主日礼拝
2016年1月31日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ルカの福音書 10:25-37
説 教 題 「近寄って、隣人となる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
礼拝後、定時教会総会があります。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2016年1月30日土曜日
2016年1月28日木曜日
(3)初レヴィナス
レヴィナスの名前はあちこちで聞くが、ついぞ読んだことがなかった。
(間接的に、つまり誰かがレヴィナスのことを書いたりしたのを読むことは度々あったが・・・。)
先日ついに図書館から借りてきて読み始めた。
エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『タルムード四講話 』(新装版)
何と言うか「究理のしかた」が二枚腰とか三枚腰みたいに感じられる。
その辺が読んでいて面白い・楽しい感じがする。
さて2冊目、3冊目と今後行くかどうか・・・。
(間接的に、つまり誰かがレヴィナスのことを書いたりしたのを読むことは度々あったが・・・。)
先日ついに図書館から借りてきて読み始めた。
エマニュエル・レヴィナス(内田樹訳)『タルムード四講話 』(新装版)
何と言うか「究理のしかた」が二枚腰とか三枚腰みたいに感じられる。
その辺が読んでいて面白い・楽しい感じがする。
・・・タルムードは何か別の用途に用いられたものの断片を寄せ集めたりなどはしない。具体物の充溢にまっすぐ向かうのである。すべての対象は無数の相を持 つ象徴であり、たえまなく暗示を喚起する。だから、「聖句」に論拠を求めるやり方と「文字に対する偶像礼拝」とを混同するようななまくらな眼力をもってし てはさまざまの意匠を次々と造形してゆく象徴のきらめきはとうてい見切ることなどできぬのである。
当たり前の話だが、「文字どおりの意味」は徹頭徹尾「意味するもの」であって、まだ「意味されるもの」ではない。「意味されるもの」はこれから探されねばならぬのである。
(『タルムード四講話』序言から)
さて2冊目、3冊目と今後行くかどうか・・・。
2016年1月27日水曜日
ライトについてのインタヴュー
2015年5月、『クリスチャンであるとは』(原題 Simply Christian)を出版した、あめんどう社主のOさんから「ライトについて」のインタヴューを受けました。(12月8日)
そのインタヴューがOさんのブログに3回に分けて掲載されました。
N.T.ライト元年を振り返って(1)
N.T.ライト元年を振り返って(2)
N.T.ライト元年を振り返って(3)
12月に出た『新約聖書と神の民・上』もかなり話題にしています。
よかったら是非。
そのインタヴューがOさんのブログに3回に分けて掲載されました。
N.T.ライト元年を振り返って(1)
N.T.ライト元年を振り返って(2)
N.T.ライト元年を振り返って(3)
12月に出た『新約聖書と神の民・上』もかなり話題にしています。
よかったら是非。
2016年1月23日土曜日
2016年1月20日水曜日
(4)神学遍歴⑬
GTU (Graduate Theological Union) のことについて書くのがこれで4回目だろうか。
もはや時系列で繋ぐのもままならぬほど間隔の空いた投稿となってきた。
いきなりかどうか分からないが、今回はComprehensive Examinations(通称「コンプ」と呼んでいる)という、博士課程での第一関門について書く。(一回では終わらないかもしれないが)
(答案は全ワード数3000弱程度。なかなかタフな試験だったと記憶している。)
(続く)
もはや時系列で繋ぐのもままならぬほど間隔の空いた投稿となってきた。
いきなりかどうか分からないが、今回はComprehensive Examinations(通称「コンプ」と呼んでいる)という、博士課程での第一関門について書く。(一回では終わらないかもしれないが)
解説は後にして「マイ・コンプ」を掲げてしまおう。
I. Theories on the Symbolic Dimension of Social Reality: A written examination investigating recent theories on symbols and their relation to society.
