2015年10月31日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年11月1日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅰコリント 11:17-34
説 教 題 「神の教会と貧しい人々」
説 教 者 小嶋崇 牧師

あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。(11章22節、新共同訳)
※聖餐式があります。
 

《メモ》
 (1)問題の指摘・・・17-22節
 (2)主の晩餐の伝承・・・23-26節
 (3)聖餐の意義を吟味して集まる・・・27-34節

今日のツイート 2015/10/31

今日はハローウィーンなのだ。

でも宗教改革記念日なのだ。

近年急速にこのお祭りが大都市・東京に浸透している・・・風に見える。

一体、何なのだこれは。


もう一つ「何なのだこれは。」

何かこれじゃ新聞のオピニオン欄にツイッター(SNS)を継ぎ足したみたいだな。

何かやり方間違ってないかな。

ある程度意図は分かるが。


一種の迎合ではないかな。

最近、外国の影響なんすかね、

2015年10月25日日曜日

(1)教役者リトリートの帰路

3年に1回の聖泉連合の教役者リトリート、前回は那須高原だったが、今回は(北)軽井沢となった。

リトリートの報告は既に「聖泉490号」と連合サイトで終えているので、ここでは筆者の帰路、「小海線沿線、車窓風景」の旅の報告をば。


あー(しかし)もう一ヶ月以上も経ってしまった。思いだせるかなー・・・。


リトリートは朝食後、現地解散し、筆者は愛知県へ帰るA牧師夫婦の車に便乗させてもらい小諸まで。

まずは腹ごしらえ。懐古園の前にある草笛へ。


もりそば650円を100円プラスした。
かるく二人前になった。
これだけ食べれば文句ない。

次は懐古園。




中に入らず、門に使用されている木材をただしげしげし見つめる。

線路を渡り小諸市内をそぞろ歩き。





すると何か見晴らしのいいところに来た。




どうも地域の伝統保存会みたいな場所らしく、その日は何か催しがあり、誘われたのだが時間もないのでお暇。






両側を山に挟まれた小諸の町は気分が爽快。いい街だ。

さていよいよ今回のメイン、小海線の電車に乗る。








むかしむかし、米国留学時代の友人(日本人)と山歩きを始めたとき、日光の次に目指したのが八ヶ岳。


新宿から夜行で小淵沢まで、そして小海線に乗り換えて清里。
美し森を通って八ヶ岳へ登るはずだったけど・・・。
雨で山道に生い茂る笹から水分たっぷりいただき、どんどん辛くなっていきました。
標高千六だったか八百メートル付近でついに断念。同じ道を戻ってきてしまいました。


今回はその小海線を逆方向からくだる旅。

八ヶ岳登山を過去し懐かしみながら、車窓の風景を楽しみました。(写真には殆ど山はありませんが。)




2015年10月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年10月25日(日) 午前10時30分

 
朗読箇所 マルコの福音書 10:35-45
説 教 題 「罪を赦す権威」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(9)
 ローマ帝国とキリスト教・・・コンスタンチヌス大帝(272-337)

2015年10月19日月曜日

(5)無誤論回想二題

聖書無誤論については当ブログでも様々な形で取り上げたが、この記事の導入として
福音主義とは何か(2013年6月)
と題して、福音主義神学会(東部部会)の研究会に出席した感想をあらわしたものを参考にしていただくとよいかもしれない。

行間に「イライラ感」が垣間見られるように、神学会でありながら、何か論争に発展しそうなことを避け、安全運転なトピックを選び続けるのに業を煮やしている観がある。

(1)日本の福音派の中での「聖書無誤論」論争

 さて、今年になって「聖書無誤論」に関して、日本の福音派の中で起こった論争の生き証人的な方々の表白に接する機会があった。

 とても印象深い出来事であった。既にある程度別の記事で文章化したので、そちらを参照していただければと思う。リンク

(2)北米の福音派神学者たちの間での「聖書無誤論」

 ここに紹介するのは、(執筆当時)フラー神学校学長デーヴィッド・ハバードが自身が関わった「福音主義聖書学者・神学者たちの回顧録」である。

Evangelicals and Biblical Scholarship, 1945-1992: An Anecdotal Commentary(リンク
書かれたのは1993年と今から18年前になるが、かっちり整理された歴史と違い、ハバード自身の観察や感慨から、当時の論争の雰囲気がうかがえ興味深い。

 少し抜粋してコメントしよう。


The second factor was the beginning of conversations with members of Fuller's board about the Fuller presidency. These conversations were paralleled by discussions within the Fuller community about the relevancy of "inerrancy" as the means of expressing biblical authority.

旧約聖書学者としてキャリアを積み上げ始めていたハバードが、フラーの学長候補になったことによって、一緒に仕事をしていた幾分リベラル寄りの研究者が論議された経緯を言っている箇所。(この同僚はハバードを配慮して袂を分かったらしい。)

While the work proceeded on the revision of Fuller's doctrinal statement, the issue of the importance and meaning of inerrancy continued to bubble on our campus and across the land. 

