2013年12月31日火曜日

明日の礼拝案内

元旦礼拝

2014年1月1日(水) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「キリストの平和」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※1月5日(日)の主日(日曜日)礼拝はお休みとなります。

2013年12月28日土曜日

明日の礼拝はありません 

12月29日(日)の礼拝はお休みとなります。

次は
2014年1月1日の元旦礼拝
となります。

時間は通常と同じ、10時30分~

また、1月5日(日)の礼拝はお休みとなります。

以上年末年始、礼拝は不規則となりますのでご了承ください。

巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋崇

2013年12月26日木曜日

(5)ブログ上での「高いキリスト論」討論

以前、「史的イエス」と「史的キリスト」でもラリー・フルタド教授のことを紹介した。

フルタド教授のブログについては、英語圏ブログ紹介④でも取上げた。

最近のフルタド教授のブログ記事で面白かったのは、

Larry Hurtado 2013/12/18

アンドリュー・チェスターのHigh Christology - Whence, When and Why?と言う論文を紹介した記事、
Larry Hurtado 2012/12/12

にコメントを加え、現在の「高いキリスト論」研究における学者たちの立場を三つにまとめて紹介している。

最も面白いのは、一年前に遡って、最初にアンドリュー・チェスターの論文を紹介した記事だ。
原初期から高いキリスト論だった、が主流になりつつある

世界的な学者のブログが起し得るハイレベルな討論が、「コメント」セクションに展開している。
これを読むだけでもエキサイティングだ。

何しろコメントを入れている顔触れが凄い。

①ゲザ・ヴェルメシュ
②リチャード・ボウカム

特にボウカムは繰り返しフルタド教授とやり取りしている。
そこにはボウカム教授の(未完の)「高いキリスト論」研究集大成についての展望も書かれている。

如何にイエスが一神教の背景を持つユダヤ教から、「神」として崇拝されるに至ったかを歴史的に探求することに関心のある方は、是非この三つの記事とコメントを丹念に読んで頂きたい。

ブログでどの程度ハイレベルのことが出来るか、立証するものではないかと思う。

2013年12月21日土曜日

明日の礼拝お休みの案内

待降節第四主日

巣鴨聖泉キリスト教会での礼拝はありません

12月24日(火) 夕7時~
キャンドルライト礼拝

が年内最終集会となります。

12月29日の礼拝もお休みとなります。

2014年1月1日の元旦礼拝がスタートとなります。
時間は通常と同じ、10時30分~


以上年末年始礼拝は不規則となりますのでご了承ください。

巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋崇

2013年12月20日金曜日

(5)特秘法 落ち穂拾い

久々の「難易度5」です。

断って置きますが、今回の場合は筆者が『特定秘密保護法(以下「特秘法」と省略)』(特秘法全文)について余りよく知らないために、ここで書くことは中途半端な感想でしかないために、読者にとっては筆者の意図とか内容とかを把握するのが難しいだろうなー、と言う意味で「難易度5」です。

そもそもあちこちで「法案反対」ののろしがあがり、国会前でのデモがニュース映像で流れるようになるまで、筆者はこの法案に対してほぼ無関心、無頓着でした。

国家安全保障体制(NSS)整備の一環として、特に同盟国アメリカからの「インテリジェンス供与」を受けるための法整備として、現行の国家公務員法を上回る厳罰を伴うもの、が目指されているらしいことを、今頃ニュー・ヨーク・タイムズ(10/30記事11/29記事)で読んでいる体たらくであります。

そんな具合ですから、特定秘密保護法案に反対する牧師の会の賛同署名活動の案内が回ってきても、反対理由の文面を読んでも、そもそも「特秘法」自体の内容を知らないわけですから、賛同署名には躊躇を覚えて現在に至っているしだいです。

かと言って何も発信しないでいたわけではなく、ちらほら「反対」っぽいことをツイートはしていましたが・・・。

この法案に対しては様々の分野の識者の方々が「言論の自由」を制限したり、政府の権力濫用に道を開くものとの懸念や危惧を表明していますが、その「感じ」は法案の内容そのものからだけではなく、法案成立を急ぐ与党の国会審議の様子からも、与えるものです。

これに石破幹事長の「デモはテロ」発言が追い討ちをかけましたね。


さて、特定秘密保護法案に反対する牧師の会には筆者の知人も多く署名しています。

また逆にこのような抗議行動に対しての疑念や批判も数人の牧師から提出されています。

こちらの方が圧倒的少数ですから敢えて紹介すれば、
のらくら者の日記
羽村の風

両者とも共通点は議会制民主主義の観点から、急に「法案に反対する」活動を、政治決定のプロセスに対して無責任な態度ではないか、と言う批判をしていることだと思います。(法案の是非についてではなく。)

特に前者の方は「小選挙区制度下で二大政党が競り合う」形の議会制民主主義のあり方の観点から述べているので、その批判はより的を射ているように思います。

ただ二者に対して思うことは、確かに議会制民主主義の下で市民が与えられている政治決定の基本的行動である「投票」にもっと顧慮すべきである、と言う主張は分かるのですが、市民的政治活動としてデモや声明や署名活動という日常的なものも無視すべきではないだろう、と言うことです。

(もちろん二者がそれらを否定しているとは思いませんが。但し、これは蛇足だが、国民主権の立場からは、不断に国民が政府のしていることを監視しているようでなければ、急な反対声明や抗議行動はなかなか説得力のあるものにはなりにくいだろう。)