II. Max Weber's Historical-Comparative Method: A written examination covering selected writings of his sociology of religion and its applications and critiques by more contemporary authors.III. American Nationalism, 1880-1945: A major paper focusing the general historical-cultural background of a symbolism of "redeemer nation'' and its role in the period, 1880-1945.IV. Japanese Nationalism, 1890-1945: A major paper investigating the formation of the political ideology of Tennosei called Kokutai ("national constitution") in relation to the political and intellectual conditions of the period (1890-1945) in which it was being shaped.V. The Problem of the Modern State: Contemporary Approaches of Protestant Theology and Political Philosophy. A written examination on several major Protestant theologians' and political philosophers' reflections on selected issues of the modern state, especially totalitarianism.
筆者の場合は5つのうち4つが集中領域である「宗教社会学」関連、残る一つが選択領域となった「社会倫理」を試験するわけである。
この段階では博士論文の先行思索として論文の主題となりそうな分野やサブ・トピックを選んで論文試験とするのが普通だ。
I. Theories on the Symbolic Dimension
of Social Reality
はプリンストン神学校でギブソン・ウィンター教授から学んできたアプローチである「社会的現実」を象徴解釈から接近するための理論的基礎構築に資するもので、結果的にはかなりエクレクティックな文献選別になったように思う。
試験のやり方は提出した文献リストに従って読み込んで準備しておき、試験日に試験委員会が作成した質問の中から適当なものを選択して解答する。
試験時間はもう忘れてしまったが3-4時間くらいであったと思う。
その場で鉛筆で書いたものを後日タイプして提出する。
それで、「試験委員会」について説明しておくと、自分のコンプ委員会を適切な教授を選んで依頼するわけである。
GTUの場合はPH.Dの場合は通常5人の委員のうち、最低一人はカリフォルニア大バークリー校の教授が入っていなければならない。
筆者の場合は日本の明治期がテーマに入っているので、思想史が専門のアーウィン・シャイナー( Irwin Scheiner)教授にお願いした。
シャイナー教授は多少神経質な感じの方で、あまり親しみやすい方ではなかったが、引き受けることに関しては別に逡巡もなかったと記憶している。
さてどんな質問が出され、どれを選んで解答したかだけ紹介しておこう。
(※質問はGTUの3人が二つずつ提出した)
CHOOSE 4 questions to answer from the following:
1. Considering the variety of theoretical positions covered in your bibliography regarding
the symbolic dimension of culture, which two positions are, in your opinion, most
different from one another? Can they in any way be reconciled?
2. The theoretical significance of praxis is usually traced to the influence of Marx. What
other historical and theoretical roots does it have?
3. Jurgen Habermas distinguishes between systemic and life-world aspects of societies.
How do these differ as symbolic realities? What does the "colonization of the life-world by economic and political administrative system say about the "independent" power of
symbolic resistance in the modern world?
4. Durkheim refers to society as one-vast network of symbols. What did he mean by this?
Contrast his view of collective representations with Weber's understanding of society.
5. Clifford Geertz has written: "a religion is (1) a system of symbols which acts to (2)
establish powerful, persuasive and long-lasting moods and motivations in men by (3)
formulating conceptions of a general order of existence and (4) clothing these
conceptions with such an aura of factuality that (5) the moods and motivations seem
uniquely realistic."
a. Discuss the understanding of "symbol" Geertz is using and contrast Geertz's
view with that some other thinker.
b. How, in Geertz's perspective, is religion related to social reality?
c. Comment critically on the way Geertz relates religion, symbol, and social
reality from 1) a Marxist perspective (Habermas or some other) and 2) from a Christian
perspective (Niebuhr or Tillich).
6. Write brife essay on the contributions of the thought of Alfred Schutz to the Jurgen筆者が選んだのは、1,2,3,5だった。
Habermas of The Theory of Communicative Action.
