2012年4月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

4月29日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:16-26
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:22-23
説 教 題 「御霊の実」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(81)
ガラテヤ人への手紙(69)
・5:16-26 霊と肉
(A) 5:16-18 御霊によって歩む
(B) 5:19-23 肉の行いと御霊の実
(C) 5:24-26 新しい歩み

2012年4月27日金曜日

使徒的福音と信条、そして宗教改革信仰告白

「キング・ジーザス・ゴスペル」ブログ更新のご案内です。


《福音の文化》が《救いの文化》に飲み込まれるまで①


KJGの第5章、How Did Salvation Take Over the Gospel?を二回に分けて紹介します。

大事なポイントは、マクナイト教授が「使徒的福音(Ⅰコリント15章3-5節をコアとするような)」と「信条」(使徒信条やニカヤ信条も) を「繋がった」ものと見ていること。
エッセンスにおいて同一だと見ていること。

この視点は、How God Became King 読書会でライトが提示している「正典福音書」と「信条」の間に空いた溝、と分析しているポイントとは異なる興味深い内容です。

そう言えば、スコット・マクナイト教授はノースパーク大学から、ノーザン神学校へ転職する、と自分のブログ、Jesus Creedでアナウンスしましたね。
(Jesus Creedへは右コラムのマイ・ブログ・リストからジャンプできます。)

2012年4月26日木曜日

無教会・駒込キリスト聖書集会

当ブログの名称は「大和郷にある教会」としている。
教会の正式名称は「巣鴨聖泉キリスト教会」だが、大和郷と言う地域に位置しているので、その名を借りた。

と言っても「大和郷」は正式町名ではない。文京区本駒込6丁目と豊島区巣鴨一丁目にまたがる地域である。

しかしこの「大和郷」は旧三菱財閥の岩崎氏の土地を「モデル住宅地区」として民間に払い下げた曰くつきの地域で、「村長」がいて、「自治会」を作り、「幼稚園」を運営するなど、それなりの歴史を持っているので、単なる行政的な地域割りで作られたものではない。(詳細はここをクリック

さて筆者の知る限り、この大和郷には「新興宗教団体」二つと、キリスト教会が二つある。お寺は一つもないようだ。

キリスト教会が二つと書いたが、もう一つは標題にあるように、無教会である。
無教会という名前が与える印象はそれぞれだろう。
筆者の場合は幸いにも何人か無教会キリスト者の友人がいるので、余り抵抗なく付き合える。

「無教会・駒込キリスト聖書集会」を主宰する《独立伝道者》荒井克浩氏とも仲良くさせて頂いている。
名前は「駒込」とつけているが、同じ大和郷でキリストの福音を伝道する同士だと勝手に思っている。

荒井氏はコーヒー店を営んでいたのだが、2年前に無教会伝道者として独立し、この度お店を改装して会堂とした。
その本格的伝道開始を記念した「講演会」が開かれるので、ここでもご案内したいと思い投稿したわけである。

講演会のテーマは「福音の前進と無教会」。
講演者も4名予定されている。
なかなか踏み込んだ内容になりそうである。

ご関心のある方、詳細は以下をクリックいただきたい。

・駒込キリスト聖書集会HP・トップページ
講演会ご案内

2012年4月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

4月22日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:16-26
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:19-21
説 教 題 「肉の行い」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(80)
ガラテヤ人への手紙(68)
・5:16-26 霊と肉
(A) 5:16-18 御霊によって歩む
(B) 5:19-23 肉の行いと御霊の実
(C) 5:24-26 新しい歩み

