のように選択した事項の中で、筆者が補足できるような情報があれば提供する。
 
 (3)最初に書いた、三つの必須条件に関することに繋げてコメントしてみたりする。

 以上極めて我侭で、行き当たりばったりの「道草ノート」になるとは思いますが、やってみたいと思います。

2016年6月21日火曜日

今日のツイート 2016/6/21

「EU離脱」投票直前のピリピリした雰囲気と、その中でのほっとした空気(多分)が伝わってくるツイート(エピソード)です。


※昨日、ニューポートにて、運休中(?)の鉄道の代行バスに乗り合わせたニカブ(ムスリムが被るヴェールの一種)を付けた女性が息子に何やら外国語で話しかけていた。
(周りでその会話を聞いていたと思われる男性が)5分後、突然「英国にいるのなら、英語で話せ」と叫んだ。
それを聞いた別の乗客が振り向いて彼に説明した。「ここはウェールズですよ。彼女がしゃべっているのはウェールズ語なの。」

2016年6月19日日曜日

(4)『霊性』を神学する 4

さて、続きをば・・・。

前回は以下のように予告して終わりました。
次回はバースが指摘している現象を、もう少し歴史神学的に緻密に考証している動画と資料を紹介したいと思います。
バースとロブ・ベルは「もう今の時代は、天空高く、遠くに離れた神ではなく、近くにいます神だよね」と共鳴していたわけですが、従来の「垂直方向」で概念化された神観から、「水平方向」で概念化された神観への移行・・・という問題提起のもとに(インタヴューで)討論していたわけです。

その辺のことを「霊性」問題との関わりで考えていた時、リチャード・マウの動画に出会いました。
Engaging Religious Pluralism
 


リチャード・マウはこの動画で、「宗教多元主義」状況での、他宗教とのエンパシック(共感的)な取り組み方・・・を講演しているのですが、その中で「モルモン教」との取組みを例に出します。

ネイサン・ハッチ(改革派のアメリカ宗教史家)の本からモルモン教の設立者ジョゼフ・スミスの生い立ちなんかに言及していますが、当時(19世紀初頭)のアメリカの教派乱立状態と競合状態の中で、人々が宗教に求めていたのは「本に書いた啓示」というよりは「(霊によって)繰り返し与えられる新しい啓示」であったのではないか、と指摘しています。
 
さてしばらく後のくだりの中で、ジョゼフ・スミスと並んで、ほぼ同時期北米の同地域(ニュー・イングランド)に現れた、似たような霊性的傾向を象徴する二人の有名人へと話を進めます。
 ・ラルフ・ウォード・エマーソンの「超越主義」
 ・メリー・ベーカー・エディーの「クリスチャン・サイエンス」
all shared "common religious motivation. Each of them wanted to bring the realm of divine nearer to ... us [humans] , to reduce the distance between god and human beings.
宗教観も、さらにいえば形而上学的神観も、大きく異なる三者(スミス、エディー、エマーソン)が、しかし「神と人との間の距離の近さ」を主張した背景には何があるのか・・・。

マウは、それはニューイングランド「高カルヴィニズム」の神学的宗教性、つまり

it often fostered an unhealthy spiritual distance between Calvinist deity and its human subjects

この「カルヴィニズムの遠くはなれた神」に満足できず、「霊的な渇き」を埋めようとして新しい宗教的試みが起こったのではないか、とマウは推理しています。

この「霊的距離感の問題」について、特にニュー・イングランド・ピューリタニズムの神学的強調である「神の主権性」について、当時の正統的カルヴィン主義神学の中に二つの対照的な傾向があったことを、ジャニス・ナイトの『マサチューセッツの正統主義(神学)』を参照して論証します。

Janice KnightOrthodoxies in Massachusetts: Rereading American Puritanism
 

一方で正統派のウィリアム・エームズのように「神の主権」を「主人としもべ」のような権力関係のイメージで捉えるものと、他方リチャード・シブス(Richard Sibbes)のように「力の神」というよりも「憐れみの神」「親しい(intimate)神」のイメージの方向で捉えるものと、正統的カルヴィン神学(orthodoxy)が一つではなく複数(orthodoxies)あったことをヒントにしています。

さて、マウのトピックは「霊性神学」ではなく、どのように「他宗教との対話」をするか、ということですが、「キリスト教正統主義」しかもそれがある程度「正統的カルヴィズムの神観」を要因として「新興キリスト教」の流れができたとすると、「神学」類型と「霊性」とのあいだにある程度の相関関係を推理してみることは妥当ではないかと思います。

