2011年9月27日火曜日

「史的イエス」と「史的キリスト」?

先日の「英語圏ブログ紹介④」の追記もかねて。

ただ今あるグループの同人誌のようなものの原稿を依頼されて執筆中です。
タイトルは「N. T. ライトと『史的イエス』」で大体四分の三くらいまで埋めることが出来ました。(9000字まで)

ライトについては色々な機会に簡単な文章は書いてきているので大丈夫だろうと引き受けたのですが、やはりそれなりに苦労します。
今週金曜日まで締め切りと言われているのでまあ何とかなるとは思いますが・・・。

「史的イエス」と言えば、「イエスの死」の歴史的・神学的意義も問題になるところですが、ちょうど今週の土曜日は「ライト読書会」があり、課題論文が
Jesus, Israel and the Cross
になっています。

そんなわけで原稿の執筆にもちょうど助けにはなっているのですが、この論文は1985年のもので少し古いし、「キリスト教起源と『神』問題」シリーズの二巻目、「イエスと神の勝利」にも目を通しています。
この本の中でライトは、自身も含めた「史的イエスの第三の探求」の研究者たちの問題設定を6つ挙げて、各研究者の方向性と傾向を評価する視座としています。
① How does Jesus fit into Judaism?
② What were Jesus aims?
③ Why did Jesus die?
④ How and why did the Early Church begin?
⑤ Why are the Gospels what they are?
⑥ Agenda and theology.(Pp.89-121)
大変広い視野と野心的な研究姿勢がこんな設定を第三探求に課しているように思います。

ライトは困難な作業が待ち構えているけれども歴史的研究としてはこの位徹底してやれるだけの立場に第三探求が置かれていると認識しています。
つまり『史的イエス』研究の将来に対して非常に楽観的姿勢を取っているわけですが、日本において「史的イエス」に関心を持つ神学者、上智大学神学部教授の岩島忠彦教授は、ラリー・フルタド著「主イエス・キリストーーキリスト教最初期におけるイエスへの信心」の書評で、欧米の「史的イエス」第三の探求について次のようなコメントと評価をしているのです。
 目下、聖書学界では米国を中心とする史的イエスの第三探求がもっぱらの話題である。J・D・クロッサン、M・ボーグ、E・P・サンダーズ、J・マイヤー、N・T・ライト、B・ウィゼリントン等々、それぞれが(時として何分冊にもなる)大著を刊行している。これら「第三探求」のキリスト論的貢献は無視できないものであるが、その膨大なエネルギーに比して、これまでに得られている成果は乏しいように思われる。一部の学者たちは、イエスのユダヤ性に注目し、そこから終末の到来にかける預言者としてイエス像を描き出すが(例えばライト)、これは基本的には二十世紀初頭のシュヴァイツァーのラインの踏襲である。…
筆者が言いたいのは、史的イエスの探求には限界があるということである。聖書学者は二百年以上これに携わってきた。今日その探求はますます厳密さを要求されている。確かにこのテーマ抜きには、イエス・キリストを論じることはできない。しかし、史的イエスという課題は、問題設定自体が持つ限界があるということが、特に今日明らかになりつつあるように思う。筆者は組織神学者である。少なくとも信仰の学としての神学としてキリスト論を論じるには、別のアプローチが必要であると思われる。この別のアプローチをフルタドは提供しているように思われる。それは「史的イエス」ならぬ「史的キリスト」の研究である。(書評リンク
とまあ「史的イエス」研究に対して非常に悲観的な評価なのです。

依頼された原稿ではこのコメントに対して筆者の考えを付記して結論に持って行こうと思っています。

2011年9月24日土曜日

明日の礼拝案内

9月25日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:8-5:1
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:21
説 教 題 「律法に聞く」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(68)
ガラテヤ人への手紙(56)
・4:21-5:1 自由の子

※プチ・オープン・チャーチ・カフェ、午後1-3時

2011年9月23日金曜日

英語圏ブログ紹介④

先日「今日注文した本」で紹介した
Larry W. Hurtado, Lord Jesus Christ: Devotion to Jesus in Earliest Christianity.
を読み始めている。
 