ジュリアの会作品展 2012

当教会会堂、及び活水工房を会場に
ジュリアの会作品展
が行なわれます。



日時:
2012年5月19日(土) 11:00~17:00
2012年5月20日(日) 12:00~17:00

☆ ジュリアの会・・・安田敏子さんが主宰するフラワー・アレンジメントのクラスです。

☆ 当日は、先生、生徒、13名の作品が展示されます。

☆ ティーと焼き菓子も用意しております。ゆっくりご観覧ください。

☆ 会場へのアクセス・・・ここをクリック

☆ 会場についてのお問い合わせ・・・℡03-3946-8035

☆ ティーと焼き菓子も用意しております。ゆっくりご観覧ください。

☆ 2004年の「ジュリアの会作品展」の様子は・・・こちらをクリック

2012年4月20日金曜日

久保木牧師の説教考

水谷先生の「説教考」をネタに書いた、「これでも説教?」 を読んでくださった久保木牧師が、「決して主流ではない傍流的説教論」と言う記事を投稿してくださった。

一読して、「こりゃ一本取られた」感じがした。

確かに「正論的説教論」では聖書の解き明かしが主であり、証し、講話、世間話、はあくまで与えられた聖書テキストの理解を助ける補助的なもの、と位置づけられる。

しかし久保木牧師はそのような「正論的説教論」の陥りやすい問題点として幾つか挙げてくださっている。
①聖書テキストの「死物学」のような説教、
②現代と言うコンテキストに無関心な説教、
③日常生活の文脈から汲み取られたものを、聖書のテキストの解き明かしに組み込めない説教

筆者にとっては何を隠そう最も不得意な、と言うかなかなか出来ないでいる「説教」の要素を指摘された感じがしたので「一本取られた」感じがしたわけである。

どうやら問題は「説教スタイル」や、講解説教とか教理的説教とかの「説教タイプ」ではなく、説教者の実存(聴衆の現実を含む)と、聖書テキストが交差したところにどのような「説教」と言うコミュニケーション・交わりが発生するか、ということなのだろう。
説教箇所から命を汲み取る感性だけでなく、
日常生活から命を汲み取る感性が説教者には必要であり、
時代を知る感性、会衆の抱えているものを掴む感性から得られたものが
織り合わされていく中で、説教が生み出されていくように思えます。
 
一週間のリズムの中で
牧師が先週の生活の中での恵みを生き生きと語り、
一週間準備した御言葉の命を汲み取って語ることは
どちらも必要なように思えます。
この「感性」が筆者の説教には欠けていると思う。
と言うか「聖書の解き明かし」で精一杯でなかなか「牧師の日常で汲み取られた恵み」を説教に組み込む余裕がない、あるいはそもそも日常的恵みを感じ取る「感性」が弱い、と反省させられた。

話は飛ぶが、N.T.ライトの、「How God Became King 読書会」がスタートして現在29名のメンバーが加わっているが、その多くは牧師である。
本のコメント以外にも色々な話題がウォールに書き込まれるのだが、その中でもある牧師の説教との取り組み、信仰との取り組みで「実存」の大切さを教えられている。

「実存」と言うと「実存主義」と言う哲学を連想してしまうので、英語の「self-involved」と言う方がニュアンスとしては近いと思う。

やはり「土の器」とは言え、聖書のテキストは「説教者」を通して語られる、と言うことをもっと自覚しなければならないだろう。

説教が語るべきWhat(聖書のテキスト)、と共に、今ここで語り、語られるWho(説教者と聴衆)と言う事が同様大切にされなければならないことを、久保木牧師の説教考から学ばせて頂いた。

2012年4月17日火曜日

これで説教?

ご存知キリスト教関連の有名ブログ「命と性の日記」に、最近『某国ミサイル問題の共通項としての牧師説教問題?』(2012.04.15 Sunday)と言う記事が投稿されていた。

これは当方のブログネタになるな、と暫く考えていた。
テーマは「説教」である。

よく「牧師は孤立しやすい」と聞く。
その理由の一つは牧師が自分の説教に対して聴衆から適切な反応を聞く機会がないことがあると思う。
「恵まれました。」「教えられました。」類の(そんな意図はないにしても)外交辞令的なコメントでは実は聞き手にどの程度届いたのか分からない。

もちろん熟達した説教者は聴衆からの言葉の反応はなくとも、話している間の聴衆一人ひとりの顔の表情などから手応えを感じ取ることができるのかもしれない。(筆者もそんな説教者になってみたいと思うがまだまだです。)