(答案は全ワード数3000弱程度。なかなかタフな試験だったと記憶している。)
(続く)
2016年1月16日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2016年1月17日(日) 午前10時30分
朗読箇所 コロサイ人への手紙 2:1-15
説 教 題 「根を下ろす」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(24)/パウロ書簡の学び(141)
2016年1月17日(日) 午前10時30分
朗読箇所 コロサイ人への手紙 2:1-15
説 教 題 「根を下ろす」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(24)/パウロ書簡の学び(141)
(5)組織神学の(入門用)教科書談義
組織神学、と聞いてほとんどの読者は「何それ?」ではなかろうか。
しかし西洋キリスト教神学の伝統から言えば「神学する」とは組織神学のことを言うといっても過言でなかろう。
問題はそのやり方だが、やはり何でもそうだろうが「奥が深い」。
しばらく前とあるブログ記事を読んでいたら次のような嘆きというか失望のことばが紹介されていた。
曰く、
この記事に対してコメント欄にはほぼ一様に「嘆かわしい」側からの当該教科書の批判がなされていた。
その中にこういうのがあった。(まあー皮肉っぽいものではありますが。)
今度のコメントは○○○○の批判ではないですが、教科書の目的は「簡便な回答を与える」ことではなく、実際に神学頭を使うことだ、と申しております。
(さらに脱植民地国で神学談義がこれほどつまらないのは、○○○○が圧倒的人気を博しているからかもしれない。と申しております。)
以上、
しかし西洋キリスト教神学の伝統から言えば「神学する」とは組織神学のことを言うといっても過言でなかろう。
問題はそのやり方だが、やはり何でもそうだろうが「奥が深い」。
しばらく前とあるブログ記事を読んでいたら次のような嘆きというか失望のことばが紹介されていた。
曰く、
北米及び英語圏の福音派神学校・聖書学校で最も使用されている「組織神学」入門用教科書は○○のものである。
この記事に対してコメント欄にはほぼ一様に「嘆かわしい」側からの当該教科書の批判がなされていた。
その中にこういうのがあった。(まあー皮肉っぽいものではありますが。)
Kyle: Yep, I'm afraid you're right. In the opening chapter of his Systematic Theology (pp. 35-37), ○○○○ offers this truly amazing summary of how we should practice systematic theology: (1) "Find all the relevant verses" on a certain topic; (2) "summarize the points made in the relevant verses"; (3) "Finally, the teachings of the various verses should be summarized into one or more points that the Bible affirms about that subject."○○○○通りに神学すれば、「路上で用を足す者は教会から除外される」となる。とまあからかいコメントですね。
Happily, this procedure "is possible for any Christian who can read his or her Bible and can look up words in a concordance". Wow, talk about "scientific" theology!
That description of theological method is hilarious. I thought I'd give it a try - so here's a systematic theology of pissing (following ○○○○'s 3 steps):
(1) I looked up "pisseth" in Strong's Concordance: 1 Sam 25:22, 25:34; 1 Kings 14:10, 16:11, 21:21; 2 Kings 9:8.
(2) The main point in these relevant verses is that the person "who pisseth against a wall" will be condemned and cut off.
(3) Therefore, here is what the Bible affirms about the subject: we should always use the restroom, and all those who piss on walls should be excluded from the church.
今度のコメントは○○○○の批判ではないですが、教科書の目的は「簡便な回答を与える」ことではなく、実際に神学頭を使うことだ、と申しております。
Hi Les and JBH -- thanks for your comments. And I agree: I hope we can avoid "erudite muck flinging"!今度の方はシンガポールの方ですが、○○○○は退屈だ。それよりマクグラスの方がいいよ、と申しております。
I also agree with you about the charismatic sections of ○○○○'s Systematic Theology -- I think this stuff is very interesting and creative, and it has helped to foster serious theological reflection on Pentecostal/charismatic experience.
But I still can't help feeling discouraged at the popularity of ○○○○'s book as a classroom text -- there are plenty of better books available! In particular, a good theological textbook should model actual theological thinking, instead of merely providing students with the illusion of ready-made answers. After all, many theological students will go on to become pastors: and in pastoral ministry, what's needed is not ready-made answers, but the ability to think theologically in new and unpredictable situations.