フラー学長時代(1963-1968)に「無誤論」の問題が沸騰してきた経緯を言っている箇所。1966年にゴードン(ボストン)のキャンパスでシンポジウムが開催されたとのこと。(おそらく全米での神学論争の口火を切るような会議であったのだろうか。

A memorable debate between Jim Packer and Frank Andersen encapsulated this division. I left Wenham heartened by the common ground among most of the biblical scholars and by my surmise that a number of the theologians were attracted to the term inerrancy more by the desire not to cause division or raise suspicion than by the conviction that it was an essential biblical label.

無誤論に関して、聖書学者と神学者とはある種捉え方の違いがあることをハバードは承知していたが、1966年の段階では見解の相違や不一致に発展するような悲観的な展望は持っていなかったと吐露している箇所。

...Volume 2 of New Testament Foundations in the mid-seventies. The discussion centered on the question of Pauline or Paulinist authorship of Ephesians and the Pastorals. Did we at Fuller want to be first on the block to break with the conservative-evangelical consensus on this? 

 この本を出版するに際し、フラー教師のラルフ・マーティンと「パウロ偽名書簡」問題をめぐって苦悩したらしいことを書いている箇所。

Our main thesis was that inerrancy and evangelicalism were not synonymous. Our chief plea was that evangelicals should unite around our commitment to Scripture and our orthodox heritage and not go to war over any particular word used among us to define Scripture's inspiration.

「無誤(インエランシー)」という語にこだわって亀裂を深めるようなことがないように、とのハバードの願いがあったことを書いている箇所。

Happily, it has led to discussions on the more central question, not how do we describe the Bible, but how do we interpret it. 

「聖書の権威・霊感」の中心的な問題は、聖書がどのような本であるかを定義することではなく、どのように解釈するかにある、という見方であったことを書いている箇所。


北米での聖書無誤論争に関心がある人だけでなく、北米における福音主義興隆期の聖書学がどうであったかを知るにもよい「回顧録」かと思う。

知っている人は知っているあの人やこの人の名前がザクザク出てきます。

2015年10月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年10月18日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:24-29
説 教 題 「内に働く力」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(21)/パウロ書簡の学び(138)

2015年10月13日火曜日

N.T.ライトFacebook読書会について(2015年版)

2012年3月に始まった、フェイスブック上のN.T.ライト読書会。
 


今年6月、『クリスチャンであるとは』出版以降、入会希望者が増えています。


それで以前アップしたフェイスブック読書会の説明を更新する必要が出てきました。

新たに入会希望の方は、N.T.ライトFB読書会 ver.3.1
をお読みの上「入会申請」にお進みください。 

フェイスブックに登録をする必要があります。)

2015年10月11日日曜日

(3)世俗化とポスト世俗(化)

主に「世俗化」のトピックについては、宗教と社会ブログで書いているので、そちらに掲載した簡単な記事2本のリンクをここに貼っておこう。

1. ポスト世俗と超越

2. モルモンと改宗

 そもそも「世俗化」といっても、ある程度社会学(その中でも宗教社会学)を読んでいる人でないとぼんやりとした感触しか抱けないかもしれない。

 「近代化」とか、「ポストモダン」とか難しくてカッコイイ概念ともいえる。

 これらの用語を使いまわすことで、いかにも現代・社会の成り立ちが分かっているような感じを出すことができる。

 大雑把に言うと、(主に)西洋社会で数世紀に渡ってマクロレベルで変化してきた社会のありようを提示する概念、ということができるだろう。

 難しいのだが、かっこよく見せるためではなく、正確には掴みづらいがしかし確かに起こった(起こりつつある)変化を討論するために必要なキーワードではないかと思う。


 ちょうどN.T.ライトの『クリスチャンであるとは』が読まれ始めているので、その関連で指摘すれば、第2章『隠れた泉を慕って』 が「霊性の渇き」について語っている。

 冒頭の「合理的に整備された上水道網」は、啓蒙主義以降の「宗教と社会」の関係をたとえたもので、「世俗化」の産物の一つである「政教分離」政策と、その管理システムではコントロールしきれない「霊性/スビリチュアリティ」のほとばしりの様相を描こうとしている。

 この絵図が描くのが「世俗化のシナリオ(合理化によって宗教的信念は私的領域に整理され、合理的世界像の拡大によって消滅する)」の支配であり、そのシナリオに抗う「コントロールしきれない霊性の渇きと発露」、ということになるだろう。

 まあ、ちょっと書くとこんな風に難しそうになってしまう。

 まっ、ちょっとでも関心を持たれましたら、どうぞリンクをたどって読んで見てください。

2015年10月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年10月11日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅱコリント5:11-21

説 教 題 「キリスト教とは何か」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《現代キリスト教入門》9

 キリスト教は、実際に起こったことに関するものである。それは、ナザレのイエスに起こったことである。またナザレのイエスを通して起こったことである。(131ページ)


