2017年1月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年1月29日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ヨハネの黙示録 3:7-13
説 教 題 「固く守るべきもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師


わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい
               (黙示録3:11、新共同訳)
 

2017年1月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年1月22日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 11:1-4
説 教 題 「試みに会わせないでください」
説 教 者 小嶋崇 牧師

いのり(10)

2017年1月20日金曜日

(5)新カルヴィン主義動向、6

たまたまこういうツイートに出会いました。

要するに「neo-Calvinism」と「"new Calvinism"」は同じではないので区別しましょう・・・という「公報」(気取りの?)ツイートというわけです。

で、違いと言うのが(アブラハム)カイパー主義者が「neo-Calvinists」と言うのはいいのですが、「new Calvinists」とされるYRRとは何ぞや、と思ったわけです。

ちょっと調べてみたらなるほど、YRRとは
Young, Restless, Reformedの頭文字を取ったわけですね。

この「新カルヴィン主義動向」の2でも少し用語の整理をしておきましたが、あらためて思うにコリン・ハンセンが2006年にクリスチャニティー・トゥデー誌に書いたこの「Young, Restless, Reformed」という記事が新カルヴィン主義がまとまった動きとして認知される端緒となった記事なのでしょうね。

この「新カルヴィニズム」運動を、定義の問題も含めてまとまって紹介している記事がこれです。

これを読めば概略ほぼ分かるので、どうやらこのシリーズもそろそろ終了としましょう。

2017年1月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年1月15日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「出自は問題とならない」
説 教 者 小嶋崇 牧師 

コロサイ(35)/パウロ書簡の学び(152)


 「キリストにある」生き方④
  様々な出自の問題 (コロサイ3:11) 



そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。311節、新共同訳)
   
In this new humanity there is no question of "Greek and Jew," or "circumcised and uncircumcised," of "barbarian, Scythian," or "slave and free." The king is everything and in everything. (KNT)

この新しいいのちに生きる者には、国籍、人種、教育、社会的地位の違いなどは、全く問題ではありません。そんなものには何の意味もないのです。大切なのは、キリスト様を、しっかりつかんでいるかどうかです。そして、キリスト様を自分のものにする機会は、だれにも平等に与えられているのです。(リビングバイブル)
 

2017年1月10日火曜日

(4)民主主義と「ポスト真実」


民主主義社会において「ポスト真実」現象を支えているのは、有権者の政治との関わり方でもある。
・・・と(一応私が思うに)「ポスト真実」現象の一面を平易に語ってる記事です。

Ordinary citizens searching for the convenient satisfaction of immediate necessity are Donald Trump’s unwitting allies in an unseen war on democracy. It’s difficult to blame them. Most Americans are busy leading frenetic lives. In sound bites, they receive what passes for news; there’s no time to confirm its veracity. Politicians like Trump tell them what they want to hear; it pleases them. But quick solutions displace efforts to understand complicated challenges for which there are no easy answers.

「断片的な情報をニュースとして受け止め、その真実を確かめもせず、」忙しい日常生活をしていると「自分の耳に聞こえのいい情報を安易に濾過して聞くようになる」ところをトランプ候補のような戦術の人につけ込まれやすくなる・・・
といった感じです。

今日のツイート 2017/1/10

説教との比較でキャプチャーして見ました。

《観察1》
まあ「40分の講演」というと、説教としては長い方になりますね。


《観察2》
「説教原稿を読む説教」だとこう言う苦労はありませんが・・・。

その場合でも「会衆とのラポート」のため挿話の一つや二つは入れるでしょうが。
ラポート: 心が通い合って[互いに理解合って]いる状態.
「・・・講演では『言わなくてもいいこと、言わない方がいいこと』ばかりしゃべる・・・」のは、ラポートを求めすぎて脱線しやすい、ということもあるかも。

