2011年2月28日月曜日

パウロ研究と宣教学的解釈論

今日で二月も終わり。
二月最後のポストの題がかなりいかめしいものになってしまいました。

右サイドバーの「マイ・ブログ・リスト」には入っていませんが、常時閲覧している「聖書学・神学」関連のブログは10個近くあります(殆んど英語ブログ)。
今日はその中の一つ、アメリカの新約聖書学者のマイケル・ゴーマン教授のブログ
Cross Talk
の最新ポスト
Missional Musings On Paul
を紹介します。
※カタリストという雑誌に寄稿した小論ですが、リンクの方は最新ポストをご覧ください。

最近の新約学の動向として「パウロ研究」と「宣教学的解釈論」が近寄って興味深い研究が形成されつつある、と言うレポートです。

宣教学的解釈論とは宣教学でもなく解釈学でもない。それは宣教学者と聖書学者が協働して聖書に示されている「神の宣教」を探索し、その宣教に参画することだ、とゴーマン教授は言います。

Missional hermeneutics is neither the same as missiology nor the same as hermeneutics as it has been normally practiced. Rather, missional hermeneutics is what happens when missiologists and biblical scholars intentionally work together to probe the biblical text for what it says about the missio Dei and about our participation in it.

もともとミシガン州にあるウェスタン神学校の「福音書と文化ネットワーク」が始めた「宣教的解釈論フォーラム」が北米聖書学会と共同するようになって発展してきた研究テーマのようです。

パウロを宣教師として捉え、パウロ書簡を宣教的(ミッショナル)文書として捉え直すと、その理解は単に釈義的な理解や、歴史的理解に留まらず、解釈論的地平に私たちを導き入れる。そうすることによって
we need to read Paul’s letters in two ways: first, as witnesses to Paul’s understanding of God’s mission, his role in it, and the place of his congregations in it; and, second, as scriptural texts for our own missional identity, our contemporary vocational and ecclesial self-understanding and practices. Thus is born a Pauline missional hermeneutic.
と言う視点が開けてくる、と言うのです。

このような解釈論的視点はさらに次のような問いを導き出す。

(1) What was and is the relationship between the church’s deepest convictions and the shape of individual and corporate Christian existence? 
(2) What kind of existence in the world is faithful to the gospel, and specifically to the story of Jesus?
(3) Why and how does such an existence both attract some and repel others?
(4) How does Christian speech and behavior, seen as an integrated whole, relate to and reflect what God is doing in the world (the missio Dei) as manifested in the story of Jesus, which is itself grounded in the story of Israel?

如何にパウロ書簡を読むかと言うことは、如何に「神の宣教」を理解し、パウロの時代だけでなく、現代の私たちが「神の宣教」に参画していくことに繋がる実践になる、と言うことです。

「平和」の問題や、「環境」の問題も、個々の釈義的・倫理的な課題としてではなく、「神の宣教」の視点から包括的に取り組まれるようになる。

このようなパウロ書簡の読まれ方は従来の伝道を否定するのではなく、拡大し、さらに広い視野で私たちの実践を方向付けてくれるようになるだろう、とゴーマン教授は期待しています。

ゴーマン教授の小論は「パウロ書簡」と「神の宣教」についてですが、既にクリストファー・J・H・ライト(N・T・ライトがジョークでO・T・ライトと呼ぶ)が
The Mission of God: Unlocking the Bible's Grand Narrative (IVP Academic, 2006)
を出版していますが、旧約聖書から始まって全聖書を「神の宣教」の視点から包括的ナレーティブと捉える本を出しています。
ツイ友の関西聖書神学校、鎌野直人先生によりますと、来年邦訳出版されるとのことです。(鎌野先生も訳者の一人)
是非お金をためておいてください。必読の書です。

2011年2月26日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月27日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:25
説 教 題 「信仰が現れた」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(54)
ガラテヤ人への手紙(42)
・3:23-29 一つの信仰、一つの民

2011年2月25日金曜日

信教自由:アフガニスタン 続々報

 サイド・ムサ氏釈放!

(コンパス・ディレクト・ニュース発)

2月24日報道によると、外交圧力が功を奏し、昨年5月以来刑務所に収監されていたムサ氏がついに釈放されたとのこと。

もう一人、まだ拘束されているショアイブ・アサドゥラ氏を続けてお覚えください。

2011年2月24日木曜日

聖☆おにいさん

既にご存知の方も多いと思う(このブログの読者の方々の場合は分からないが)。
作者中村光のコミックである。

最近数十年殆んど漫画は読まないのでこのコミックがどういうジャンルで、どんな読者に支持されているとか何にも分からない。
ただ主人公(?)がイエスと仏陀と言うことで取り上げたまでである。
「頓珍漢なことを言ってる」と思われたら、それは最近の漫画に疎いためとご容赦頂きたい。

設定はイエスと仏陀が①「世紀末を無事に乗り越え」、②天界からバカンスのため降臨し、③立川の安アパートで共同生活をする、と言うのである。
かなり荒唐無稽なストーリーである。

でも細部において聖書や仏典、史実(的)のエピソードが絡められる。
二人が地上で織り成すエピソードは21世紀の日常的なもので、コンビニ、銭湯、遊園地(天上の楽園を模したものとの作者の位置づけ)、その他ごく普通の場所が舞台なのだ。

筆者の世代だとギャグ漫画といえば赤塚不二夫だが、聖☆おにいさんもやはりギャグ漫画なのだろう。赤塚不二夫のキャラクターはもっと破天荒と言うか非日常的なのだが、中村光の描くイエスと仏陀はある意味かなり普通なのである。少し極端な部分もあるが至って常識人として振舞っている。そういう意味では現代の若者の特徴と思われる「空気を読む」ことに洗練している。

何がそんなに受けているのか少しネットでリサーチしてみたが、どうやら二人の「ゆるーいキャラ」が癒し系で、ギャグで笑えるけれども、他人を痛めつけるような笑いではないところらしい。

さてこのコミックが世に出た時、実際の宗教人物(聖人・神)をギャグの対象にして不謹慎ではないのか、その是非を論じるキリスト教の牧師のブログが幾つかあったようだ。
しかし最近の検索では殆んど引っかかってこない。どうやら宗教界からのご意見は一段楽してしまったようである。

