2011年11月12日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月13日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 15:1-29
説  教 「聖霊と教会」シリーズ(7)
説 教 題 「聖霊とわたしたちは」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2011年11月11日金曜日

ペットの死

筆者が購読しているメーリングリスト(英語)に最近こういう質問があった。

「飼っていた犬が亡くなって家中悲しんでいる。特に小さい子供たちのことを考えると、何か葬儀と言うか簡単なお祈りでもしてあげた方がいいかなと思うんだけど・・・。何か良いリソースがあったら教えて欲しい。」
と言った内容のものだった。

何人もの人がすぐ同情して色々とアドバイスをしていた。
お祈りの文章を書いてくる人や、同じような体験をした時に自分がしたことや感想を言う人もいた。

その中に『レインボー・ブリッジ』の話をしてあげるのはどうか、と言う提案をした方がいた。
Rainbow Bridge(以下導入部分を引用)
Just this side of heaven is a place called Rainbow Bridge.

When an animal dies that has been especially close to someone here, that pet goes to Rainbow Bridge.
There are meadows and hills for all of our special friends so they can run and play together.
There is plenty of food, water and sunshine, and our friends are warm and comfortable.
これはペットの死に悲しむ人のためのサイト、Pet Loss Grief Siteに収められている「お話」で、大意は天国の手前にあるレインボー橋というところで死んだペットが元気に回復して楽しく暮らしている、というものである。
そして飼い主が天国にやってくる時には走り迎えて一緒に天国に入る、と言う結末である。

このメーリングリストはキリスト教関係で、この話を子どもたちにしてあげるのは信仰的にどうか、と言う意見もあった。

どちらにしても最近気になるのがペットの家族化である。
ひどい場合は家族より溺愛する場合も見受けられる。
当然そのような存在だから、ペットの死も手厚く葬る。

で、(大衆)神学的にはどうか、と言うことがある。
はたして天国は人間だけでなくペットも入れるのか。
では人間以外の動物の中でペットだけが特別なのか。
他の家畜や野生動物はどうなるのか。
彼らの死には何らかの「葬り」のような儀礼が必要なのか。

そんなことを考えていくと、自然と共生していた原始社会の文化に近くなっていくような感じがする。現代人はただ「食べ物」としてしか受け取っていない生き物の命を原始社会の人間は同じ命を共有するもの同士として、狩猟や漁によって得たものの命を頂いて生きているという自覚を持っていた、それ故その命に感謝し敬意を表す儀礼を行っていたように思うのだ。
ただそのような文化を理想化する傾向も現代人にはあるかもしれない。

そんなこと考えなくても、現代人はペットが死ぬと「天国に行った」と簡単に思っている人は多いだろう。
と言うかそのように自分を慰めている。
確かに長年一緒に暮らしてきたペットには「個体」としての性格と言うか「魂」とも思しきものを持ち合わせているように考えても不思議ではない。
最近ではペット用の葬儀やお墓もあるようである。

教会にもペットのための葬儀を依頼してくるような時代は来ているのかもしれない。

2011年11月9日水曜日

聖書2題 追記

「聖書2題」の記事に「はちことぼぼるの日記」改め「ミルトスの木かげで」ブログのはちこさんがコメントを下さいました。(左コラム下の「最近のコメント」)

今年一月に行かれたマコト・フジムラさんの
The Four Holy Gospels展覧会
の様子を紹介した記事のことを書いておられます。

せっかくですので記事のリンクをこちらの方で。
 「フジムラ・マコトさん」

一緒にこのブログ記事も紹介すればよかったのですが・・・。

なかなかの盛況だった様子。日本での展示会はどうなるやら。

2011年11月8日火曜日

聖書2題

先日、日系アメリカ人のアーティスト(絵画)マコト・フジムラが自身のツィッターであるブログ記事を推薦していた。
長老派の牧師がマコト・フジムラのアートを批評している記事で、結構フジムラのアートをよく理解している、と言うようなものだった。

Fractured Lightと題するその記事で、やはり美術に関心を寄せていたフランシス・シェーファーと比較しながらフジムラのアートに対する姿勢を「一般啓示」との関連で分析している。
The weakness in Schaeffer's view of art resides in his failure to appreciate the common grace gifts of the Spirit in common culture. A lack of faith is not the only ingredient in the creativity of unbelievers, although unbelief sometimes expresses itself in ugly and even reprehensible ways. True beauty may be created by the non-Christian artist or poet made in God's image. General revelation is no less God's revelation.
Like Schaeffer, Fujimura self-consciously reflects on art through the lens of his Christianity—as well he should. However, Fujimura also recognizes the brilliant insight of the artistry of his unbelieving Nihonga master Matazo Kayama-sensei (1927-2004), as well as many other modern western artists, like Mark Rothko.
一応フジムラのことは暫く前から気になっていた。
キリスト教信仰とアートを、いやアートを含めた文化を現代の混沌とした様相の中で積極的に交渉させようとしている大胆な構想力の持ち主だと注目している。

既にアーティストとしての地歩を築いている人であるからそれなりに有名な割には教会と言うかキリスト教側からはそれほど評価されていないような気がする。

ところでこのフジムラが欽定訳400年を記念したプロジェクトとして自分の抽象画を配した「四福音書」を刊行している。
the Four Holy-Gospels
日本での展示は、日本橋高島屋デパートで、12月21-27日まで開かれる予定である。
挿絵付きの聖書はこれまで常に写実画であったが、フジムラによって初めて抽象画、モダンアートによるものとなる、とサイトに説明されている。