恣意的に「神学的内容」を変更することは妥協・迎合となりかねませんが、少なくともある種「神学的強調」が(たとえば「神の主権」)偏ったもの、バランスの欠けたものになる時、それに呼応した「霊性的欠乏感」を生じさせるとも限らない、ことは考えてみた方がいい。そう感じました。


(次回へ)
※もう少しこのテーマを追ってみます。

2016年6月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年6月19日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 2:16-19
説 教 題 「間違った誇りの根」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(29)/パウロ書簡の学び(146)

2016年6月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年6月12日(日) 午前10時30分

朗読箇所 第二テモテ 2:1-13
説 教 題 「人の心の真実」
説 教 者 小嶋崇 牧師

こころ(6)

2016年6月10日金曜日

今日のツイート 2016/6/10

途中までは「あらまー、可哀想に」

最後のラインで「えっ!?!」

爆笑! 

で、果たして済んだツイートなのか???

2016年6月9日木曜日

(5)新カルヴィン主義動向、その後

もう2年近く前になりますが、「新カルヴィン主義(※1)動向」と云うタイトルで4本連載しました(※2)。
 ・その1
 ・その2
 ・その3
 ・その4

 ※1・・・上記の連載でも、new Calvinism、等の訳語として「新カルヴィン主義」とタイトルにつけましたが、それほど定着したレッテルではないようです。今回は統一のため変えずにそのままにしておきます。
 ※2・・・その後連載が終了したとも告知せずにいましたので、中途半端になっていたかと思います。今回は「追記」程度と受けとって頂ければよろしいかと思います。

今回その4で紹介したジョナサン・メリット記者(Religion News Service)が新たに関連記事を書いたものを紹介しておこうかと思います。

The Gospel Coalition and How (not) to Engage Culture (2016年6月6日)
今回メリット記者がターゲットにしているのは、「福音連盟(ゴスペル・コオリション)」という新カルヴィン主義の主要人物(主に牧師)たちが論説等を寄稿している一大ウェブサイトのことです。

記事が主張しているのは、「福音連盟」が是としている「文化との交渉(によって文化を変革する)」と、サイトの行動は矛盾していないか、というものです。

具体的には、「福音連盟」に批判的なコメントをしたり、批判的な立場から福音連盟の記事などを問い質すと、「ブロックされる」というのです。(※3)
※3・・・ツィッターのフォローを防止すること。
こう言う行動パターンが、単にたまたまではなく、「福音連盟」関係者の「心理」に根ざすものではないか、とメリット記者は指摘しています。

「(ウェブサイトを通して)あれだけ口数多くトークを繰り返しているのに、彼らは聴く耳を持たない」 と批判しています。

実は今回のメリット記者の記事は殆どその4で展開した主張と同一線上にあります。

ただ「福音連盟」が多大な影響力を持ちながら、一般読者はまだしも、ジャーナリストであるメリット記者ともコミュニケーションを取ろうとしない、ということであれば、いささか残念な対応だと思います。

「連盟(コオリション)」と自称しながら、そのグループ的性格はどういうものか、メリット記者は「福音連盟は結局同好会のようなもの」と結論します。
The word “coalition” is defined as “a combination or alliance, especially a temporary one between persons, factions, states, etc.” But the structure of TGC allows for almost no diversity among its members–certainly none that would be noticeable to anyone who is not a Christian insider. So, technically-speaking, The Gospel Coalition is not a coalition at all; they are a club.(強調は筆者)
「福音連盟」の社会的性格について、数年前ですがディヴィッド・フィッチ(牧師は神学者か、3で彼の「機能的神学者論」を紹介しました。)が少し書いています。
David Fitch: The Gospel Coalition: Reprise and In Retrospect

Will TGC be a force for coalition or expedition

「福音連盟」は結束のためなのか、新規領域開拓のためなのか、とフィッチは問います。

「コーリション」は敵に対抗して領地を守るために結ぶ同盟のイメージ。片や「開拓」は未開地に進出した新たな領地を獲得するイメージです。

フィッチの分析では「福音連盟」のアプローチは、ポスト・クリステンダム、ポストモダンの西洋キリスト教において前者の性格のものになるだろう、と分析しています。

メリット記者の分析とも多分に重なるのですが、どうも構図が「自由主義対根本主義」の焼き直しのような部分を持っている、そんな印象です。


《附記》
メリット記者が「福音連盟」に対して、「文化との交渉」を考えるなら、と言って推薦した本の一つ、James Davison Hunter’s “To Change the World,”を実際取り上げていました。そしてその「エンゲージメント」の結果をウェブサイトで公表しています。(ここ


2016年6月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2016年6月5日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ローマ 8:31-39
説 教 題 「執り成すキリスト」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。