さて水谷先生がその記事で指摘したのは、

①説教とは名ばかりで実質は・・・
信徒の方からの訴えによれば、・・・、説教という名目で、実質は証しや講話や世間話なのであります。・・・ある牧師は、御言葉の解き明かしとは別の内容の話を、「説教」と称して、ミサイルのごとく講壇から会衆に向けて発射しているそうです。
 ②聖書からの逸脱
発射台は聖書の言葉なのですが、その軌道は発射直後から、逸脱してしまうのです。聖書の言葉が意図することとは別のお話しが始まります。しかも、聖書のテキストに従った展開、構築、一貫性などがなく、某国のミサイルが10個の破片に分解したように、その説教は、いつくもの断片に分解。そして、その名目上の説教はミサイルのように発射後、1分程度で、会衆の心に届く前に海に沈没
 ③説教者の孤立化、制裁、交代

このような「名ばかりの説教」を批判・検証する暗黙の了解事項、と言うのが実はあると思うのです。
プロテスタントでは何と言っても「説教」が礼拝の中心にあります。
その理由はプロテスタントにとって聖三一の神を除いて最も高い権威は神のことばである聖書にある、と言う確信から来ています。
それ故「説教」は「聖書の解き明かし」が本筋とされる、と言うことだと思います。

これらの前提事項に立って当該牧師の説教が批評されている、と見るべきでしょう。

さて、第一点の問題は、説教で「証しや講話や世間話」は内容として不適切か、と言うことです。
説教の中身には聴衆に接近するため「身近な話題」や「時事問題」や「笑い」を交えることがよくあります。
しかしこれらの要素はイラストレーションとして本論を助ける補助的なものです。
どうやらこの信徒さんが訴えている牧師の説教は本論がないこと、しかも聖書の引用が説教を聖書的に見せるための体裁作りになってしまっていること、の問題のようです。

次に問題としたいのは、なぜこんな説教になってしまうのか、ということです。
一般論として言えば、こう言う説教をしてしまうのは、「年間説教計画」がなかったり、「年間聖書箇所(レクショナリー)」に従っていなかったり、つまり牧師が独自で毎回思いついたことを説教するようなパターンになってしまっているからではないかと推察します。
そしてこのパターンが案外多いのではないかと思います。
要するにネタが尽きてしまって苦し紛れにあの話やこの話を何とかくっつけ合わせて予定の説教時間を使い切ろうとしているからではないでしょうか。

筆者が考えるこのような説教者のための良い訓練は、講解説教をすることです。
そうすれば説教するテキストは毎回あっちこっち変えなくてもよく、説教の中身も大部分が与えられたテキストの解き明かしになるはずです。
何より説教者はテキストと格闘しなければならないので、余計な世間話など考えている暇がありません。

ただし、ここが講解説教者の熟練の問題ですが、よっぽど準備されたテキストの解き明かしでないと、聴衆は益を得られません。
またテキストと聴衆を接近させるために効果的なイラストレーションがまさに水を得た魚のように必要になってきます。(聴衆はやたらにくだくだとテキストの釈義的な説明を聞くだけでは飽きてしまいますから。)

以上、水谷先生の記事から考えた「説教の問題」でした。

2012年4月15日日曜日

福音と救い

「キング・ジーザス・ゴスペル」ブログ更新のご案内です。

使徒的福音:パウロ②

「救いの文化」では福音は「個人的な救いの計画の提示」と混同されがちです。
マクナイト教授はその混同を解きほぐし、使徒的福音の原型を探るべく、Ⅰコリント15:3-5を取り上げます。

福音とは、
旧約聖書のストーリーがイエス・キリストのストーリーにおいて完結した、ことを指すものであり、それは「イエスはメシヤ・主・救い主」として宣言すること
であるとしても、それでは私たちの救いにはどう関わってくるのか。

よろしければご一読ください。

2012年4月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

4月15日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:16-26
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:16-18
説 教 題 「御霊によって歩み続ける」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(79)
ガラテヤ人への手紙(67)
・5:16-26 霊と肉
(A) 5:16-18 御霊によって歩む
(B) 5:19-23 肉の行いと御霊の実
(C) 5:24-26 新しい歩み