他の数冊も序文、目次、導入などに目を通したがどうやらこの本が今一番読みたい感じなのである。実際20数ページまで読み進んだ。
 
ところでアカデミックな世界では有名でも一般には知られていない学者は結構いる。
今まではそれが普通だった。
しかしネット世界の登場で、そしてブログが活用されるようになって、学者たちは自分から一般に向けて積極的に学会での議論や最近の研究動向などを発信するようになった。
特に30代から50代の若手から中堅にかけての学者たちがブログを有効に活用している。
 
「英語圏ブログ紹介」はそのような方々のブログを主に紹介している。
 
ところでラリー・フルタドは今年68になる。ちょうどエジンバラ大学を定年退職した方だが、この年齢の方にしては珍しく最近(2010年7月)ブログを始められた方だ。
 
で、そのブログだが、その名の通りLarry Hurtad's Blog と言う何の変哲もない名称である。
ブログ内容は主に彼の研究に関連するもので個人的な事柄のようなものは殆んどない。
だからコメントも真面目に研究に関すること、と注意書きしている。
 
ブログが開設された当初、若手の研究家たちは大いにこれを歓迎し、彼のような実績のある学者がブログ界に登場することを称えた。
確かにそうだ。自分の研究過程にあることや今までの研究実績から若手の研究者たちや一般の読者たちを励ましたり、鼓舞したり、少し苦言を呈したりするような存在は貴重だと思う。
フルタド教授の主要研究対象はイエスが初代教会においてどのように礼拝対象となって行ったのか、を歴史的に究明することである。
 
最新のブログ・エントリーでは、
Karl-Heinrich Ostmeyer, Kommunikation mitt Gott und Christus: Sprache und Theologie des Gebetes im Neuen Testament, WUNT, 197 (Tübingen: Mohr Siebeck, 2006). 
と言う「神」「キリスト」に対する祈り(呼びかけや会話)の研究書を紹介している。ちょっと引用してみよう。(英訳はフルタド教授によるもの) 
“Praise of God unconnected to the confession of Christ as the Lord is for Paul unthinkable” (p. 87). 
キリストを主と告白することと関連なく神への賛美をすることはパウロには考えられない。
“It is indisputable that Paul was familiar with communication with [the risen] Jesus.  . . . . [For Paul] The relationship of people to God differs from the relationship to Jesus; the manner of communication of Christians with both is not exchangeable” (98). 
パウロが復活の主とコミュニケーションを持つことが珍しいものでないことは論を待たない。 パウロにとって、人々と神との関係、そしてイエスとの関係は異なるものである。キリスト者と両者とのコミュニケーションの持ち方も同様混同されていない。
“God and Christ are not addressed in the same way.  God alone is addressed in thanks and worship.  Christ is the one through whose saving work is opened the possibility of thanks to and worship of God” (115).
神に対する呼びかけ方とキリストに対する呼びかけ方は同一ではない。神だけが感謝と礼拝の対象として呼びかけられている。キリストはこのような神への感謝と賛美を可能にした救済者なるお方である。
新約学や初代キリスト教史に関し、少し専門的な関心のある方にはお勧めのブログである。

2011年9月21日水曜日

日本人によるパウロ研究

先日(7月20日)「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」と言う記事の中で以下のような発言をした。
英語圏では神学や聖書学を専門にしているブログが数多くあるが、日本語圏では非常に少ない。
既に少し書いたがこの辺の事情を日本の研究者たちはもっと真剣に考えて欲しい。
学会に対してだけでなく、ネットパブリックに対してもせっかくの研究成果をもっと発表して欲しいものである。
筆者は現在主日礼拝の説教で「ガラテヤ人への手紙」を取り上げている。
既に4章に入っていて、いやもう4章の最後の区分、4:21-5:1に入ろうとしている。

筆者は原典釈義はしない(やったとしても中途半端なことしか出来ないので余りやろうと思わない)。
その代わりパウロ研究書や註解書(ワード聖書註解に収められている、リチャード・ロングネッカーの「ガラテヤ書」)などを参照している。