聖書についての2題目はN.T.ライトによる新約聖書個人訳、The Kingdom New Testament、の出版だ。
今日アマゾンに注文していたのが届いた。

ライトは新約聖書27巻全部にEveryoneシリーズと言う一般読者向けの註解書を刊行していたのだがそれが全部終わり、まとめと言うかこのように個人訳を出したと言うわけだ。

ちょっと気になる箇所を拾って紹介して見よう(強調は筆者)。

ヨハネ1章1-2節
In the beginning was the Word. The Word was close beside God, and the Word was God. In the beginning, he was close beside God.
ヨハネ3章16節
This, you see, is how much God loved the world: enough to give his only, special son, so that everyone who believes in him should not be lost but should share in the life of God's new age.
ローマ人への手紙3章21-22節
But now, quite apart from the law (though the law and the prophets bore witness to it), God's covenant justice has been displayed. God's covenant justice comes into operation through the faithfulness of Jesus the Messiah, for the benefit of all who have faith.
ライトの著作に触れている人にとってはそれほど目新しいことはないかもしれないが、改めてこうして「新約聖書」として読んでみると結構味わい深い箇所が多いのではないかと期待している。

2011年11月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月6日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説教箇所 ヨハネの福音書 15:9
説 教 題 「愛にとどまる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2011年11月3日木曜日

70億人

2011年10月31日に世界の人口が70億人を越えた、と話題になっている。

テレビのニュースではこの日に生まれた子は70億人目として認定されるそうだ。

一応「お祝い」の雰囲気のニュースとして流れているが、このような人口「爆発」は様々な問題を呼び起こすことは大分前から考えられていた。例えば1972年に出されたThe Limits to Growth。

経済成長を支える資源問題、食糧問題、それから最近とみに注目されているのが「水」資源の問題だ。

日本はと言うと人口減少から経済縮小が予想され、別なセットの問題が予測されているが。

創世記には「産めよ、増えよ、地を満たせ」とあるが、現在の人口問題から見るとその限度は既に大分前に越えているから、21世紀の文脈では「世界を管理する」方が大きな意味を持っている。

3.11以降「地球温暖化」のようなグローバル問題は一時視界から外れている感じがあるが、とにかく今の時代グローバルな問題は増えるばかりのような気がする。

そんなこんなを考えていたら、7 Billion Actionsと言うサイトがあった。国連関係組織ということらしいが、この「危機」に対して二つの目標を立てている。
  • Building global awareness around the opportunities and challenges associated with a world of seven billion people.
  • Inspiring governments, NGOs, private sector, media, academia and individuals to take actions that will have a socially positive impact.
二つ目のところに「個々人」もとあるように、政府や関連組織だけでなく普通の人もこの課題に関心を持って行動するよう働きかける、と言うことなのだろう。つまり世界の人々がこの問題を共有することが目指されている。
「70億人行動」と言うキャンペーンは特に7つの問題に焦点を絞っている。
  • Poverty and inequality;
  • Women and girls empowerment;
  • Reproductive health and rights;
  • Young people;
  • Aging population;
  • Environment;
  • Urbanization.
先進諸国での人口増加はほぼ頭打ちだと思うが、発展途上国での人口増加に伴うニーズは上に掲げた問題だけでも大変なものになるだろう。
教育による人材育成も少しはこのような問題を意識して為される必要があるだろう。

などと書いてみたが、やはり問題が大き過ぎて何をどう考えたらいいのやら・・・。

2011年11月1日火曜日

会堂改修工事

2001年新会堂が建ってから今年11月でまもなく10年。

数年前から外壁撥水塗装工事の準備(積立献金)をしてきた。

今年9月設計をした事務所の今井氏に点検してもらったのだが、結局建物全体の「定期検診」になった。
修繕が必要な箇所をリストアップして頂き、工務店に見積もりを出してもらった。

外壁撥水塗装工事だけなら準備してきた基金で収まったのだが、他にも修繕が必要な箇所が幾つかあり予想よりも大きな工事になってしまった。

その工事もようやく終わり、先日今井氏と工務店の方と三人で工事の完了を確認した。

コンクリート打ち放しの壁は大分きれいになった、ように見える。

確認が終わってから三人で四方山話。
と言っても建物等に関することだが。

実は新会堂になった後入り口が以前の時の場所と変わったことにより、道路に面した入り口のほぼ真ん中に電信柱が来るようになってしまった。
設計段階でそのことは分かっていたが、移動費用は工事見積もりを減額する過程で外れてしまった。
また別の機会に、となったわけである。

今回担当した工務店の方がいかにもこの電信柱の位置が気になって仕方なく、何とか移動するよう提案した。

10年の間何もせずに来てしまったが改めてこの電信柱の位置が「目の上のたんこぶ」に感じられてきた。
慣れている人はいいが初めて来る人や通りがかりの人にはやはり「変に」感じるだろう。
まるで通せんぼでもしてるみたいに。

工務店の方曰く、「こんないい雰囲気の場所なのにこの電信柱で台無しだ。」

なるほど景観的にこの電信柱によって何割方かその魅力を削がれていることは間違いない。
段々「何とかしなきゃ」と思うようになって来た。
これからどれだけこの教会施設を使って催しが為されるか分からないが、やはり将来的にも早いうちにこの電信柱を移動しなければ。

と言うことでこの工務店の方が早速東京電力の方に電話で問い合わせてくださった。

まもなく移動に関わる実地検査や見積もりについて調査をすることになった。