してみると筆者が今頃取り上げるのはいかにも周回遅れで間が抜けているような気もする。
過去の牧師たちがブログで取り上げた際の「聖人冒涜の有無や是々非々論」は行わない。
このギャグ漫画の設定に見られる世界観と聖書、あるいはキリスト教とのギャップに焦点を当てて少し論じてみよう。

①「世紀末を無事に乗り越え」
イエスと仏陀が「世紀末」を無事に乗り越え、とは何を意味するのか。
世紀末とは20世紀のことであろう。
何やら「終末的様相を帯びた20世紀」が破滅に終わらず21世紀に滑り込んだ、と言うニュアンスであろう。
イエスと仏陀はもしかして天界で協力して破滅を防いだようなことを暗示しているのかもしれない。

「20世紀末」に限らず、キリスト教二千年の歴史の中で「終末の様相」を帯びた時代は幾つもあった。作者はその辺の歴史の事情には余り入り込まない。

キリスト教的に言えば、キリスト初臨以後の歴史は、ペンテコステに始まる「使徒たち、キリストの弟子たちが、聖霊によって活動する時代」である(新約聖書「使徒の働き」)。
このコミックではペテロも天界の人で、地上の教会は殆んど視界に入ってこない。

②天界からバカンスのため降臨
この設定はイエスに関してはかなりキリスト教の教えとギャップが出る。
二千年前の「キリストの初臨」は「受肉の秘儀」として受け止められるのだが、これは「終末の出来事」の始まりで、その完成は「キリストの来臨(再臨)」で、というのが聖書の見方である。つまり「今」は「終わりの始まり」と「究極的終末」との間、と言うのが聖書の歴史観である。
キリストはそれまで天に留まっているわけであるが、このコミックでは「お忍び」で地上に降りてきてしまうわけだ。
しかも「ジョニー・デップ似の優しいお兄さん」として。何かもう一度「受肉」している観がある。
バカンスと言う設定も奇異な感じであるが、それは「世紀末救済」の一仕事を終えた後と言う意味合いなのであろう。

③立川の安アパートで共同生活 
イエスはどちらかと言うとPCを使ってブログを更新したり、新し物好きで浪費家のように描かれている。 仏陀は倹約家で絶えず家計の心配をしている。そんな非対称の二人が相互に譲歩したり相手を気遣ったりしながら毎日の生活を凌いで行く。
多分ここがこのコミックの好きな人のはまりどころなのかもしれない。
生活は大変でも日本での毎日は至って小市民的平和に満ちている。ほのぼの感漂う暮らしを描き、そこに宗教ネタのギャグを効かすところが作者中村光の腕の見せ所なのではないか。

最近外国に留学する日本人が減ったと言う。
最近の若者は車を欲しがらない。生活倹約を心がけ、貯金をし、将来に高望みをしない。
そんな傾向をイエスと仏陀の生活ぶりは反映しているように見える。


さて、先日文化批評と言うことで一文書いたが、ギャグ漫画の批評(とまで行かないが)は難しい。
三巻まで読んだが現在まだシリーズは続行中とのこと。どんな展開になっているのかもう少し見てみよう。

2011年2月23日水曜日

信教自由:アフガニスタン 続報

先日ポストした「信教自由:アフガニスタン」のサイド・ムサ氏のその後の動向についてです。

南部バプテスト系キリスト教主義ボイス大学副学長でブロガーとしても著名なデニー・バークDenny Burk氏によると、ニュースソースである「コンパス・デイレクト・ニュース(Compass Direct News) 」の昨年11月16日報道によると、ムサ氏が拘束されたのは昨年5月とのこと。

ムサ氏は獄中での虐待や拷問の様子などを稚拙な英語ながらバラク・オバマ合衆国大統領に手紙(自身が筆記した英語の手紙)を書いて解放を訴えたと言う。

これを受けて欧米諸国はアフガン政府に働きかけたようだが、違う刑務所への移動のような改善は見られたものの、解放には至っていなかった。そしてアメリカ政府が政治的プレッシャーをあきらめかけているような時に、人権監視団体や信教自由監視団体などがマス・メディアにアッピールし始めたようである。

そしてついに先日ポストとした2月17日前後から米国においてもメガ・チャーチ牧師として著名なジョン・パイパー師がオバマ大統領に対してツイッターでムサ氏解放を働きかけるようアッピールし、リック・ウォーレン牧師はメディアがこのことを取り上げないことに抗議したツイッターを発信したとのこと。

このような「ツィッター・キャンペーン」がどこまで功を奏したかまだ不明だが、少なくともムサ氏のアッピールは「世界」に届いていることは間違いないようである。
バーク氏のブログではムサ氏の状況は好転しつつあるが、仮に釈放されたとしても本国に留まることはかなりな危険を伴い外国へ退去することになるのではないか、とのこと。既にムサ氏の家族は国外に退去しているらしい。

現在チュニジアに始まったアラブ革命がエジプトからリビヤへと飛び火しているが、フェイスブックやツィッターなどネットによるオープン・ソーシャル・ネットワーキングがもたらす政治的・社会的影響は大きくなって行きそうである。

それだけに情報内容の理解、適切な判断、ソースの確認などが大切になってくる。

最後になってしまったが、呼びかけに応じて不慣れな英語サイトでの署名に協力して頂いた方にお礼申し上げる。
なお筆者のところには不定期に信教自由問題で苦しむ国々の報告が届く。フォーカスはキリスト者への迫害だが、信教自由の原則は一宗教を利するものではなく、すべての宗教に適用されるべきものである。
ただ20世紀以降世界各地(特にイスラム圏)でのキリスト者に対する宗教迫害はそれまでの19世紀間の迫害全部よりも大きいと言われている。
これからも時々ブログで紹介することがあるかもしれない。

2011年2月21日月曜日

文化批評

文学作品、アート、音楽、映画、・・・いわゆる現代文化メディアは作品を介して作者と視聴者(鑑賞者)が対峙するだけでなく、批評(家)が存在する。

ある人は「批評家」など必要ないと言う人もいるだろう。
視聴者が自分で納得するように作品を鑑賞すればよいのだ、と。
又アートを作る側でも「批評家」たちに理解されず、評価されず、残念な思いをすることも多いに違いない。

しかし作者の側でも、一般鑑賞者の側でも、それなりに作品を鑑賞し、批評する第三者の意見が欲しい場合があるのは否めない。
特にその作品の背景となる歴史や文化の影響に関する専門的知識を持っている批評家たちの鑑識眼に助けられて、よりよく作品を鑑賞できる・・・と言うことがある。