(さらに脱植民地国で神学談義がこれほどつまらないのは、○○○○が圧倒的人気を博しているからかもしれない。と申しております。)
Hi Ben,
Though it's very late for me to comment yet the post and your question are irresistibly intriguing.
Over at Trinity Theological College, Singapore, McGrath's 4th ed. text is preferred as it's a good introduction to theology.
And that'll also lead the students to McGrath's other advanced works.
On the other hand, ○○○○'s text is surprisingly very dull. When I was looking for a systematic theology text, I'd never got enough reason to get ○○○○ though its latest edition's front cover is beautiful.
Not sure if his text is that popular worldwide, but it seems to be so in my part of the world.
If it's true that ○○○○ is the most widely used text, then no wonder the theological scene, especially at post-colonial countries like Malaysia and Singapore (where I'm from), is generally dull and unexciting as compared to other parts of the world.
以上、
2016年1月13日水曜日
(3)教養の危機かなー
ここ1-2年、ツイッターのTLを眺めながら通奏低音のように響く問題の一つが「教養の危機」ではないだろうか。
グローバリゼーションが叫ばれ、「国際競争生き残り」が至上命題みたいに印象づけられる中、大学の「一般教養」がどんどん解体され、実学志向が明瞭となり、「哲学いらない」「文学いらない」「人文科学もいらない」風になっているようだ。
人文科学って「ヒューマニティー」ですよ。
人を人たらしめる精神的伝統を軽視するんですか。
今日はたまたまこの本の書評がツイッターで紹介されていた。
[2016/2/28追記 シノドス・ジャーナルで著者の音楽ジャーナリスト・菅野恵理子が「ハーバード大学は『音楽』で人を育てる――アメリカのトップ大学が取り組むリベラルアーツ教育」と題して短い紹介記事を書いている。]
「教養の危機」に対するささやかな抵抗を込めたコメント、と受け取った。
さらに以前このブログで取り上げた北川東子氏の教養についての文章を再読したが、「教養の危機」はやはり深まったように思う。
昨年「イチオシ」で取り上げた水村美苗『日本語が亡びるとき』も、インターネット・英語連合軍というグローバリゼーションに対する日本語・日本文学という土着教養伝統の危機を警鐘し、防衛戦略を提示するものであった。
段々組織的な抵抗を考えていかないとなー・・・。
グローバリゼーションが叫ばれ、「国際競争生き残り」が至上命題みたいに印象づけられる中、大学の「一般教養」がどんどん解体され、実学志向が明瞭となり、「哲学いらない」「文学いらない」「人文科学もいらない」風になっているようだ。
人文科学って「ヒューマニティー」ですよ。
人を人たらしめる精神的伝統を軽視するんですか。
といっても西洋ルネサンスの態度を、文化を明治期に輸入しただけ、といやそうなのかも知れませんが・・・。
今日はたまたまこの本の書評がツイッターで紹介されていた。