今回の「騒動」で筆者が一番感じたことは、「国会審議」の質がやはり肝心ではないかな、と。

この法案の「秘密指定」に関する第三者機関の設置が、審議の途中から取って付けた様に出てきたところをみても、特秘法が国民の知る自由に対しては概ね無頓着な「不備」なものであることが露呈されたように思います。

また「国家の機密保持」に一定の理解を示した上で特秘法を論ずるかどうかも、自衛権の問題を含めて、キリスト者の国家観が問われる問題であったように思います。
今後も継続する課題なのでしょうが。

と言うわけで、ドラマの後の落ち穂拾いのような記事でした。

2013年12月14日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第三主日 クリスマス礼拝

12月15日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ルカの福音書 1:39-56
聖書黙想 「胎児が喜びにおどる」「大逆転」
説 教 者 小嶋崇 牧師



2013年12月9日月曜日

(2)最近『テロ』呼ばわりが気になる

久し振りの「難易度ランキング」付きの投稿です。

皆さんご存知先日可決した「特定秘密保護法」ですが、国会周辺に集まったデモの人たちを「テロ」と見立てた自民党石破幹事長の発言はまだ耳新しいことと思います。
「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。」
と書いたブログ記事は、その後削除され訂正記事が投稿されている。
そこでは、
 「一般市民に畏怖の念を与えるような手法」に民主主義とは相容れないテロとの共通性を感じて、「テロと本質的に変わらない」と記しましたが、この部分を撤回し、「本来あるべき民主主義の手法とは異なるように思います」と改めます。 
と説明し、「テロ」と言う表現を引っ込めた(リンク)。

少し興味を惹いたので一つ二つツイートしたが、改めて「テロ」の定義を考えさせられた。

そうしたらまた別のことで「テロ」という言葉にぶつかった。

あえて曖昧な描写にする。

と言うのもこの「事件」はなかなか客観的に捉えるのが難しそうだし、その内容よりも「テロ」と言う表現に触発されてのことなので。

日本のとあるキリスト教系メディアに関する「事件」でのことだ。

あるブロガーがこのメディアをあることで批判・追及し裁判となった。
最近その判決が下りた。
ブロガー氏の敗訴だ。

メディアの方はそのことを記事に取上げ、ブロガー氏の「サイバーテロリスト」としての活動を改めて印象付けた。

ここでも「テロ」が出てくるわけだ。

3番目は、つい先日亡くなったネルソン・マンデラ氏についてのことだ。

世界中がマンデラ氏の訃報に触れて、故人を称えるコメントで終始しているのをある方がちくりと批判した。

ここでも敢えて名前もリンクも出さないことにしよう。

北米最大プロテスタント教団の有名人物のブログ記事にその批判を含んだ教訓的記事が出ている。

一言で要約すれば、
マンデラ氏は偉大な指導者としての業績を残したには違いないが、彼の人生を冷静に総括すれば、その政治的出自において、「テロリスト集団」に属し、そして事実彼は「テロリスト」であった。
と言うものである。

「テロ」と言う表現は、石破発言のように多少レトリカルに使っている場合もあれば(※訂正記事ではそのような説明になったが、案外本気でそう思っていたと取る事もできるかもしれないが)、「国家」とか「政治」に殆んど関係なく、ネット上の個人攻撃を非難する時に使われてもいるようだ。

特定秘密保護法でも、石破発言によって改めて「テロリズム」の定義の難しさが浮き彫りになったばかりだ。

厳密に「国家」を威嚇する暴力的行為としてのテロリズムをはるかに越えた「日常的」場面でも、結構簡単に「テロ」という表現が使われるようになっている。
それが現状なのかな、と思わされている。



2013年12月7日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第二 主日礼拝

12月8日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ローマ人への手紙 1:1-7
説 教 題 「肉によればダビデの子孫」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2013年12月5日木曜日

ピアノ調律

もう12年前になるが、会堂建替えの時、ピアノも新調する事にした。

幸い設計を担当してくれた今井俊介氏が、ピアノもなさる方だったので、ヤマハ総合特約店サクライ楽器まで一緒にピアノを探しに行ってくださった。

その時出会ったのが、ヤマハのG3だった。

中古だが、前オーナーが音大の学生だった(らしい)ことで、すべての音階でのばらつきが少なく良いコンディションと言うことだった。

要するに中途半端なオーナーだと、弾く曲が中音域に偏る傾向があるが、音大生だとより広範囲を弾く機会が多くなり、それだけ弦の使用頻度のばらつきが少なくなる、ということらしい。

購入以来、毎年1回サクライ楽器所属のベテラン調律士、Yさんのお世話になっている。


1年1回の顔合わせだが、毎回不思議に「何かこの前会ったばかり」のような気になってしまう。

仕事の邪魔にならない程度に、始まりと終わりの時、暫くおしゃべりをする。
今回は私の方から話題を振った。

朝日新聞の日曜版にグローブという特集がある。
11月17日は、ピアノは鳴り続ける、と言うテーマ。

てっきりYさんご存知かと思ったら、そうではなかったので、引っ張り出してお見せしたら、

「ああ誰々さんだ」

とか見知った方の名前を挙げたり、興味津々の様子。
せっかくなので差し上げた。

後で仲間にコピーしてあげるとのこと。

最近は調律の仕事だけではなく、あっちこっち講演・ワークショップの講師に呼ばれたりしているそうだ。

昔のような職人徒弟制度における技術の習得(見て覚える・盗む)ではなく、手取り足取り言葉を使って教える必要があるとのこと。

調律の仕事は全然疲れないが、講演は疲れる、と。

最後に専用布でピアノを撫で回すように拭き磨いている姿を見る時、「あー、Yさんにとってはピアノは子供のようなものなんだな」と思うのだった。