日本において西洋クラシック音楽の批評家の大家を一人挙げよと言われれば吉田秀和氏の名前は外せないだろう。彼の批評の対象となる音楽そのものだけでなく、彼の批評する文章それ自体が一つの作品のように感ずるほど軽妙洒脱な表現を用いる。
ところが先日の朝日新聞の音楽展望コラムで彼は「相撲の八百長問題」を取り上げ、最後までそれに終始した文章を書いたのである。
あれっ、音楽と相撲に何か深ーい関係でもあるのかしら・・・と思わされたほどである。(多分大衆芸能としての相撲が音楽鑑賞とどこかで通底するのであろう。)

さて、話が寄り道してしまったが、本ポストで話題にしたいのは映画のことである。
教会には様々なイベントの案内が郵送されてくるが、そのうちの一つがいわゆる「キリスト教に関連した映画」の案内である。
筆者は最近は映画など殆んど見に行く機会がないので、そのようなパンフレットを頂いても殆んど関心を持たないか、せいぜい会堂の掲示板に貼っておくだけである。

こういう言い方をしては何だが、キリスト教関連の映画だから、と言うことで教会に案内が送られてくることに少々違和感を感じるのである。
パンフレットに添えられた文章には大抵「伝道に用いて下さい」みたいなことが書かれていたりする。
「それはちょっと違うだろう」と思うのである。
むかーしビリー・グラハムの伝道映画あったが、ストーリーの最後の方にクルセードの場面が出てくるのが決まりであった。
あのようなストレートな「キリスト教映画」は今は殆んどお目にかからないが、配給会社が教会宛に映画案内を送りつける手法には(そして動員を当て込む手法には)このような昔の名残を感じるのである。
(映画)作品は伝道に好適かどうかではなく、作品として素晴らしいかどうかが大事ではないか。
「内容がキリスト教に関連するから」ではなく、「キリスト教に関連し、作品的に素晴らしいので推薦します」と言うような案内をして欲しいものである。
また内容的に直接キリスト教に関係なくても、テーマ的に相応しいから推薦してください、と薦める作品もあるだろう。

と、まー文句みたいなことを書いたが、最近案内が送られてくる映画は段々内容的に一定レベルに達しているものが出てきているようである。
今年になって目に付いたのは、「大地の詩 留岡幸助物語(公式サイト)」や、イギリスで奴隷解放運動の立役者となったウィリアム・ウィルバーフォースを描いた「アメージング・グレイス(公式サイト)」。
それから案内が来たわけではないが、「ヤコブへの手紙(オフィシャルサイト)」や「ハーモニー 心をつなぐ歌(紹介サイト)」も評判がいい。

2011年2月19日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月20日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:24
説 教 題 「キリストへ導くための養育係」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(53)
ガラテヤ人への手紙(41)
・3:23-29 一つの信仰、一つの民

2011年2月18日金曜日

第二神殿期ユダヤ教

先日キリスト教世界観ネットワーク
ポストでご案内した会合が来週に迫りました。
「N.T.ライトの歴史的アプローチ―歴史の原点に戻って見直すキリスト教信仰」
と言う題で講演することになっていますが、なかなかまとまった話をするのは大変そう。
それと言うのも「聖書を理解する」と言う作業を一般のクリスチャンは「聖書を読んで理解する」と了解しているから。

まあそんなの当たり前じゃないの、と怒られてしまいそうですが、そうでもないのです。

宗教改革の聖書解釈の原則の一つに、確か「聖書は聖書で解釈する」と言うのがありました。
聖書箇所の意味はその周辺の文脈から始まって最終的には聖書全体の文脈で解釈可能と言う前提があるようです。
確かに基本的にはそうなのですが、現在の新約学ではそのような「範囲内」で研究している方はおられないでしょう。

新約聖書一つ取っても、27文書が書かれた年代は大体一世紀後半の50年くらいの間と想定されます。歴史的な文脈から言うとこの時代のパレスチナ、ギリシャ・ローマ世界が新約聖書の歴史的舞台となるわけですが、新約聖書が書かれた時代には新約聖書の解釈に光を投げかける様々な文学作品があります。
研究者たちはこれらの文学作品との思想的関連性、内容比較など様々な研究を通して、新約聖書本文の意味を斟酌しているわけです。
その中でも「第二神殿期ユダヤ教」に関わる文学作品研究が大分進みました。
・旧約聖書外典・偽典研究
・死海文書研究
・ヨセフス研究
・アレキサンドリアのフィロ研究
・ラビ文書の研究
これらの研究によって聖書本文以外の資料でイエスやパウロの時代のユダヤ教がどんなものであったかかなり分かってきたのです。

つまり何が難しいかと言うと、聖書だけを読んでいるそしてその範囲内で「イエス」や「パウロ」を理解している方々に、聖書外の「第二神殿期ユダヤ教」文書も合わせた理解を説明することなのです。
ある程度までは「新約聖書表現」は新約聖書の中だけでも理解できるのですが、以下に説明する特徴的な表現に関しては、「第二神殿期ユダヤ教」も合わせて比較検討してより輪郭のはっきりした理解が出てくる、と言えるのです。

例えば今度の講演内容にも重要な「復活」に関するユダヤ教理解は旧約聖書ではエゼキエル書(隠喩表現として)、イザヤ書、ダニエル書の言及にほぼ限られます。
しかし旧約聖書外典の「第二マカベヤ書」や「ソロモンの知恵」にはより具体的な表現として出てきます。

またイエスやパウロのユダヤ教の背景となる歴史観を表す表現として、「この世」と「後の世」(ルカ18:30)「今の悪の世」(ガラテヤ1:4)等がありますが、このような二段階的歴史観についても注意しないとギリシャ的な思想背景で解釈してしまう危険があります。
イエスと金持ちの役人の会話に出てくる「永遠の命」は無限に続くと言うようなギリシャ的な時間概念ではなく、預言者が証ししていた「来るべき世でのいのち」、つまり「この今の世」が終焉して現れるあくまでも歴史的に連続性(大変革を通過しますが)のある「世」なのです。

と言うわけで聖書だけを読んでいるであろう聴衆に「第二神殿期ユダヤ教研究」の成果を土台にした解釈を補完する時のギャップを予想して「難しいだろうなー」と予想しているわけです。

言葉だけの説明では難しいだろうから何かチャートと言うか図表のようなものでも用意しなければならないか・・・などと考えている次第です。

ああー、もう来週だ。

2011年2月17日木曜日

信教自由:アフガニスタン

当教会も所属する
日本福音同盟Japan Evangelical Association
が所属する世界組織、世界福音同盟World Evangelical Alliance

の「信教自由委員会」総主事、ゴドフリー・ヨガラジャ師から以下のような要請がありました。

Dear friends,
Greetings!