ネットでも色々探索するが、さすがにパウロ研究のトピックを記事にしているブログ(英語圏)は沢山ある。
最近の収穫としてはガラテヤ人への手紙に特化したサイトを見つけた。
Paul's Epistle to the Galatians

ガラテヤ書関連のトピックや書籍紹介などが行われているが、その他に「註解書文献リスト」と、『ピスティス・クリストゥー』を「主格」「目的格」のどちらに取るかで学者・文献をまとめているページがある。

今日それらのページを読んでいて二つ発見した。

発見①ちょうど講解しようとしている箇所に関するエントリーがあった。
Andrew Perriman on Galatians,4:21-5:1 Available Online)。
まだ全文読んでいないが、結構まとまった内容のものである。
pdf文書でHDDに保存した。

発見②『ピスティス・クリストゥー』のページに日本人研究者の名前が・・・。
Ota, Shuji. “Absolute Use of ΠΙΣΤΙΣ and ΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ in Paul.” Annual of the Japanese Biblical Institute. 23 (1997): 64-82.
これは珍しい。と言うかこのサイト主がリストに研究者・論文を網羅しようとしているからなのだろう。

さて先に引用したように日本人研究者は大学の紀要や論文集には発表するが、自分でブログを立ち上げ専門的な研究成果を一般向けに公開しようとする人が、少なくとも聖書学の分野ではなかなか見当たらない。
この辺英語圏のブログと比較すると大変な落差がある。

残念ながら太田修司氏のこの論文はネットには見当たらないが、氏が所属する一橋大学の方からネットで読めるようになっている何と2011年の論文がある。
これだ。
「ローマ書におけるピスティスとノモス(1)」

まっちょっと読み出してみたがやはり専門的過ぎて骨が折れる。
やはりブログのような形でもう少し一般読者に向けて噛み砕いて書いてくれたらなー、と思う。
でもネットにあるだけでも大したものだと思う。
それぐらい日本の研究環境はネットパブリックと断絶しているから。

この太田修司氏とはどんな研究者なのか殆んど詳しいことは知らないが、日本におけるパウロ研究ではかなりな人なのではないだろうか。前掲の論文でも大抵の欧米の研究者(筆者の知る範囲で)には言及している。

と、今日は主に自分用のメモでした。

2011年9月19日月曜日

聖書解釈と無誤論

先日は欧米福音的キリスト者の間でたった今話題の本、The King Jesus Gospel、を紹介した。
今回もたった今論争の的となっている本を紹介しよう。


Michael R. Licona, The Resurrection of Jesus: A New Historiographical Approach.

なぜこの本が話題になっているのか。それはこの本がN.T.WrightのThe Resurrection of the Son of God、の後にまたもやイエスの復活を歴史的に論証したからではない。但し、マイケル・バードはライトの本までとは行かないがかなり近くまでその成果を挙げているとこの研究書を評価している。(リンク
そうではなくてたまたま復活の関連で取り上げたマタイの箇所に関する解釈で論争を起こされたからだ。
まずはその関連箇所だが、
墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。(マタイの福音書27:52-53、新共同訳)
となっている。 
ライコナ(発音は定かではない)氏はこの箇所を色々と釈義的に検討した結果、黙示文学的な、詩的な表現による神学的意義の強調と受け止めた。(つまり第一義的に直接的歴史的出来事の叙述とは取らなかった。)

これを見逃さなかったのが「聖書無誤論」で有名なノーマン・ガイスラー氏で、二度に渡ってライコナ氏に歴史的叙述であることを認め自説を撤回するよう要請した。
ガイスラー氏曰く、「ライコナ氏は福音主義神学会の会員である。福音主義神学会はシカゴ声明で定義した『聖書無誤論』の立場を奉じているから、それに反する聖書解釈は許されない。故にライコナ氏の取るべき行動は自説の撤回である。」と言うのである。(ガイスラー氏自身は福音主義学会員ではなく数年前に何かのことで退会している。)

これで「個別の聖書箇所の解釈を巡る『無誤論』論争」の火蓋がきって落とされたわけである。相変わらず保守主義論客を自認するアルバート・モラー・ジュニア氏も見逃してはおかない。自分のブログで論争に加わった。(リンク

