2017年1月1日(日) 午前10時30分
朗読箇所 コロサイ 3:1-17
説 教 題 「キリストの言葉が宿る」
説 教 者 小嶋崇 牧師
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
(コロサイ 3:16、新共同訳)
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
(コロサイ 3:16、新共同訳)
※(ウェスレアン)アルミニアンという神学的立場をご存じない方はこちらの記事を参照していただくとして推薦されたのは・・・Bruce ReichenbachのDivine Providence:God's Love and Human Freedom、という本です。
※この記事を書こうと思い立ったのは、何のことはない、この本がキンドル版で「$8.71」となっていて「安いかな、オススメかな」と思ったからです。で、オルソンの「オススメ」口上ですが以下のようになっています。
If you are a person who wants a thorough, comprehensive, coherent, sophisticated but readable one volume treatment of divine providence in all its aspects that is also evangelical in ethos and completely consistent with classical Arminianism, here it is: Divine Providence: God’s Love and Human Freedom by Bruce R. Reichenbach (Cascade Books, 2016).
Now, ironically the words “Arminian” and “Arminianism” and the name “Arminius” appears nowhere in the book. I am not claiming that Reichenbach is an Arminian; I am only saying that this book is thoroughly consistent with classical Arminianism—which is not to claim either that every Arminian will agree with it in every detail.また「オープン神論」との関わりでは次のように言っています。
His chapters on the “problem of evil” are simply outstanding. I found very little with which to disagree in the book. I will only say that I am not convinced that his critical (but generous) treatment of open theism really answers the questions it raises about the traditional view of God’s foreknowledge. (But his answers are the best I could come up with, too, without adopting open theism.)関心のある方は購入を考えてみてはいかがでしょう。
※ この辺の事情を保守派・福音派(アブラハムやグレンツなど)が自己批判的に分析できるようになったのが「ここ20-30年の動き」ということなのだろうと思います。
十九世紀を振り返ると、リベラル神学も保守主義も同じようにこうした「基礎づけ」 的認識論の上に成り立っていたことが分かる。リベラル神学は、当初、教会が作り上げた神学という建物を一旦脇にどけて、近代聖書学を土台としたキリスト教真理を再構築しようとする。・・・保守主義は、デカルト的土台を無誤であると信じる聖書に求めた。(75ページ)(B)スコットランド常識哲学と理性主義
こうして、本来カルヴァンによる、「聖書が神の言葉であることは、聖霊が信仰者の心の中に与える証しによる」という神秘的・心的・主観的側面は影を潜め、聖書の無誤性が客観的事実であることを論証するという理性的側面の強調へと聖書信仰が方向を転じたことになる。(78ページ)
[脚注] 宇田も同様に論じる。本来の改革派の神学は、聖書の無謬性を信仰者が聖霊の内的証しによって悟るものと考えてきた。ところが、スコットランド常識哲学の影響により、聖霊の内的証明は「あらゆる外的な証拠をとおして」人々のうちに確信を与える、という証拠の積み上げによる確信へと変化した、と。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 (ルカ2:6-7、新共同訳)
.@yamakoete 言わないでしょう。法的な責任主体を遡求できるか、という観点でとらえるなら。行動プログラムが自動化というのは、そういう意味で非常に危険。博士の異常な愛情・・・— Ken ITO 伊東 乾 (@itokenstein) 2016年7月20日
exclusively Calvinistic understanding of salvation, characterized by an aggressive insistence on the "Doctrines of Grace" ("TULIP"), and to the goal of making Calvinism the central Southern Baptist position on God's plan of salvation.伝統的立場を表すのが「神の救いの計画」であり、それがカルヴィン主義の救済論(チューリップで代表される)によって塗り替えられることに対する神学的抵抗運動、みたいないいっぷりになっています。
それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。
(イザヤ28:16、新共同訳)
人格攻撃でもなく、あくまでも比喩としての「死ね」と、具体的な他者や人格を貶めるために使う「死ね」は全然違うよ。しかも、他にどうしようもなく、そうするしかない悲痛な叫びとしての「日本死ね」でしょ。— 古市憲寿 (@poe1985) 2016年12月2日
日本死ね問題は様々なところに論点拡散しちゃって一番最初の「政治が都市部の待機児童問題まったく解消するつもりなくて無為無策(あるいは不作為)」という点に絞って、その議論もっと深めるなり与党に要望するなりした方がいいんじゃないですかね。一応参院選の争点に格上げされてたわけだし。— 津田大介 (@tsuda) 2016年12月2日
「保育園落ちた日本死ね」なんて日本を貶めていて日本人として傷つくし言葉使いが汚い、みたいなゆるふわ愛国民の反応はどうでもいいけど、日本という国や社会に対する激しい怒りや憤りの言葉ですら、「流行語大賞」などというお祭り騒ぎの中で消費してしまうことには、違和感を感じざるを得ない。— じこぼう (@kinkuma0327) 2016年12月2日
トランプのツイッター・アカウントは1640万人がフォローしている。彼のチームはこのアカウントで次々に重大な発表を行う。重要な発表をホワイトハウスの記者会見場ではなくネット上で行う傾向はオバマ政権でも見られたが、今後はさらに増えるだろう。デジタル化で記者のあり方も変わっていく。— 熊谷 徹 (@ToruKumagai) 2016年12月2日