As you know, an Afghan Christian, Sai Musa, is facing execution for converting from Islam, and another convert, Shoaib Assadullah, is also in prison and has been threatened with the death penalty for apostasy unless he returns to Islam. Attempts by foreign governments, including that of the US, to save his life have failed. We therefore urge you to consider signing this online petition launched by Barnabas Fund.
The petition demands two things from the President of Afghanistan, Hamid Karzai.
1. Release Said Musa and other converts to Christianity who are being held in prison because of their faith
2. Uphold the Afghan constitution, commitment to universal human rights, which guarantees freedom of religion, including the right to change one's faith
Best Regards,
Godfrey Yogarajah
アフガニスタンで二人のキリスト者、サイド・ムサ氏とショアイブ・アサドゥラ氏が死刑になろうとしています。
この二人のためにバルナバス基金BarnabasFundが署名活動を行っています。
賛同してくださる方はオンラインで署名できますのでご協力ください。
・署名サイトSave Afghan converts to Christianity

※「名前」「イーメールアドレス」「郵便番号」「国名」を入れ、その下の文章の最後にチェック・マークを入れ、Signボタンをクリックしてください。
※アフガニスタン現政府は憲法で基本的人権擁護を表明していますが、実際にはイスラム法で他の宗教への回心を禁じ厳罰する政策を取っています。

2011年2月16日水曜日

摂理(続)

多分内容的には2月2日のポスト「摂理」の続きになると思います。

先のポストでは思いつくままに書きました。
と言うか余り神学的伝統とか教理的伝統とかを意識しないで書いたわけでした。

最近感ずることなのですが、たまたま筆者がネット上で行き当たるサイトで(キリスト教系、キリスト教神学系サイト)カール・バルトの名前を耳にしたり、議論されたりするのをよく目にします。
ツイ友(と言う呼び方があるらしいですが)鎌野直人先生も最近バルトの教義学全集を購入したらしいです。
何かカール・バルト復興みたいな機運があるのでしょうか・・・。

先般の「のらくら者の日記」とのブログ交換でも「総合的な神学叢書」が最近見当たらない、みたいな発言がありました。
そんなことからバルトが読まれるようになって来ているのかもしれません。

さて「摂理」の話題に戻りますが、考えてみれば筆者は「ウェスレアン・アルミニアン主義」の神学的伝統から神学教育をスタートし、現在当教会が属する「日本聖泉基督教会連合」も同立場を表明しています。
してみると「摂理」を神学的、教理的言語で枠付けると、「神の主権(的意志)」と「人間の自由意志」に関わる話題なのでした。
と言うことはこの話題は宗教改革の時点まで遡れば、カルヴィン、カルヴィン主義の「神の主権」と秘造世界に対する神の摂理的統治(ケアー)に関することです。

もっと砕けた表現にすれば、
神様は私たちのこといつも見守っていてくださるのだ。
神様の救いの御意思はイエス・キリストの救いにおいて十全に顕されているが、私たちが遭遇する日々の出来事にも神様の主権を顕されているのだ。
と言う感じになると思います。

しかし問題は、先のポストで書いたように、
だからやはり信仰的な問題として「摂理」を考える上で最も困難なのは到底神の計らいとは思えない苦難を抱えている方々のことになる。
ただその国に生まれてきただけで貧困・飢餓を宿命付けられているような人たち。
不治の病やハンディを背負って生まれてきた人たち。
圧倒的に不当な不正・抑圧・差別を故なく受けている人たち。
このような人たちの現実を前にして「神の摂理」は問われなければならないのだろう。
いわゆる「神義論」と重なってくる部分での「神の主権と摂理」の問題です。
このような艱難辛苦や不条理な出来事の背後に「神の御意思」があるのか。
神は大地震や大津波で多数の犠牲者が出るような災害を「意図される」のか。

こう言う問題です。
神学的には「神の主権と摂理」を主張すれば、何らかの形でこれらの「不都合な事実」を弁明する必要に迫られます。

このような摂理の神学的問題について宗教改革者ジョン・カルヴィンはどう考えていたのか、その後のカルヴィニストたちはカルヴィンの神学的解決をどのように受け止めてきたのか、を一神学生がプログ上で発表しているのに出くわしました。
その入り口になったのがDer Evangelische Theologe、と言うバルトのことを良く取り上げている神学専門サイトです(タイトルはドイツ語ですが英語サイトです)。
と言うわけでちょっと余計でしたが、カール・バルトの話題に言及しました。

(※これも余計ですが、筆者は“本格的に”改革派神学と向き合ったことはありません。以前バルトは読んでいないと書きましたが、改革派神学も今後の宿題です。)

さて、その神学的エッセイはプリンストン神学校の一年生でナサニエル・マドックスさんです。
わが身を振り返ると、神学校一年の時はまだ神学入門したばかりで、とてもこんな込み入った義論など書けるはずもありませんでした。筆者が晩熟だったのか、マドックスさんが早熟なのか・・・。

とにかくそのエッセイIntentions and intentional limits in Calvin's Doctrine of Providence or Why John Piper can't "have"John Calvin (Pt. 4)
はご覧のように現在第四ポストに突入しています。

エッセイはこんな風な議論としてスタートします。
So, "Christian, absolutely nothing can touch you today apart from the sovereign hand of a God who wills your good & His glory." Would Calvin say this? I will argue yes. Yes he would. Calvin did say many things to this effect, near verbatim. But, I will demonstrate that what Calvin would mean by this is not what John Piper would mean, and this can be attributed to their competing doctrines of providence, different pastoral interests, and Calvin's awareness of his own limitations, an awareness that, ultimately, Piper lacks.
「キリスト者よ。あなたに今日起こる事柄で、主権者なる神の御手により、善とご自分の栄光とを意図してなされること以外は何もない。」果たしてカルヴィンはこんなことを言っただろうか。イエス。カルヴィンは殆んどこの言葉通りのようなことを何度も言っている。しかし私はカルヴィンがこのように言ったからと言ってそれがジョン・パイパーが解釈しているような意味ではないことを示す。パイパーの間違いは多分カルヴィンの対立する摂理論、牧会的配慮、そして彼自身の限界の自覚から来るものであると言える。その自覚が結局のところパイパーに欠けている点である。
と言うわけです。
「神の主権と摂理」に関するかなり込み入った神学的義論、特にこの点に関するカルヴィンとカルヴィニストたち(ジョン・パイパーがその主たる矛先ですが)との違いに関心のある方は是非一読ください。