[2016/2/28追記 シノドス・ジャーナルで著者の音楽ジャーナリスト・菅野恵理子が「ハーバード大学は『音楽』で人を育てる――アメリカのトップ大学が取り組むリベラルアーツ教育」と題して短い紹介記事を書いている。]
翻って日本の大学は、実学中心へと方向転換しつつあり、「文学部不要論」まで出る始末だ。けれども、ビジネスや外交の場において信頼や共感を得るにも、教養に裏打ちされた人間的魅力は不可欠だと思う。評者の松村由利子さんは元新聞記者の歌人だ。
「教養の危機」に対するささやかな抵抗を込めたコメント、と受け取った。
さらに以前このブログで取り上げた北川東子氏の教養についての文章を再読したが、「教養の危機」はやはり深まったように思う。
私のセンサーがとらえた兆候のどれもが、「二一世紀的教養」とは、国際的な破壊の流れのなかで生き延びていくための人類的な智慧のことであり、あるいは少なくとも、この智慧を可能とする知的戦略であることを暗示している。
昨年「イチオシ」で取り上げた水村美苗『日本語が亡びるとき』も、インターネット・英語連合軍というグローバリゼーションに対する日本語・日本文学という土着教養伝統の危機を警鐘し、防衛戦略を提示するものであった。
段々組織的な抵抗を考えていかないとなー・・・。
2016年1月11日月曜日
今日のツイート 2016/1/11
今日はいわゆる「連ツイ」というのを。
で(最初の以外は)「埋め込み」ではなく引用で。
私は1990年からドイツに住んでいるが、過去25年間に日本で今ほど欧州が注目されたことは、一度もなかった。これらの事件の余韻はまださめておらず、2016年にも長い影を落とす。
で(最初の以外は)「埋め込み」ではなく引用で。
2016年のドイツを展望する
ドイツ、そして欧州は五里霧中の状態にある。その理由は、2015年に第二次世界大戦後に一度もなかった事件が立て続けに起きたことである。
— 熊谷 徹 (@ToruKumagai) 2016, 1月 10
私は1990年からドイツに住んでいるが、過去25年間に日本で今ほど欧州が注目されたことは、一度もなかった。これらの事件の余韻はまださめておらず、2016年にも長い影を落とす。
*イスラム・テロとの戦い
最も大きな影は、イスラム過激派の脅威が欧州の街角に到達したことだ。残念だが新春の欧州は、テロと戦争の暗雲に覆われている。
2015年1月には、パリの風刺週刊新聞「シャルリ・エブド」とユダヤ系スーパーマーケットがテロリストに襲われて編集者らが殺害された。過激主義者らの凶弾は、その10か月後にパリのコンサートホール、カフェ、レストランで130人の市民を殺害した。
フランスのオランド大統領はこのテロを「戦争行為」と断定。今年からシリアとイラクでテロ組織イスラム国(IS)に対する空爆を強化する。メルケル政権も
フランスなど有志国連合を電子偵察機や空中給油機によって支援することを決めた。今年から1200人の連邦軍兵士が欧州版対テロ戦争に参加する。
だが対テロ戦争の先行きは不透明だ。テロ組織を空爆だけで壊滅させることは不可能だ。フランスが地上部隊を送るとしたらシリア政府軍、IS,クルド人部隊、ロシア軍、ヒズボラ(神の党)など種々の戦闘部隊が入り乱れて戦う泥沼に足を踏み入れることになる。オランドにはそれだけの覚悟があるのか。
有志国連合は、ISとの戦いで何を達成したら戦争をやめるのかという「出口戦略」を確立するべきだ。出口戦略を持たずに軍事介入を行う国は、アフガニスタ
ンやイラクでの米軍と同じ運命にさらされる。軍事攻撃だけではなく、シリア和平を実現するための、外交工作にも力を入れるべきだ。
*難民危機は終わっていない
シリアの内戦を一刻も早く終結させることは、難民危機を解決する上でも、極めて重要だ。2015年に、ドイツでは約100万人の難民が亡命を申請した。
現在は悪天候のために難民の数が減っているが、春になれば再び地中海やバルカン半島を経て、西欧を目指す難民数が急増する。2015年からの3年間で、EUに流入する難民の数は300万人に達すると予想されている。
英仏など多くのEU加盟国が難民受け入れに難色を示す中、メルケル首相は戦火を逃れてきた難民たちに対して寛容な態度を示した。