話の上手い人は往々にしてこの誘惑に負けやすいのでは。


《観察3》
筆者は「説教要旨」だけプログラムに書いておいて、実際は「時間内に収める」ことを枠としてある程度自由に語ります。

終わってから「予定・予想していなかったことを語った」中で、記録に留めておきたい気持が出る時はありますが、あえて「説教集」のような形にすることは今は考えていません。


2017年1月8日日曜日

(3)とりあえず一言

(1)この記事を書くに至ったいきさつ

 お友達のMH氏が新教出版社の月刊誌『福音と世界』(2017年1月号)に「万人祭司」に関して自己の教派的伝統からの小論(『万人祭司とキリスト集会派』)を書き、その号をご恵贈くださった。

 筆者とは別に贈呈を受けたK牧師がフェイスブック上で感想を披露なさった。

 その時点で筆者は小論を一読していたが、まだお礼のようなものは私的にも公的にも書いていなかった。

 まだ何かを書く気には至っていなかったが、お礼も言っていなかったので、K牧師の感想にかぶせる形でちょちょっと(フェイスブック上で)書いた。

 そうしたらMH氏がブログで自身の小論にコメント等を寄せた方々の文章からトピックを取り上げて3本の記事にしてアップした。

 その3番目の記事「『福音と世界』小論の著者としてのちょっとした応答 3」が

 「タカ牧師からの問題提起」

となっていて、ちょっと面食らったが、最近ブログ上での対論や討論はとんとなかったのでピンボケになるかもしれないとも思ったが、少し「反応」してみようと思った次第。


(2) プロテスタント諸教派の比較・・・メリット、デメリットで論ずることについて

 MH氏の記事は筆者のコメントを全部掲載した模様だが・・・

    (1)メリット、デメリットを判定している基準は何か。
    (2)分裂・分離した後「キリストの教会の一体性」をどうするのか。

    あるブログで「信仰進化」というカテゴリーで記事を書き出したのですが、MH氏もこのカテゴリーで書ける「動く標本」(失礼!)のような印象です。

と、このような書き出しで始まる文章を書いたわけでした。

しかし、最初の(1)の「メリット、デメリット」に関してはK牧師の以下のコメントを受けてのことでした。
    有給聖職者を置かないキリスト集会派ゆえのメリットもあるし、とは言え、専門教育を受けた者がいないゆえのデメリットもあるなぁと。多くのプロテスタント教会における牧師と信徒という関係ゆえのプラスもあるけれど、専門家に任せておけばいいという甘えや専門家ゆえの権威主義といったマイナス面も起きかねないことも感じます。

K牧師のこのコメントは、MH氏の小論(福音と世界1月号)のテーマである「万人祭司」についてと言うよりも、教会が(有給で)牧師を置くことのメリット、デメリットで、教会形成の実際問題として考え方、みたいな意見ではないかと思う。

それに対して筆者のコメントでの「メリット、デメリット」云々の意図は、広く「教会論の問題」が念頭にあってのことだったように思う。

宗教改革(と、その後も含め)の教会論は、第6回日本伝道会議の「N.T.ライトの義認論」でも問題提起をしたが、最近増々その感を強くしているところである。

   ※以下のような部分の指摘がそうです。
それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。


(3)「真の教会のしるし」

 神学校時代に覚えた「(真の)教会のしるし」、
(1)神の言葉を正しく説教する、
(2) 聖餐を正しく執行する、
が思いがけなく「義認論」で浮上してきたのだが(それについての経緯はここでは書かない)、聖職者制(職制と普通呼んでいるが)のメリット、デメリットが云々される文脈だと、突き詰めれば、この「真の教会のしるし」の議論に繋がっていく必要があるのではないかと思った次第。

この辺のことはまだまだ考察中で上手くまとめきれていないのだが、職制の考え方として「教職と信徒」の関係の問題というよりも、「使徒職」からの繋がりが先ずあるのではないかと思う。

聖霊の賜物としての「教える」ことが、ある意味「万人祭司」の考え方を支持する新約聖書的基盤であるが、そのラインでの問題ではなくもっと「神の言葉=福音の真理の(伝承と)弁証」に関わるのが(使徒)職制の意義ではないかと思う(Ⅰコリント15章)。