※それにしても一神学生のブログなのに結構力入っていますなー・・・。

2011年2月14日月曜日

政治と宗教

先日は土曜日定例の「明日の礼拝案内」をすっかり忘れてしまいました。

と言うわけでブログ更新に二日も空いてしまいました。

ところで政治と宗教と言う一般的な話題ではなく、時事ネタです。
既に昨年「欧米キリスト教文明は一神教だから」云々で話題になった小沢一郎氏ですが、また似たような発言をしたそうです。(産経新聞2011.2.14 15:52、リンク

小沢氏「一神教の欧州文明は限界」

 民主党の小沢一郎元代表は14日、都内で開かれた自らが主宰する「小沢一郎政治塾」で講演 し、今後の国際社会に関し「キリスト教は一神教だ。欧州文明は地球規模の人類のテーマを解決するには向いておらず、限界に来ている」と指摘した。一方で 「日本人は他の宗教に非常に寛容だ。悪く言えばいい加減で融通無碍だが、うまく伸ばしていけば21世紀社会のモデルケースになる」と述べた。
マスメディア上での「政治家の宗教に関する発言」は多分に厳密な定義や認識に拘泥するものではないことが多いので、この発言もどちらかと言うとやはり放言の部類でしょう。

そんな発言を取り上げてどうするの、と言う疑問をお持ちになられる読者も多いかもしれませんが、やはり公的立場の人の発言としてちょっと分析してみても宜しいのではないかと・・・。

①地球規模の人類のテーマ
国際問題としてグローバル経済化や環境問題、水や食料などの資源枯渇問題を想定しているのだろうか。
このような国際問題の解決に「欧州文明は限界に来ている」とはそもそもどういうことか。
欧米各国は依然としてリーダーシップを発揮する場にあるではないか。
政治的リーダーシップを発揮する基盤となるのは宗教ではないことは殆んどの欧米諸国が世俗国家であることから明らかではないか。
むしろ民主主義政治の熟成度とか、公共理念の明示性、公共政策の具体性、などが問題になるのであって、「キリスト教が一神教であるか、多神教であるか」とは直接関係がないと思うのだが。

②日本(人)は21世紀のモデルケースになれる
このような発言に見え隠れするのは「日本単一民族社会・国家」のような発想ではないか。
欧米諸国に比べ日本国家は他民族に対し排他的(移民政策)ではあると言え、マイノリティーとして複数の民族がある程度の数で日本社会に根を張っている。
もし日本が国際問題解決のリーダーシップを取りたいなら、もっと地元で多民族社会としての共生に関する理念や方向性を示すべきではないだろうか。
目下のところ日本の国際政治発言力は依然として日本の経済力に依存するところ大ではないだろうか。
一体日本を国際社会のモデルケースとして見ている国はどれだけいるだろうか。ちょっと疑わしい。

そもそも小沢氏のキリスト教に対する発言自体が、日本社会にあってマイノリティーであるキリスト教に対するデリカシーを欠いている。(昨年の発言後のキリスト教連合会の抗議声明に対し礼を弁えた釈明はしなかったと見受ける。)

宗教に対する寛容、信教自由に対する見識は、宗教に関して「いい加減で融通無碍」な歴史を持つ国では余り信用できない。機会主義的、日和見主義的政策を取る可能性の方が強いのではないか。
 
とまあー、大したことは書けませんでしたが、日本国家がリーダーシップを発揮できるようになること自体には反対しません。
ただし人と人との関係同様、国と国との信頼関係を築くことが先決問題でしょう。
そうすると小沢氏も対内的な政治的発言ではなく、対外的な発言として海外のメディアに今回と同じ内容の意見を堂々と表明してみては如何でしょう。そしてヨーロッパ諸国首脳から何らかの反応を得てみては如何でしょう。

2011年2月11日金曜日

キリスト者のゴール

しばらく続いた「のらくら者の日記」さんとの対話も、
「私の方は昨日書いた文章でほぼネタ切れなので、どうかこれ以上振らないようお願いいたします!」と言うことなので、一先ずこのシリーズはおしまいです。残念!

さて、教会のブログ、牧師のブログ、と言うと「説教」が掲載されていることが多い。
筆者の場合はこのブログ上で「説教」を掲載することはないと思う。
あるとしたら「ネット、ブログ読者」に対するメッセージになるだろう。
その場合やはり教会の中でなされる「説教」とは大分趣が違うであろう。

そんなことを言ってはいるが、ネット上にある他の牧師の説教を読まないわけではない。
その場合余り鑑賞する意図ではなく、どんな説教をしているか、どんな内容か、どんな釈義をしているか等、分析・検証するためであることが多い。

今回標題のようなものを検索してみた。

検索してみると「キリスト者人生にはゴールがある」と語りつつ、そのゴールは何なのか具体的に言及しないものも結構ありました。

具体的に言及したものを、その部分だけ抜粋して以下に紹介しますと、
① キリスト者のゴールは、再臨のキリストにお出会いすることです。それが最高最大の希望です。
② キリスト者のゴールは、この世にあるのではなく、天の御国です。この世に望みがあるのではなく、天の御国にこそ、キリスト者の目標があります。
③ (2)栄化の恵み
 ではそのような私たちの聖化の歩みはいつまで続き、どこが到達点、ゴールなのでしょうか。聖書は私たちの聖化の歩みのゴールはこの地上ではなく、天の御国であり、そこで到達する完成の姿は、実に、イエス・キリストと同じ栄光の姿に変えられることであると教えます。これを教理の言葉で「栄化」、「グローリフィケイション」と言うのです。
①は、終末論の一モメントである「キリストの再臨(パルーシア)」 に言及しますが、ポイントは「キリストと会う」あるいは「キリスト共にある」と言うことかもしれません。
②は、いわゆる天国です。この場合の「天の御国」は「神の国」のマタイ福音書表現のことではないようです。このような簡単な表現から推し量るのもなんですが、「この世にあるのではなく」と限定していますので霊肉二元論的な背景があると言っていいでしょう。
③は、三つの中では一番教理的な表現となっていますが、救済論的伝統表現である。いわゆる「救いの順序(オルド・サリューティス)」に基づくものと言って差し支えないでしょう。

