2016年12月31日土曜日

明日の礼拝案内

元旦 主日礼拝

2017年1月1日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ 3:1-17
説 教 題 「キリストの言葉が宿る」
説 教 者 小嶋崇 牧師

キリストの言葉があなたがたの内に
    豊かに宿るようにしなさい。

     (コロサイ 3:16、新共同訳)

2016年12月29日木曜日

(5)オープン神論サイドノート③

2016年4月、7月、にそれぞれをアップしたわけですが、暫く経ちました。

このシリーズ不定期であることは既にお断りしているので、別に暫くぶりでのアップだからといって前置きなど要らないとは思うのですが・・・。


たまたまですが、ブロガーのロジャー・オルソン氏が
An Excellent Arminian Book on Divine Providence
という記事をアップしていて、本の推薦をしているわけです。

※(ウェスレアン)アルミニアンという神学的立場をご存じない方はこちらの記事を参照していただくとして
推薦されたのは・・・Bruce ReichenbachのDivine Providence:God's Love and Human Freedom、という本です。
※この記事を書こうと思い立ったのは、何のことはない、この本がキンドル版で「$8.71」となっていて「安いかな、オススメかな」と思ったからです。
で、オルソンの「オススメ」口上ですが以下のようになっています。
If you are a person who wants a thorough, comprehensive, coherent, sophisticated but readable one volume treatment of divine providence in all its aspects that is also evangelical in ethos and completely consistent with classical Arminianism, here it is: Divine Providence: God’s Love and Human Freedom by Bruce R. Reichenbach (Cascade Books, 2016).
著者が、そしてこの本が「アルミニアン」かどうか、については以下のように断っています。
Now, ironically the words “Arminian” and “Arminianism” and the name “Arminius” appears nowhere in the book. I am not claiming that Reichenbach is an Arminian; I am only saying that this book is thoroughly consistent with classical Arminianism—which is not to claim either that every Arminian will agree with it in every detail.
また「オープン神論」との関わりでは次のように言っています。
His chapters on the “problem of evil” are simply outstanding. I found very little with which to disagree in the book. I will only say that I am not convinced that his critical (but generous) treatment of open theism really answers the questions it raises about the traditional view of God’s foreknowledge. (But his answers are the best I could come up with, too, without adopting open theism.)
関心のある方は購入を考えてみてはいかがでしょう。


※蛇足ながら「摂理」に関しては筆者も過去にこんなことや、こんなことを書いていました。




2016年12月28日水曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、7

久し振りの今回は・・・

「5 理性の時代の聖書信仰」(74-85ページ) 、となります。


 本書は時代の進行に沿って概観されています。

 前章4章は「プリンストン神学の時代」でした。大体19世紀後半です。

 一章先を見ると6章は「ファンダメンタリズム論争」を扱います。1920年代です。

 この時代的移行の前に17世紀のデカルトから発する「基礎づけ主義(「我思う故に我あり」で有名ですがこのリンク先の説明も参考になるかも)」やスコットランド常識哲学という保守的聖書論に影響を与えた「哲学的前提」を5章で扱っているわけです。
※ この辺の事情を保守派・福音派(アブラハムやグレンツなど)が自己批判的に分析できるようになったのが「ここ20-30年の動き」ということなのだろうと思います。


 「プリンストン神学の聖書観の背後にある哲学的前提、あるいは思想的潮流」

 (A)基礎づけ主義
 十九世紀を振り返ると、リベラル神学も保守主義も同じようにこうした「基礎づけ」 的認識論の上に成り立っていたことが分かる。リベラル神学は、当初、教会が作り上げた神学という建物を一旦脇にどけて、近代聖書学を土台としたキリスト教真理を再構築しようとする。・・・保守主義は、デカルト的土台を無誤であると信じる聖書に求めた。(75ページ)
 (B)スコットランド常識哲学と理性主義

 こうして、本来カルヴァンによる、「聖書が神の言葉であることは、聖霊が信仰者の心の中に与える証しによる」という神秘的・心的・主観的側面は影を潜め、聖書の無誤性が客観的事実であることを論証するという理性的側面の強調へと聖書信仰が方向を転じたことになる。(78ページ)
[脚注] 宇田も同様に論じる。本来の改革派の神学は、聖書の無謬性を信仰者が聖霊の内的証しによって悟るものと考えてきた。ところが、スコットランド常識哲学の影響により、聖霊の内的証明は「あらゆる外的な証拠をとおして」人々のうちに確信を与える、という証拠の積み上げによる確信へと変化した、と。



 以上19世紀後半に展開されたプリンストン神学 を支えた「哲学的前提」が聖書解釈を理性主義的な方向に導いた、という部分を引用してみました。

この章の部分を読んで記事にしようと書き始めて大分時間が経ちました。色々逡巡しました。一つの理由は「詳論がないことに関してコメントを書くのは難しい」ということです。

