2015年11月11日水曜日

(4)牧師は神学者か 1

牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。

先ず手っ取り早く見取り図を示すために、ツイートにしたものを掲げる。
もちろん「正・反・合」にまとめたのは筆者であるが、必ずしもこじつけではないだろう。

さて最初に「牧師は『公の神学者』である」ことを提唱している(らしい)、ケヴィン・ヴァンフーザー氏の著書を紹介しておこう(といっても買っても、読んでもいないのだが)。 

The Pastor as Public Theologian: Reclaiming a Lost Vision




(1) Many pastors today see themselves primarily as counselors, leaders, and motivators.
(2) Yet this often comes at the expense of the fundamental reality of the pastorate as a theological office. The most important role is to be a theologian mediating God to the people.
(3) The church needs pastors who can contextualize the Word of God to help their congregations think theologically about all aspects of their lives, such as work, end-of-life decisions, political involvement, and entertainment. 

本の趣旨が三点挙げられているが、時代的変化(恐らく100年とか200年のような長期間の中での変化と思われる)によって、いまや牧師職の主要な役割が、「カウンセリング」「(教会組織の)指導的立場」「(教会プログラムの)遂行役」から、本来の「神学者」の立場を回復すべきである、というもののようだ。

では「牧師の本来の役職は神学者」とはどういうことか。 しかも「公的な神学者」とは・・・。

この解説では「神(そして神の言葉である聖書)と会衆あいだに立って、会衆が自分たちの置かれている文脈で抱える問題・課題を聖書に基づいて神学的に考察するのを指導・補助する役割」とされている。

今後このシリーズを続けて行く中でポロポロと出して行くつもりだが、基本的にうなずける主張である。

しかし「待てよ」という面もある。

いきなり最初から「公的な神学者」というのは期待過剰ではないか、と。

そもそも日本の牧師たちを考えてみても、そもそも本を読んだり、思索したり、という時間がかなり限られているような話をよく聞くからだ。

だから、まず考えることは、少しでも「学究的な姿勢」を作る、ということだ。

まあ、ヴィジョンは最初から高くてもいい、とは言えなくも無いが・・・。

(次回に続く)

2 件のコメント:

  1. 面白そうなシリーズになりそうですね。以前、チャールズ・ガーキンの「牧会学入門」を読んだ際に、「カウンセリングのようなものでは不十分で、牧師は神を指し示す者でなければならない」というようなことを主題に論じていたと思います。 今回の「神学者」ということが、「会衆に対して神のありかたを示す」というものであるのならば、重なりがあるようにも思います。シリーズの続きを楽しみにしています。

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    1. こちらの方では初コメントかと思います。ようこそ「怪物くん」
      さてチャールズ・ガーキンは初耳なので気の利いたリプはできないですが、連載記事を展開するのに貴重なコメントありがとうございました。考えてみますね。

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