三つに共通するのは、終末論にしても、救済論にしても、個人的な側面しか視野に入っていないこと、そして「この世」を否定的に取ること、ではないかと思います。

恐らく一般的説教としてこのような二つの特徴的視点で終始する説教は未だに多いと思われます。
改革派の神学的伝統では「契約の神学」があり、また新・カルヴィニズムの影響によって「被造世界の救済」と言う視点は残っていますが・・・。

「キリスト者のゴール」の問題は、「個人的」か「被造世界全体」か、と言う二者択一ではなく、どう関連付けるかの問題だと思います。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。(ローマの信徒への手紙 / 8章21-23節)
パウロの救済観では「栄化」は「身体のよみがえり」であり、被造物全体が「滅びへの隷属」から解放されること結び合わさっています。

その意味で非身体的栄化、非物質的被造世界の回復はパウロにとっては神学的論理矛盾となるでしょう。個人的終末論・救済論が「この世のものではない」「地上のものではない」と主張する時は、この点に注意する必要があります。意図せずにパウロの終末観・救済観を否定することに繋がるでしょう。

長い間大衆的なキリスト教に埋め込まれてきた「霊肉二元論的」に解釈されたキリスト者のゴールが、個人の魂の問題や、個人の死後の問題に極小化されていないかどうか点検する必要があるでしょう。

「神の救済のグランド・デザイン」をエペソ書1章やコロサイ書に見られる「宇宙論的キリスト論」の視点から今一度検証してみるよう同労の牧師、説教者たちにお奨めします。

2011年2月9日水曜日

公共の神学

先日来、幸運にも「のらくら者の日記」さんと公開対話をさせて頂いている。
筆者が書く文章は大抵言い足りない、説明の足りないものだが、「のらくら者さんは丁寧に何通りかの言い回しや比喩を用いて読者に届くように書いていてくださる。

その中で「私にとっての公共の神学とは」と言うことで貴重な意見を伺えたので、せっかくだからここに引用して少々考えさせて頂きたい。
私とって「公共」とは、ポストモダンとも言われるこの御時世に対して責任もって神学することであります。その切り口はいろいろありましょうが、やはり「断片化」「局地化」「多元化」の趨勢に対して、大事なことはある種の「総合(synthesis)」を試みることでありましょう。信仰生活の現場のために、 整合性ある一つの世界観を提供することです。

ですから、私の中での独断的な基準は、新約学者なら「新約神学叢書」を、組織神学者(教義学者)なら「教義学 叢書」を世に問わなければ、本物の学者じゃないということです。
原文では二つに切り離されてはいないが、ここでは論ずるために分離させて頂いた。

①ポストモダン状況での「公共の神学」
一般に科学が進歩するにつれ、専門化し細分化する傾向は自然科学だけでなく、人文科学にも見られるものであり、神学においても「神学諸科」に分化して行ったのは近世のことだと思う。
この辺の問題、「神学の断片化」を現象学的に叙述した本として思い出すのは、Edward Farley, Theologia: Fragmentation and Unity of Theological Educationである。今手元に見つからないので、ネットで簡単な要約を見ていただくとファーリーの問題意識がお分かりになると思う。
これはもともとの神学的伝統を一つの理想あるいは戻るべき規範としてみた場合の歴史的再構成で、アラスデア・マッキンタイアーのAfter Virtueに通じるような問題意識とそのための歴史的叙述と言う提示方法ではないかと思う。
要約では
Farley’s basic thesis is that theologia—a unified understanding of “theology”
that leads to a Christian way of life—has been displaced by a disconnected, fragmented understanding of
“theology”.
と、もともと神学が目指していた「実践的知」が視界から消え、神学教育が牧師の必要とする専門知識に分化したことをdisplacementと見ている。

筆者がこの本を読んだ当時と現在のポストモダン状況における知の問題とは少し位相が違うかもしれないが重なる部分はあると思う。
のらくら者さんが指摘するように「統合された知」としての神学は「総合」synthesisあるいはintegrationを高次元で実現するものが期待されているのだと思う。その場合恐らく「神学緒論」「教義学」「倫理学」「弁証学」と言った垣根を乗り越えるような神学的業績になるのではないか。

②叢書
のらくら者さんは現在活躍している学者の中で「叢書」のような形で神学や聖書学の本論になる業績を生産している人物として、マクグラスとライトを双璧と見ているようで興味深い。

神学が分化し専門化した結果実質の薄くなる傾向に対して、スケールは劣るがそれなりの神学的伝統を修復しようとしている人物として、William J. Abraham(パーキンス神学校)とEllen T. Charry(プリンストン神学校)の著作が面白いのではないかと思う。前者は近著Canonical Theismをチームワークを作って出版している。
Charryの方は、By the Renewing of Your Minds: the Pastoral Function of Christian Doctrine を著しているがその副題が示すように実践的な知の回復、一つの統合を試みているのだと思っている。
私の場合、この5年間の置かれた状況とは、「罪の問題」「邪悪の存在」をほとほと考えさせられてきたことです。大きなテーマは「神学の規範性」というこでした。「記述的(descriptive)」から「規範的(prescriptive または normative)」が解釈学的にどう関わり、どのように移行するのか、大きな関心であり続けています。けれどもそのモデルを方法論の著作からではな く、「総合」を試みた著作から読み取りたいと思いました。
うーむ、なんか本格的に神学しているなーと感じさせる述懐ですね。牧会現場における現実から神学的テーマを見定め、それに対して相応しい神学的作業を模索する・・・、どういう風に結実するのか楽しみにさせていただきます。

「悪」の多面的な表現、特に暴力の問題に関して神学的著作を著しているのはMiroslav Volfが一例でしょうか。

何はともあれ筆者が「振った(?)」ことによって瓢箪からこま、になって刺激になりました。色々書いてくださりありがとうございました。

何かの機会に「振る」かもしれませんが、その時は又よろしく。

(※マクグラスの追加情報、大変参考になりました。改めて取り組んでみます。NatureとTheoryは買ってあります。)

2011年2月8日火曜日

教義学と聖書学

先日のポスト「福音派は今どこに?」があれよあれよと言う間に当ブログ人気ポストランキングの第二位に浮上してしまった。
「のらくら者の日記」さんのご紹介「新しいカテゴリー」によるところ大である。