2012年4月13日金曜日

神学遍歴②

シリーズ二回目の今日は、米国留(遊)学後のことになる。

以前、先生の横顔(1)でも書いた、ケンタッキー州にある聖書学校でのことだ。
お二人の先生のことを書いたが、聖書学校と言うことでアカデミックな環境とはとても言えないが、それなりに神学の勉強の準備をしてくれたと思う。

教会史を教えてくれたB夫人先生の印象が強すぎて、実は教科書の方は余り記憶に残っていない。
聖書学校で使うテキストだからそんなに難しいものではなかったはずだ。
何はともあれ「教会史」の勉強は面白い、ということは十分教えて頂いた。

確か「教会史」の面白さを知って、学校の図書館にあった
フィリップ・シャフの「教会史」8巻ものにも手を伸ばしたような記憶がある。
手を伸ばしただけで、とても内容云々というものではなかったが。

もう一人のD先生の授業で印象に残っているのは「ロジック」のクラスだった。

残念ながらこれもテキストをはっきり思い出せない。
書棚のどこかには取ってあると思うが、昔使った教科書というものは書棚の奥の方に埋もれてしまう運命だから、今確認しようと思ってもとてもどこにあるかさえ思い出せないのである。情けないが。

とにかくそのテキストは基礎的、入門的なもので、まさに論理的思考のイロハを扱ったものに過ぎない。
しかし日本でそんな授業を取ったことのない者にとっては、非常に新鮮で面白かったことを覚えている。

2012年4月9日月曜日

使徒的福音

「キング・ジーザス・ゴスペル」ブログ更新のご案内です。

使徒的福音:パウロ①

イースターを迎えました。
イエスの復活は私たちの救いにとって中核的な出来事です。
パウロは自らも受けた「福音」として、Ⅰコリント15章でそのことを語っています。

「十字架の福音」は、実は「十字架にかかられたイエスが復活された」ゆえの福音なのです。
福音派の伝道メッセージでは、十字架による罪と死からの救いが語られますが、復活なくしてそれは力がありません。

キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。(Ⅰコリント15章17節)

2012年4月7日土曜日

明日の礼拝案内

イースター 主日礼拝

4月8日 午前10時30分

朗読箇所
  • ヨハネの福音書 19:41-20:31
  • Ⅰコリント 15:1-8
説 教 題 「復活の信仰」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※礼拝後、持寄り昼食会

2012年4月5日木曜日

ハウス・チャーチ

先日来客があった。

筆者の神学校時代の友人(2年後輩)で、シンガポールのとある大教会の主管牧師をしている方がいる。
その教会から派遣され、OMFと言う宣教団体を通して日本に来ている宣教師のご夫妻だ。

最初は札幌で語学研修、その後数年は青森、と寒いところで日本生活をスタートした方たちだ。
現在は東京でハウス・チャーチという形態で伝道と教会形成にいそしんでいる。


(この写真は牧師の工房にあるティールームで。
机は昨年末イクル・デザインに注文したオーダーメード。)

現在北千住をベースに活動している彼らが接する人たちは20代から50代くらいの年齢の方々だと言う。

若い人たちとも会話が通じるように日本の文化を一生懸命吸収している。テレビ、新聞、小説、漫画、などなど。

日本語で会話していると時々カジュアルな表現があちこちで飛び出してくる。

彼らの母教会は会員6000名を越える大教会。
日本では数人が集まるハウス・チャーチでギャップを感じないか、と聞いたら、一長一短との答え。
教会は数だけでは評価できない。
問題はどれだけ信頼関係を築けるか、と今の活動姿勢として語っていた。

OMF日本のハウス・チャーチグループと、彼らのハウス・チャーチのリンク

2012年4月2日月曜日

救いの計画

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個人の救いに焦点を当てた福音提示は新約聖書の福音と同一のものだろうか。

先ず福音を構成する要素を四つに分解しながら福音とはどういう順序・組み合わせであるべきかを考えてみる記事です。


自分の聞いた福音を反省的に捉え直したい方、また「救い」とは何かを改めて考えたい方、ご一読を。