しかし、著者の見識を差し置いて、「プリンストン神学」周辺のことをパパッとネットで検索して得た「インスタント知見」で何か書くこともまた難しい。

ということで以下の二つのポイント(と、一つの蛇足)にまとめてみました。

(1)スコットランド常識哲学の評価の仕方
 
 啓蒙主義をどう捉えるかどう評価するか、という問題は依然として「いまの問題」であると思います。

 プリンストンにこの新風を吹き込んだジョン・ウィザスプーン、根付かせたA・アレキサンダー、受け継いだC・ホッジ・・・の全体の流れを文脈として評価することが大事なように思います。

 啓蒙主義のネガティブ・サイドを代表するデカルトやD・ヒュームに対抗した形で出たと思われるスコットランド哲学は、プリンストン神学にとって「特別啓示」にも「一般啓示」にも、どちらにも楽観的な認識論的態度を提供するものとして(ネガティブな認識論より)ベターな選択であった、と考えることも出来るかと思います。

(2)理性主義のポジティビスティックな性格の捉え方

 19世紀初頭において「科学に対する楽観的態度」が支配的であり、そのような空気をプリンストン神学の基礎を築いた方たちも吸っていたとしても、それ自体では「科学的な態度に対する自信過剰」にはならないと思います。

 2011年に出されたC・ホッジの伝記の「序」やその紹介記事などをかいつまんで読んでみると、プリンストン神学の祖はどうも「新しい空気」に敏感でありながら、しかしカルヴィニズムの伝統を重んじることにも意識が強い人であり、その中にはカルヴィン来の「堕落した理性に対する顧慮」と「神の言葉」である聖書に対する先見的な主張依然強かった印象が強い。(この記事などほんの少し参照しました。)

 かつてボンヘッファーがバルト神学を「聖書啓示のポジティビズム(revelational positivism)」と呼んだらしいが(E・ベートゲ)、それと比較すると神学的洗練はないかもしれないが、根本主義の「聖書啓示のポジティビズム」に繋がるものがプリンストン神学の聖書観にあったとしても、それがよりポジティビスティックな性格を帯びるのは、やはりリベラリズムとの敵対的対決を経過してのことではないか、と勘ぐる次第。

《蛇足》
 より平均的(大衆的)アメリカ・キリスト教に対するスコットランド常識哲学(楽観的科学主義のような傾向)の影響も同時に押さえておくのも大切ではないか。

 19世紀、アレキサンダー・キャンベル(1788-1866)が祖の一人とされる「キリストの教会」の伝統として語られる「救いの計画(The Plan of Salvation)」にもこの理性主義的傾向は見られるのではないか、と既に指摘しました。

 さらにこのような回復運動がより「大衆的キリスト教」性格を帯び、(思弁的神学を嫌って)反知性主義的力学も加わって、「聖書記述を事実」としてそのまま受け取っていく「聖書解釈原則」の方向に働いたことも、その後の根本主義の背景として考えられるのではないか、と愚考します。


2016年12月23日金曜日

明日のイブ礼拝案内

クリスマス・イブ
キャンドルライト礼拝
12月24日(土) 夕7時~
 ※礼拝は1時間弱。その後軽食パーティー。
 ※この礼拝が年内最終集会となります。 
 降誕節第一主日
 2016年12月25日(日)
は巣鴨聖泉キリスト教会での礼拝はありません

新年は・・・
2017年1月1日(日)の元旦(主日)礼拝がスタートとなります。
時間は通常と同じ、10時30分~


以上年末年始の主日礼拝は不規則となりますのでご了承ください。

巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋崇

2016年12月17日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第四主日 クリスマス 礼拝

2016年12月18日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ルカ福音書 2:1-7
説 教 題 「彼らには泊まる所がなかった」
説 教 者 小嶋崇 牧師

  ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。                  (ルカ2:6-7、新共同訳)

2016年12月12日月曜日

(3)「イチオシ!」の入れ替え、2016 [追記]

イマイチお奨め(イチオシ)の本の評判を聞かないが、AI(人工知能)については既にお茶の間に浸透していると思う。

まだ皮膚感覚でその影響は感じていないが、近い将来にありそうな予感はかなりの人が感じているのではないか。

そんな中間もなく任期を終える米国オバマ大統領と、MITメディアラボの伊藤穰一氏との対談がWIREDという雑誌に掲載された。



国家のトップとして意外に先端技術に明るい・・・とTLで取りざたされている。

同ツィッターではフォローする東大大学院の伊東乾氏と「AI(人工知能)と倫理問題」について少しツイートを交わしたことがあった。


一読をおすすめ。

2016年12月11日日曜日

(5)新カルヴィン主義動向、5

また「新カルヴィン主義」に関連する動きが出てきましたので記事にします。

(※既にシリーズとして1~4を書いています。リンクはこちらの記事を参照してください。)