こちらも愛読させて頂いているが、昨年後半あたりなかなか心身ともに大変そうなことが書いてあったので実は心配していたのだが・・・。

最近は教派の中でのやり取りがご心労の種のようである。お察しします。

さて件のポストで筆者の殴り書きを過分に引用頂いたのだが、「直観」の大切さを言われていた。筆者もどっちかと言うと先ず直観から思考がスタートし、熟慮を後付する方である。
昔は「こじつけのコジ」と揶揄されたこともあったほど。

相撲界にしても教会にしても「閉鎖的社会」においてはしばしば非常識なことが不問に付されてまかり通ることがある。そう言う時こそ「常識的な感覚」による「それちょっとおかしいんじゃない」と物申す勇気が大切だと思っている。
その機会を捉えるのは「熟慮の末」よりも「直観」によるところが大きい。
その機会を逸してしまうと次第に暗黙の了解、言及のタブー視のような雰囲気が支配始めると思うので「直感」は大事にしたい。
ただその後には「究明する」プロセスがあり、分析や熟慮によって補完しなければ発言が説得的にならないとは思うが。

さて話は変わって筆者が聖書学、特に新約聖書学に入れ込んでいるのは多分にN.T.ライトの存在が大きいが、それだけでなくのらくら者さんの分析の如く、神学、特に組織神学方面での興味が薄れてきたことは否めない。
新約聖書学も、他のアカデミックなディシプリンと同様、狭い専門分野に閉じこもり、同業者同士でしか通用しない言語ゲームに陥ることはある。
当然専門化するだけ学問が緻密になったり細分化する傾向はしょうがないのかもしれないが、どんな専門分野であれ、一般の人への啓蒙をするだけの努力はして欲しいものである。
でなけれぱその学問は公共性がないことを示していることになりかねない。

筆者の考えではライトの魅力はその学問的内容の面のみならず、「公共」を大前提にしている学究スタイルにある。
先ずイエス・キリストの出来事、受肉、神の国宣教、十字架の死と復活、すべてが公共の意味を持っている、と言う確信である。
次に「歴史」とはまさに「公共に属する」ものであり、歴史的な出来事は公共において論議される必要がある、と言う確信が続く。
ライトがなぜ一般人へのコミュニケーションを大切にするかと言うと、イエス・キリストの出来事は研究者が論議するだけの意味合いのものではなく、福音だからである。
福音とは「公共」に向かって発せられるべきものだからである。
ライトの著作や講演を聞いているとこの辺のスピリットがびんびん響いてくる。
だから筆者がライト、ライトと騒ぐのは、彼が単に優れているからとかではなく、パブリックな内容をパブリックに届かせようとしている熱意に感動するからである。

と言うことでのらくら者さんに教えて欲しいと思うのは、このようなスピリットや感覚で神学をしている、教義学をしている人がどれだけいるだろうか、と言うことである。
かつて神学は諸科学の女王と呼ばれたそうである。
かつて哲学者は理想の王に相応しいとされたそうである。
では現代そのような意気込みで仕事をしている神学者はどれだけいるだろうか。
専門の殻を破って公共の神学を構築しようと汗水たらしている神学者、教義学者はどこにいるのだろうか。

ちなみに少し訂正させて頂くと、筆者は別に何も専門と言えるほどのものはなく、雑学の書生、中途半端なものかじり、でとてもとても「教義学から新約学に移行した」などと言える様な者ではない。
しいてかじったといえば「社会学」「宗教社会学」あたりである。

その意味で公共の社会学あるいは社会哲学として苦悩して思索している(と筆者が感じる)方の名前を挙げれば、ユルゲン・ハーバーマス、チャールズ・テイラー、ロバート・ベラーなどである。彼らが発言する時筆者は耳を傾けたくなる。

のらくら者さん、是非現在最も熱ーい、パブリックな神学者、傾聴すべき教義学者、歴史神学者を推薦してください。(マグラスは既にたくさん邦訳されているので除外します。)

2011年2月6日日曜日

神学と倫理

筆者が大いに益を受けている新約聖書学者はN. T. ライトだけではない。
何人か名前を挙げることができるが今日はそのうち一人だけ。

Richard B. Hays

デューク神学校の新約学教授で、最近第12代目のディーン(神学校のトップ)に選ばれた。
ご存知の方も多いと思うが、ライトの30年来の友人でもあり、研究においてもお互いに刺激し合っている仲である。

どちらかと言うとパウロ研究の業績が多いが、新約聖書倫理学の方面でも画期的な業績を残している。

最近ヘイズのような現代の「神学者」で神学と倫理学の分野で活躍している人たちをリストアップしたウェッブサイトに出会った。
その名も、Theology and Ethics
英国国教会のアンドリュー・ゴッダードの管理するサイトである。

アルファベット順にサーチできるようになっている。
一通り目を通して見たが大体主な方々は網羅しているようである。
人によって情報量の差があるが現在活躍している30~40代以上の方々をリストアップしているということで、英語圏の神学状況を手っ取り早く知るには格好のサイトではないかと思う。

当然というのも変だが、日本人の名前は一人もない。
アジア、アフリカ、英語圏以外のヨーロッパも入っていないようだから、不思議でも何でもないが。

このサイトのもう一つ興味深い点は、ゴッダード個人の「ブログ」の方にアングリカン・コミュニオンで今分裂の危機を招いている「同性愛者司祭問題」を詳しくフォローしている。
ランベス会議やウィンザー・リポート、数々の提案に対する各国聖公会の反応などがまとめられている。

日本聖公会のこの問題に対する態度、「聖書の権威」と「聖書解釈」に関する地域的・文化的差異の理解など、簡単だがどのようなスタンスを持っているかを垣間見る文書も掲載されている。

世界大の教会(コミュニオン)がこのような神学的・倫理的問題にどのような決着をつけるのか、他人事ではない「生きた問題」から学ぶことの出来るサイトになっている。

(※日曜日は更新お休みにしているが、明日外出して出来ない分前倒しで掲載させて頂きました。)

2011年2月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月6日 午前10時30分

説教箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説 教 題 「まことのぶどうの木」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。
※次週、食の日です。募金と共に協力お願いします。

2011年2月4日金曜日

福音派は今どこに?

