2012年2月29日水曜日

唯一の聖なる公同の教会

久保木牧師のブログ記事「これからの経済、政治、宗教」に触発されて「混乱期を迎えるキリスト教への挑戦」を書いて暫く経った。
久保木牧師はこれに応えるように、「イエス・キリストにある普遍性を求めて」と言う記事を投稿して下さったが、この記事で新たにカトリックの晴佐久神父のビデオ・クリップ(4時間位)や、小原克博氏や藤本満師の宗教多元主義や排他主義に関する論文を紹介して下さり、それらを消化するのに時間がかかり応答が遅れてしまいました。
いや消化なんて言い過ぎで、小原氏の論文などは斜め読みがやっと、論点を掴むまでには至っていませんが、せっかくの機会これ以上放っておくと旬が過ぎてしまいますので、久保木師の上掲の記事に何とか絡み付いて一文書いてみようと思います。
まあ大したことは書けないので適当にスルーしてもらって結構ですが・・・。

一番印象に残ったのは晴佐久神父がビデオ・クリップの中で黒板にも書いていたことですが、普遍的な教会は「唯一性」「聖性」「公同性」を同時に併せ持たなければならない、との指摘でした。
そしてカトリック教会はそのような教会を目指さなければならない、として現実のカトリック教会とは一応区別して捉えていたことでした。(と筆者には聞こえました。)

久保木牧師も恐らくこの考え方に触発されてのことだと思いますが、記事の中で

「聖なる公同の教会」という、キリスト教会のアイデンティティを
私たちは見直す必要があるように思います。
公同とは「カトリック」=普遍的ということです。
原理主義でなく、普遍性へのチャレンジと言えるでしょう。
既存の教皇をトップとしたカトリック教会を目指すというのでなく、
真の普遍性を求めていく教会ということです。
と書いておられます。

筆者は失礼ながら晴佐久神父の名前は伺っていたけれども、そしてその説教やビデオをチラッと位見させて頂いたことはあるけれども、正直「人気者」「受けのいいことを言う神父」のような印象で終わらせていました。

しかしこのビデオ・クリップをじっくりと見させて頂き、彼の一見能天気、自由奔放で楽観主義的な(失礼!)発言はかなりの信仰的遍歴を経て辿り着いた見地であることを知りました。
それで晴佐久神父に対する見方、そして久保木牧師が取り上げた筆者のツイッターでの発言を改めて見直すことが出来ました。

同時に久保木牧師の「わくわく感」が晴佐久神父が表出している、何て表現したら言いのだろう、一皮向けたと言うか、突き抜けたと言うか、宣教に対する熱い思いのようなものを共有しているものであることを感じました。

久保木牧師が同記事を
時代がどのように混乱しようとも
この世の闇、この世の悲しみに対応するのは
普遍性を追求していく教会以外にありえないのです。
その意味で、前回の記事の終わりのほうに書いたわくわくにつながっています。
困難な時代を迎え、
忸怩たる思いのときもあるでしょう。
しかし、イエス・キリストにある普遍性ゆえの喜び、希望に立って歩める幸いを
いつも大切にしていきたいし、それを分かち合って歩みたいと願っています。
と締めくくっていますが、「唯一の聖なる公同教会」と言うオーソドックスな教会観に基づいて困難な状況を切り拓いて行こうと言う気概を感じ「アーメン」と言わざるを得ません。

筆者がもしパウロの言葉を借りて言うならば、このような教会観の基盤となるのは、神の唯一性と御子イエス・キリストの至高の主権性ではないかと思うのです。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。(ロマ11章36節)
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(エペソ4章6節)
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。(コロサイ1章16節)
さて、久保木牧師の関心、探究心に溢れた論考を感謝します。
また“現実主義”に引っ張られやすい中年牧師を刺激してください。