そのラインと並行すると思えるのが「聖餐」 である。

聖餐も、聖職者階級が独占していた「救いの恵みの配給」を万人祭司によって打ち破る・・・みたいな意義ではなく、福音の「見える言葉」としての聖餐を保守する役割としてのものであり、これも使徒職に遡る(Ⅰコリント11章)と言う認識である。

つまり、(1)神の言葉を正しく説教する、(2) 聖餐を正しく執行する、がなぜ職制と関わり、なぜ万人祭司的なオープンな考え方でやることに(少なくとも現時点で)なじまないかは、「福音」ということの「伝承」的側面から出てくる要請ではないかと思う。

新約聖書に遡ると第1コリント15章冒頭にあるように、「福音は厳密な伝承」を要請するプロセスであった。同じく聖餐も(福音を表すゆえ)同レペルの「伝承」のもとに執行された(と考えられる)ゆえ、「制度」として客観性がまがりなりにも保持され今日に至っているのではないかと思う次第。

職制と言うのは、「福音」の伝承が真正であることを管理し、客観的に保証する必要に伴う「必須の制度的枠組み」であることが大事な認識ではないかと思う。

この目的に沿った人的選択と訓練が重要視すべき問題となるのではないか。


以上試論的な域を出ないが「とりあえず一言」。

2017年1月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年1月8日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ローマ 3:1-21
説 教 題 「神は真実な方である」
説 教 者 小嶋崇 牧師



人はすべて偽り者であるとしても、
神は真実な方であるとすべきです。 (ロマ3:4)

2017年1月5日木曜日

(2)第6回 日本伝道会議(紀行)1

もう昨年になってしまいましたが、9月27日~30日、神戸で開催された第6回日本伝道会議(JCE6)に出席しました。

今回が初めての「日本伝道会議」でした。

この会議に出ようと思いたったのは、「N.T.ライトの義認論」をめぐって神学ディベートが「分科会」の一つとして取り上げられるのを聞いたからでした。

しかもその分科会での発表というお鉢が回ってきたため、という責任半分の参加理由でした。

会議には29日まで出席して帰ってきました。


帰ってから「報告」を書こうと思っていたのですが、結局年を越してしまいました。


今頃になって書くのは少ししんどいですが、あれこれ思い出しながら(先ずは)紀行文的にまとめて行こうと思います。


《1日目のできごと》

伝道会議は27日からでしたが、前日の26日に開催地神戸に入りました。


神戸は3年前にも行ったのですが、せっかくだから一日でも、と観光を試みようと思ったわけです。

午前中のフライトで羽田を発ち、神戸空港からポートライナーで三宮に移動して先ずは腹ごしらえ。

事前に調べておいた「神戸牛が安く食べられる」お店に行きました。



ロイン三宮店のミニステーキ定食です。
肉の厚みを二種にしてバリエーションを楽しめるようにしています。

ランチの後は腹ごなし。
新幹線『新神戸駅』の下を通り抜けて「布引の滝」へ。

道を聞いた地元のおじいさんが滝へ行くというので、途中パラパラとおしゃべりをしながら一緒に歩いて行きました。

当たり前でしょうが、神戸を誇りにしている方で、(東京に比べて神戸が)如何に住み良い街か・・・と話し掛けられるので7割方相槌を打っていました。


ここで一休みした後道を戻り神戸の町に戻らず山腹を横切って北野に出るコースを行きました。



北野ではお金のかかる観光は何もせず、ただ適当に歩き回り広場のような公園で観光客を眺めていました。


北野の街を降りて行くとカトリックの教会があったので、中に入り一瞬静まりの時を持ちました。


それから元町にある宿に入り、夕方になって夕食のため外出して元町辺で探したのですが適当なところが見つからず、家族亭でカレー蕎麦を注文しました。外れでした。


これだけでは少しお腹が満ちないので、宿の近くにあった肉屋のコロッケを買って食べました。


(次回に続く)