 キリスト教は、いまも生きている神が、ご自身の約束の成就として、またイスラエルの物語のクライマックスとして――見つけだし、救いだし、新しいいのちを与える――というすべてが、イエスにあって成し遂げられたと信じることにほかならない。神がそれをなされた。イエスと共に、救出のわざをただ一度で完全に実現された。(133ページ)
   N.T.ライト『クリスチャンであるとは』(上沼昌雄訳、あめんどう、2015年)


※礼拝後、昼食会があります。

今日のツイート 2015/10/10

「今日のツイート」といってももう数日前ですが・・・。

日系の倉光さんはキリスト者ですが、日本に滞在中のこと、明治神宮を訪れたそうです。

そこでこの光景に出くわしたそうです。

その後のツイートによると、ポーランド系のカトリック信者の一団が明治神宮の境内でお祈りを始めたそうな。

神宮の警護か何かの係りの人がやめるように指導したが従わなかったそうです。


その後どうなったのかは知りませんが、このようなある種「迷惑行為」が宗教に絡んで起こることは今後も想定内としておいた方がいいでしょうね。

※もちろんこのカトリックのグループの「お祈り」をオーケーと言っているわけではありません。

2015年10月6日火曜日

(5)英語圏ブログ紹介⑯

第4回N.T.ライト・セミナーが終わり一息ついているところです。

ブログの更新が一月ほど滞っています。

再開というほどのことではありませんが、手始めに『英語圏ブログ』シリーズの更新から。


THE JESUS BLOG、という新約聖書学専門のブログがあります。

寄稿者というか「複数で運営するブログ」の中でも、(新約聖書学で)現在最も充実しているブログではないかと思います。

クリス・キースとアンソニー・ルダンという若手に英語圏ブログ⑫で紹介した、少し先輩のジェームズ・クロスリーも加わり、最新の英語圏研究情報や動向を次々記事にしています。

 ※アンソニー・ルダンは、筆者のアズベリー神学校1年生のときのルームメイトが教えるUnited Theological Seminaryの新約学教授です。

最近(ここ数ヶ月)目に付いた記事の中では、

(1)Richard Bauckham Responds
(2)Hidden from the world in German Higher Education
が目に付きます。



(1)Richard Bauckham Responds

 最初にアンソニー・ルダンが書いた記事が、Are Firsthand Accounts More Reliable?

 そこでアンソニーは、たとえ「目撃者の証言」であっても記憶というものがときに信頼性がないのだから、いつも確かとはいえない。という見方を示します。

 その記事のコメント欄で誰かが、ボーカムの本、『イエスとその目撃者たち:目撃証言としての福音』を引き合いに出したわけです。

 今では重鎮の域に入ったかと思われるリチャード・ボーカムが、「目撃者の記憶の信憑性」を問われたことで、ディスカッションに参入するという面白い展開となったわけです。

 それを後日改めてボーカムの反論コメントを軸に構成しなおして記事にした、というわけです。

 ボーカムは、このブログ記事でも紹介したように、ときどきブログ上の討論に参加することがあります。

 といっても、ハータド(表記はフルタドとしていますが、発音は殆どハータド)のブログにしても、このジーザス・ブログにしても、かなり専門的なものなので、慎重なボーカム氏も登場したわけでしょう。

 こういう学術的な応酬がときどき見られるのが英語圏ブログの面白いところだと思います。

でも、まとめに使われたボーカムのコメントの最後の部分には目を留めておく必要があると思います。
Thank you, Chris, for your detailed attention to my arguments. I'm glad that we are in agreement about a lot of things. As you know, I esteem your work. We are both (and Anthony) facing up squarely to the key question: Where do we go now that form criticism has collapsed?
「様式批評学は倒壊した」という前提をボーカムも、クリスやアンソニーも共有した上で、『記憶』を梃子にした再構成アプローチに前進する、ということなのでしょうね。

 つまり福音書研究、史的イエス研究の方法論的方向の一つとして。


(2)Hidden from the world in German Higher Education

 こちらはジーザス・ブログについ最近加わった、クリスティン・ジャコビ (Christine Jacobi)
の初投稿記事です。

 ドイツ語圏で訓練されたクリスティンのスタンスはブルトマン再興を予感させるものらしいことを言っています。
Being a newcomer and researching, hidden from the world, in German higher education, I was able to meditate on and investigate these and other exegetical, theological and philosophical questions and surprisingly, many of my insights turned out to be very close to the theses of this famous man shown above. So I find myself asking: Are we living in a Bultmann-revival-era?
彼女がこれからどんな記事を発表するのか、今後注目したいと思います。

2015年10月3日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年10月4日(日) 午前10時30分


朗読箇所 Ⅰコリント 11:17-34
説 教 題 「みからだをわきまえる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。



《メモ》 

 (1)問題の指摘・・・17-22節

 (2)主の晩餐の伝承・・・23-26節

 (3)聖餐の意義を吟味して集まる・・・27-34節