彼女の「Wir schaffen das(我々は達成できる)」という言葉は、未知の世界に対して門戸を閉ざさない、新しいドイツの楽観主義を象徴するスローガンになった。
だがドイツの地方自治体や保守派は「難民の受け入れ数の上限(Obergrenze)を設定するべきだ」と主張し、メルケルへの批判を強めた。
メルケルは去年12月14日に行われたキリスト教民主同盟(CDU)の党大会で採択された「カールスルーエ宣言」で「難民数の大幅な削減をめざす」という文言は受け入れたが、上限という言葉の使用を拒否。それにもかかわらず、代議員の99%がこの宣言を承認した。
メルケルは、「難民急増も、グローバル化時代の一側面だ。外国に向けて扉を閉ざして孤立することは、21世紀の解決策にはならない」と力説。メルケルに対して、代議員たちが起立したまま約10分間にわたって拍手を送った。
この出来事は、難民危機というドイツ戦後最大の試練の中で、メルケルに代わる強力な指導者がいないことを示している。2016年の欧州でも、メルケルは大きな存在感を示し続けるだろう。
*ケルン暴動の衝撃
だが大晦日のケルンやハンブルクで、前代未聞の事件が起きた。駅前の広場などに集まっていた群衆に混ざっていた多数の外国人男性が、ドイツ人女性らを取り囲んで身体に触ったり財布や携帯電話を盗んだりしたのだ。中には、強姦された女性もいる。
1月10日までに、警察に被害届を出した女性は、500人を超え、その内半数は性的犯罪に関する被害である。公衆の面前でスカートや下着を脱がされた女性もいた。ケルンの駅前では100人近い警察官たちが警戒に当たっていたが、犯人の数が多かったために、犯行を防ぐことができなかった。
しかも、ほとんどの容疑者は逮捕されていない。犯人の中には、北アフリカやシリアなどからの難民も混ざっていたと見られている。
現場にいた警察官は、ある難民から「おれはメルケルに招待されたのだから、丁寧に対応しろ」と言われたという。
これは、かつてドイツで起きたことのない犯罪である。ハイコ・マース連邦法務大臣は「文明社会が一時的に停止していた」と述べた。
この事件は、ドイツ市民に強い不安を与えており、難民に対する風当たりが強まることは確実だ。
これまで難民に対して好意的な態度を取ってきたメルケル首相も強い不快感を示し、近く法律の改正によって、罪を犯した難民の国外追放措置を容易にする方針
を打ち出している。キリスト教社会同盟(CSU)のゼーホーファー党首は、今年受け入れる難民の数を20万人に制限するよう求めている。
*極右政党の動向は?
気になるのは、欧州での右派ポピュリズムの拡大だ。去年12月に行われたフランス地方選挙の第1回投票では、右派ポピュリスト政党「国民戦線(FN)」が社会党や国民運動連合(UMP)を上回る得票率を記録し、第一党になった。
第2回投票では既存政党が団結して戦ったため、FNは敗北したものの、第1回投票の結果はフランスだけでなく、欧州全体に強い衝撃を与えた。この背景には難民急増やEUの権力拡大に対する庶民の強い不満がある。フランス以外の国でも、極右勢力が伸長する傾向が見られる。
今年ドイツではバーデン・ヴュルテンベルク州など4ヶ所で州議会選挙が行われるほか、来年には連邦議会選挙と3つの州議会選挙が行われる。これらの選挙で、有権者はCDUなど伝統的な政党にどのような評価を下すだろうか。
(「*VWにとって正念場の年」以下は省略)
ヨーロッパを取り巻く「文明史的情況」を思わされる。
2016年1月9日土曜日
2016年1月8日金曜日
(3)涙とともに種を蒔く者
聖書の中にはそれほど難しいことではないが、いま一つその意味がしっくりこない箇所は多々ある。
かなり昔に書かれたというだけでなく、背景となる文化や生活基盤がいまと大分異なることを考えれば当然である。
しかし読みなれた箇所で、分かったつもりでいて実はよくその意味を知っていなかった、ということは時々起こる。
もちろんそう言うときは「目からうろこ」の体験をするときだ。
この動画で、現在デューク大学神学部の学部長代行をなさっているエレン・デイビス教授がそんな体験を語っている。