戦後のキリスト教ブームから始まり、60年代以降の右肩上がりの経済成長と同調するが如く、福音派は“成長”してきた。
その後いつの頃からか停滞し、退潮し、ついに最近は諸不祥事が象徴する如く、内部から崩壊が始まった観がある。

筆者はあるキリスト教系組織で副業として働いているが、その組織もまた日本の経済成長とバブル崩壊に同調するが如く、拡大縮小のサイクルを通った。

この並行現象をどう見るか。
教会が成長している、と見られた現象は多分に表面的なもので宗教的内実は貧困だったのか。
あるいは福音派教会の浮沈は経済の動向とたまたま軌を一にしただけなのか。

どちらにしても現在の福音派教会の状況は嘆かわしい面が多い。

最近の教会不祥事(スキャンダルだけでなく、あらゆる教団的、組織的面での胡散臭さ、優柔不断、不誠実さ)が示すのは、教理的な正統主義(orthodoxy)と実践的正統主義(orthopraxy)の乖離ではないか。

「福音に相応しく生きる」と言う「神学と倫理の一致」が欠如している、と言わなければならない。

これは多分に教派形成が自己目的化し、数値目標を立てて教勢拡大をしているうちに段々と神学ではなくプラグマティズムがのさばって来た結果なのではないか。
実利主義がキリストに相応しい品格を脇に追いやってきた結果ではないのか。

このことばが適当かどうか不明な点もあるが、日本の教会も、即ち福音派も「ポストモダンの時代」に突入しているとすると、福音派のアイデンティティーを作ってきた「聖書信仰」は一歩も二歩も掘り下げられなければならないだろう。
単に「聖書信仰」を、「聖書は信仰と生活の唯一の規範」を標榜するだけでは、最早福音派の一致を維持できないだろう。

解釈学的、世界観的視点から言えることは、聖書と言う複雑な文書をただ権威とするだけでは問題は解決しないことが自明となってきている。
今日様々な神学的、実践的事柄で福音派を二分三分するような問題は幾つもある。
(別に今に始まったことではないが)聖書解釈の対立がしばしば表面に出てきている。(義認論、進化論の受容の仕方、同性愛、等々)

今までのように「聖書信仰」と言う同じ土俵に上っているのだから、問題は正しい釈義だ、なんて暢気なことを言ってられない。
一歩論争から引いて対立の構図を解釈学的視点から捉え直して見なければ問題は解決しない。世界観的対立の構図を見据えた上で、どのように対話が可能か知恵を出さなければならない。自己の論理の合理性・正当性に訴えるだけではだめなのである。

「聖書信仰」と言う宗教改革時の原理を不動の基盤と見てはならない。
宗教改革の原則は、聖書に照らして絶えず改革することである。
「信仰義認」と言う教理も、公同信条も、不動ではない。

聖書自体が歴史的に、クリティカルに解釈される時代を生きている私たちは、自分たちの神学的伝統を絶対視したり、神聖視したりする不毛に陥ってはいられない。
大事なのはどのような「聖書の権威」観を持つのかである。
スタティックな「権威の書」では間に合わないのである。

福音派が特に留意しなければならないのは、「福音」それ自体の掘り下げではないか。
どういう福音を宣証するのか、が問われている。
個人主義的な救済観に囚われてきた近代主義的福音主義の福音理解を、もう一度使徒的福音に照らして修正する必要がある、と筆者は感じている。

N. T. ライトが指摘しているように、使徒信条の「史的イエス」に関する条項は、「処女懐胎」と「ポンテオ・ピラト」の間に何も言及がない。ナザレのイエスの「神の国の福音の宣教」に関しては何もないのである。
聖書である福音書に照らして「神の国の福音」を、「神の国」と「十字架」を包括的に捉える福音を提示していかなければならない、と言うライトの主張に良く耳を傾ける必要があるのではないか。

2011年2月2日水曜日

摂理

Divine Providence 神の摂理

摂理とはキリスト者が結構用いることばだ。
そして気をつけて用いないといけないことばだ。

人生様々なことに遭遇するが、その背後で「神がすべてを統べ治めておられる」というのは信者の持つ基本的信仰態度で、これは誰もが持つべき態度だと思う。
 
しかし個々の出来事・事象に対し神がどの程度、どのような形で介在しているか、と言うことに関してはよく吟味しなければならないことである。

筆者の知人で交通事故で子供を亡くされた方があった。
当然すぐには受け入れられない事実であった。
しかしこのことを通して未信者であったご主人が「子供が行った天国に自分も行きたい」と入信するきっかけとなった。
それでこの方は交通事故自体はさておき、この出来事の背後に神の摂理を信じるようになった。

人が出会う艱難辛苦の中にはとても不条理に感じられるものがある。
あの旧約聖書のヨブみたいに「なぜ神は?」と質問し通しのような所を通られる方もいる。
「神の義」を問い続ける信仰の格闘がある。

一方でキリスト者の中には非常に自分勝手に自分に好都合なことも、不都合なことも、どっちも摂理で片付けてしまうような浅薄な信仰態度の方が居られる様に思う。
「子供が首尾よく希望校に合格した時」も、「期待に反して落ちた場合」でも、どちらにも摂理で説明をつける。

振り返ってみると筆者もそのような一人に入ると思う。
もともと優柔不断なタイプなので、自分から決断して選択しないことが多い。
出た結果を摂理として受け入れたい、受け入れやすい人間なのである。

ただ日常茶飯事にまで「神の摂理」を持ち込むわけではない。
日々出くわすことの多くは、自分の選択や行動の結果であり、又複雑な人間関係、社会的やその他の条件付けの中での出来事であることを理解している。

だから、と言っては何だが、信仰者でありながら、一々自分の選択しようとしていることに「神様導いてください」と祈るわけではない。
「神の摂理」とはそのような人間の自由意志の範囲を許容し、又様々な自律的諸条件を許容された上で、神が働いておられる意志ではないか、と考える。

だからやはり信仰的な問題として「摂理」を考える上で最も困難なのは到底神の計らいとは思えない苦難を抱えている方々のことになる。

ただその国に生まれてきただけで貧困・飢餓を宿命付けられているような人たち。
不治の病やハンディを背負って生まれてきた人たち。
圧倒的に不当な不正・抑圧・差別を故なく受けている人たち。

このような人たちの現実を前にして「神の摂理」は問われなければならないのだろう。
そのような人生の厳しい現実に向き合っている人にこそ「神の摂理」と「神の正義」の深い問いかけが可能なのではないか。