人格攻撃でもなく、あくまでも比喩としての「死ね」と、具体的な他者や人格を貶めるために使う「死ね」は全然違うよ。しかも、他にどうしようもなく、そうするしかない悲痛な叫びとしての「日本死ね」でしょ。— 古市憲寿 (@poe1985) 2016年12月2日
日本死ね問題は様々なところに論点拡散しちゃって一番最初の「政治が都市部の待機児童問題まったく解消するつもりなくて無為無策(あるいは不作為)」という点に絞って、その議論もっと深めるなり与党に要望するなりした方がいいんじゃないですかね。一応参院選の争点に格上げされてたわけだし。— 津田大介 (@tsuda) 2016年12月2日
「保育園落ちた日本死ね」なんて日本を貶めていて日本人として傷つくし言葉使いが汚い、みたいなゆるふわ愛国民の反応はどうでもいいけど、日本という国や社会に対する激しい怒りや憤りの言葉ですら、「流行語大賞」などというお祭り騒ぎの中で消費してしまうことには、違和感を感じざるを得ない。— じこぼう (@kinkuma0327) 2016年12月2日
(社会学者)古市氏のツイートは「死ね」という過激なコトバを誰がどの文脈で使うかによっては「擁護」できる、という趣旨のようだ(と筆者は理解したが)。
これに対して殆どの反論ツイートは「死ね」というコトバの「比喩」使用の無制限濫用の危険性、のような反応の仕方になっている。(「死ね」を比喩的に使うならば許されるのなら、ヘイトスピーチのような形で拡大してしまう・・・みたいな。)
津田氏のツイートは「本来政治の文脈での現状への不満、改善申し立て」に集約される方向で「意見(ツイート)百出」が表現されれば・・・という意見のようである。
筆者もどちらかと言えばそのような「正論」的議論に収まった方がよろしいと思うが、「民主政治が様々な不満を回収して政策に反映する」ことがなかなか出来ない(却って政治不信・諦めが進行する)現状では、この「個別の過激表現」を「流行語」祭りで「通路として」様々な人がそれぞれの「一過的怒りを爆発させる」現象(↓)自体を観察する必要があるのかな・・・という印象である。
「じこぼう」さんのツイートはそのような(メディアによるガス抜き?)現象を「(後期資本主義社会)における消費」の視点で批判的に見るよう示唆している感じだ。
インターネット・メディアが「政治と世論操作」の問題にどう関わっているか・・・はまだそれほど表立って問題になっていない印象だが・・・。
※少し蛇足かもしれないが、これも今朝のツイートなので追加しておこう。
トランプのツイッター・アカウントは1640万人がフォローしている。彼のチームはこのアカウントで次々に重大な発表を行う。重要な発表をホワイトハウスの記者会見場ではなくネット上で行う傾向はオバマ政権でも見られたが、今後はさらに増えるだろう。デジタル化で記者のあり方も変わっていく。— 熊谷 徹 (@ToruKumagai) 2016年12月2日
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