筆者の感じでは、「またかー」なのである。
保守的な聖書論者(歴史的叙述であることを前提している)と、聖書学の知見を援用して釈義に幅を持たせる研究者の対立の構図なのである。
進化論論争と並べればその類似性が見て取れる。「創世記の記述は『事実』を叙述している」と取る立場はそのような解釈が自明であると考え、もっと文学的に幅のある解釈を導入しようとすると、たちまち「聖書の権威を脅かす」と受け取るのである。

このような論争に何度も巻き込まれている者たちは、「いい加減頭から『聖書の権威』や『無誤論』を振りかざす議論はやめて、もっと対話的討論をしようではないか」となる。
すぐ二者択一に持ち込む、どっちが勝つか勝負するような議論は非生産的で、建設的な知識の探求に寄与しないことを思い嘆くのである。

ところでライト教授はこの箇所をどう解釈しているか。久しぶりにあの大著のページをめくってみた。かなり史実的なものとマタイが受け取っている、と言う立場を有力と見ているが、当該箇所自体の独自性や不明性を鑑み、決定的な解釈には達せられない、との立場であった。

この論争に興味のある方は、この記事を書くのに参照したマーク・コーテズの記事から読み始めるのが良いかもしれない。記事の終わりに関連ブログ記事等がまとめられている。

2011年9月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月18日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 4:1-31
説  教 「聖霊と教会」シリーズ(5)
説 教 題 「地上の権威とイエスの権威」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2011年9月16日金曜日

プチ・オープン・チャーチ・カフェ

日時:2011年9月25日、午後1-3時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会及び活水工房
※ミニ・バザーもあります

3年前だったか、教会の文化祭、と言ったコンセプトで始まったのが「オープン・チャーチ」。
敷居の高い教会を地域の人に開放する、と言う目的で取り掛かったのだが、最初は色々な人の応援もあって「内輪の人たち」だけである程度盛況になってしまった。

その次の年、昨年だが今度はなるべく教会の中の人たちで出来ることをしようと言うことになり、こじんまりとした「オープン・チャーチ」になった。
写真、書、俳句、を展示して、道路にテーブルを出して工房から出た端材(ただ)や銀杏を売ったりした。

今年も「オープン・チャーチ」は継続すると言うことで決めていたが、規模は更に縮小。
それでネーミングもそれに合わせてスケール・ダウン。
「オープン・チャーチ」の前にプチをつけることにした。
更に今年は展示をやめて「カフェ」で行くことにした。

教会によっては立派な看板や、扉がついていて雨風をしのげるようになっている箱のようなケースのような案内板を持っているところもある。
大抵主日礼拝の説教題などが筆と墨でしたためられていたりする。
そんなものは当教会にはないので、今回のイベント案内はパソコンでワード文書にチラシを作成し、教会のプリンターではA4までなので、A3プリントアウトとラミネートを3枚外注した。
結構お金がかかるもので1700円ちょっとだった。
普段伝道的なことをしないので、この程度の「伝道」出費は致し方ない。

それにしても教会が外に向かって伝道する時の考え方や姿勢と、信徒でもない方々が教会に求めるものとは大分ずれがあることを最近感じる。

教会の前には「自由にお入りください。」と言う木の札が看板に張ってあるのだが、それはイベントを案内した時の意味で、常に教会堂が開放されているわけではない。
普段はしまっている。
しかし通りがかりの人が、この案内を見てか、見ないでか、いきなり玄関を開けて入って来ようとすることが年間数回ある。
その人たちは「当然開いている」と思って玄関を開けようとするわけだが閉まっている。
「どうしたんだろう」としばし立ち止まって考えた後あきらめて帰って行く。

たまたま事務室で玄関ががたがたと音がしたのを聞きつけた場合は、ちょうど敷地から出ようとしている人に向かって「何の御用でしょうか」と聞く。大抵「ちょっとお祈りしたいと思って・・・。」と言うことが多い。
恐らくカトリックの聖堂の先入観なのだろう。
残念ながらそのような開放の体勢は取っていないので、と事情を説明してお引取り願っている。

まだまだ今の時代の人との「うまいインターフェース」を作れていない教会の「お招き」を今年もトライする。