2012年2月28日火曜日

キング・ジーザス

スコット・マクナイトの「キング・ジーザス・ゴスペル」のサイトが出来ました。

そちらの方に「初めての挨拶」として「キング・ジーザス」について一文書きましたのでよろしければお読みください。
初めまして

2012年2月26日日曜日

英語圏ブログ紹介⑧

今キリスト教暦では「レント」の時期を過ごしています。

筆者の教会ではそれほどキリスト教暦に従った礼拝構成をしていません。

でも最近ブログやツイッターで、キリスト教暦の「灰の水曜日」から始まる「レント」を題材にしていたり話題にしていたりするのが目立ちます。(筆者の気のせいでしょうか。)

それで今回ご紹介する「英語圏ブログ」はそのレントについての記事を投稿している、tallskinnykiwiです。
(tall skinny kiwi、と分けて読んでくださればどこの英語圏かご推察できると思います。そうですニュージーランドです。初ですね。今までの「英語圏ブログ紹介」は殆んど北米かオーストラリアだったと思います。)

40 Days of Lent
でレントに入る「モード作り」を簡単に紹介していますので、今からでもレントを取り入れたい方はご覧になってみて下さい。

2012年2月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月26日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:10-12
説 教 題 「十字架のつまずき」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(76)
ガラテヤ人への手紙(64)
・5:2-15 キリスト者の自由と律法
(B)5:7-12 割礼を宣べ伝える者

「良心主義の自己矛盾」

「小海キリスト教会牧師所感」ブログから

『小川圭治先生のこと』

良心主義の自己矛盾を解決するのは、良心自身、主体自身ではありえない。超越が、すなわちキリストにある神の恵みがその解決である漱石はそれを拒んだまま「今死んじゃあ困る。今死んじゃあ困る。」と言いながら、死んでいった。ちっぽけな道端の石ころにすぎないような私は、キリスト十字架の贖いによって、あの矛盾から救われて今、恵みのうちに生かされている不思議を思う。
漱石が代表する「日本近代知識人の『近代的自我』の問題」と「十字架の福音」との連絡が語られていて興味深い。

「十字架の福音」をどのような文脈で読み解くか、近代人の実存的問題として読むことも出来るし、一世紀ユダヤ人と異邦人の実存的問題として読むことも出来る。

後者に関しては、マイケル・バード師のレント説教『三つの十字架』(ガラテヤ書からの講解)を一聴することをお勧めする。
My Lenten Sermon-Three Crucifixions
音声ファイル(MP3)

キリスト教世界観ネットワーク2012年の集い

筆者も毎年参加している「キリスト教世界観ネットワークの集い」をこちらでも案内させて頂く。

日時:3月3 日(土曜)1時30分ー4時まで
場所:お茶の水クリスチャンセンター9階
    東京都千代田区神田駿河台2−1  
    Tel:03−3296−1001
地図:http://ochanomizu.cc/hp-2010map.php

内容:約45分の講演。その後は互いの近況報告。
費用:無料、席上の自由献金あり

原発への神学的アプローチ
ー小説家の想像力とキリスト者の予見性ー

昨年3 月の大震災の後、日本は大きく揺れ動いています。キリスト者も、多くが被災者を支援しているだけでなく、聖書を基盤にこの出来事を考える努力を続けていま す。この度は、記録文学作家であり、また信徒伝道師でもある山川暁さんをお招きし、小説家を通してみた原発問題という珍しい視点、そして原発を神学的にど うとらえるかという試みを分かち合っていただきます。

※(元サイトへのリンク

この会(ネットワーク)は正統的福音派教会、福音主義の流れに身を置きながらも、従来の思考やライフスタイルに疑問を感じたり、問題意識を感じたりしている方々が、それを安心して口に出して分かち合うことが出来るように配慮している交わりです。
集いでは時には批判も出ますが、交わりが目指しているのは「豊かな福音に根ざしたライフスタイル」を相互啓発し、励ましあうことです。

2012年2月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月19日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:7-9
説 教 題 「あなたがたはよく走っていた」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(75)
ガラテヤ人への手紙(63)
・5:2-15 キリスト者の自由と律法
(B)5:7-12 割礼を宣べ伝える者