新しい動きとは南部バプテスト連盟にあって、新カルヴィニズム台頭の動きに歯止めをかけようとしている、あるいは「伝統的バプテストの立場」を保守しようとする動きのことです。

この動きに気がついたのは、ジーザス・クリード(ブログ)のこの記事です。

記事中のリンクが示されていた、リック・パトリック牧師のサウスウェスタン・(南部)バプテスト神学校チャペルでの説教を興味を持って聴きました。

ちょっと我ながら意外な感じがしたのですが、「雄弁」さを感じさせる40分でした。
終始一貫、新カルヴィニズムに対して「伝統的バプテスト(神学)の立場」を弁護しています。

早速調べてみると、このリック・パトリック牧師は新興勢力(新カルヴィズム)に対して伝統的立場を守るべく「コネクト316」 を立ち上げた発起人の一人で事務局長のような立場で指導者となっている方でした。

幾つかメモしておきたいポイントがあるのですが、この「対抗的動き」が

(1)(元々「告白神学(コンフェッショナル)的でない・・・筆者の印象)バプテストが「教理的部分」にこだわることによって「神学内容」を意識化する方向に行くのだろうか、と云うのが先ずあります。(アルミニアン・ウェスレアニズムはそのような対抗的動きの一つでしたが・・・。)

 コネクト316のサイトにある「宣言序文」の中に以下のような部分があります。
exclusively Calvinistic understanding of salvation, characterized by an aggressive insistence on the "Doctrines of Grace" ("TULIP"), and to the goal of making Calvinism the central Southern Baptist position on God's plan of salvation
伝統的立場を表すのが「神の救いの計画」であり、それがカルヴィン主義の救済論(チューリップで代表される)によって塗り替えられることに対する神学的抵抗運動、みたいないいっぷりになっています。

(2)「異質なもの」(と感知される)を排除するのではなく、伝統的なバプテストの立場を認めさせた上での「神学的な解釈」として共存していくのかどうか、分離とか分裂に展開して行くのかどうか、が今後注意して見て行く必要があるようです。

 リック・パトリック牧師の説教後にサウスウェスタン・(南部)バプテスト神学校学長のペイジ・パターソンがしたコメント(「新カルヴィニズム」を奉ずる者たちはその立場の教派に移ればよい・・・みたいなニュアンスの発言が説教に抗議してチャペルを出て行った学生たちに対して向けられた、云々)については、後日パターソン学長が釈明と云うか説明している記事があります。


以上まだまだ正確なところはよく分からないのですが、一応レポートしておきます。 

2016年12月10日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第三主日礼拝

2016年12月11日(日) 午前10時30分

朗読箇所 イザヤ書 9:1-7
説 教 題 「シオンに据えられた礎石」
説 教 者 小嶋崇 牧師
  それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。
  (イザヤ28:16、新共同訳)

2016年12月3日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第二主日礼拝

2016年12月4日(日) 午前10時30分

朗読箇所 イザヤ書 9:1-7
説 教 題 「
神の慈しみと厳しさ
説 教 者 小嶋崇 牧師
 

だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。
  (ローマ人への手紙11:22、新共同訳)      

今日のツイート 2016/12/3

今年の流行語大賞にノミネートされてたことでまた話題になっている。



 (社会学者)古市氏のツイートは「死ね」という過激なコトバを誰がどの文脈で使うかによっては「擁護」できる、という趣旨のようだ(と筆者は理解したが)。

 これに対して殆どの反論ツイートは「死ね」というコトバの「比喩」使用の無制限濫用の危険性、のような反応の仕方になっている。(「死ね」を比喩的に使うならば許されるのなら、ヘイトスピーチのような形で拡大してしまう・・・みたいな。)

 津田氏のツイートは「本来政治の文脈での現状への不満、改善申し立て」に集約される方向で「意見(ツイート)百出」が表現されれば・・・という意見のようである。

 筆者もどちらかと言えばそのような「正論」的議論に収まった方がよろしいと思うが、「民主政治が様々な不満を回収して政策に反映する」ことがなかなか出来ない(却って政治不信・諦めが進行する)現状では、この「個別の過激表現」を「流行語」祭りで「通路として」様々な人がそれぞれの「一過的怒りを爆発させる」現象(↓)自体を観察する必要があるのかな・・・という印象である。

 「じこぼう」さんのツイートはそのような(メディアによるガス抜き?)現象を「(後期資本主義社会)における消費」の視点で批判的に見るよう示唆している感じだ。

 インターネット・メディアが「政治と世論操作」の問題にどう関わっているか・・・はまだそれほど表立って問題になっていない印象だが・・・。


※少し蛇足かもしれないが、これも今朝のツイートなので追加しておこう。