5分20秒辺りからの場所だが、詩篇の一節を引用する。
そして語る。
そんな厳しい生活が背後にある。
これを見て筆者も「なるほどなー」、と思った次第。
かなり昔に書かれたというだけでなく、背景となる文化や生活基盤がいまと大分異なることを考えれば当然である。
しかし読みなれた箇所で、分かったつもりでいて実はよくその意味を知っていなかった、ということは時々起こる。
もちろんそう言うときは「目からうろこ」の体験をするときだ。
この動画で、現在デューク大学神学部の学部長代行をなさっているエレン・デイビス教授がそんな体験を語っている。
5分20秒辺りからの場所だが、詩篇の一節を引用する。
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(詩篇126:5-6)
そして語る。
「なぜ涙とともに種を蒔くのだろう、と長年思っていた。つまり、腹を空かせた子どもたちを振り切って、畑に種を蒔く。とても涙なしにはできない。
しかしアフリカに来て、ここのクリスチャンたちと一緒に働くようになって知った。
種を蒔くとは、二つのうちの一つを選択することなのだ。
いまその種を腹を空かせた子どもに与えて食べるのか、
それとも来年の収穫のためにその種を畑に蒔くのか。」
そんな厳しい生活が背後にある。
これを見て筆者も「なるほどなー」、と思った次第。
2016年1月3日日曜日
(2)教会巡り2016年
教会巡りについて書くのはこれが第3弾目となりました。
第1弾目、第2弾目
今年もこの「教会巡り」が初めての投稿です。
で、まずはご挨拶から。
12月24日夜のイブ礼拝を挟む、12月20日と27日の2回。
元旦礼拝を越えた3日(今日)。
では順にどの教会へ行って礼拝を守ったかご報告します。
12月20日は、日本聖公会東京諸聖徒教会へ。
近所なのですが筆者の4つ5つある散歩コースからはちょっと外れていて殆ど(教会が)あることに気づきませんでした。
たまたま数週間前歩いていて古めかしい建物に出くわしたら、それがこの教会だったという・・・。
それで今度の教会巡りに訪ねてみようと思い立ちました。
訪れた20日は多くの教会ではプログラムがクリスマスにちなんでいましたが、こちらではほぼ普段どおり(キリスト教暦に基づいた典礼ですから、聖書箇所はクリスマスでしたが)。
礼拝では聖餐式があり、特別に案内がないので、スキップしようと思いましたが、案内の人が「洗礼を受けていれば、受けてください」ということなので前に進み出ました。
しかしなんですね、自分が与っている聖餐式の形と違うとえらくハードルが高く感じられました。
やり方も分からないし。
そもそも式に伴う聖書の箇所やら、応答文やら、賛美やらが多くて、何をやっているのやら追っかけるだけでやっと。
ということで参加せずに見るだけでいいや、などと横着な考えになっていました。
さて訳あって次は新年3日の礼拝について。
近所の日本基督教団の教会の礼拝に出席しました。
名前は伏せておきます。
(後から書く教会でのことがあって)何かいろいろ考えることもありました。
何はさておきこの日は聖餐式があり、当教会で用いている式文が日本基督教団のものなのでアットホームな感じで助かりました。
そうそう、配餐の時ぶどう酒とぶどうジュースと両方あったのですが、間違ってぶどう酒の方を取ってしまいました。
しかしこんな風にオプション式にしているところもあるのですね。
説教は・・・少し長かった。
そして「聞きやすい説教」ということをより具体的に、明確に捉えられるようになったので、自分が今後何を気をつけるべきか、という点についての参考になりました。
さて年末、27日の礼拝について書きます。
しかし詳細は書かないでおきます。
その理由を詳細に具体的に書くことができないのがもどかしいですが。
ただ予想もしてなかった「説教体験」だったので、そのことをメモしておきます。
その他のことはみなある程度想定内というか予定調和的に進んだのですが、説教が始まって何か少しずついい意味での「違和感」「意外観」を覚えるようになりました。
あれっ何かこの説教違うぞ。何が違うんだろう。
明らかにまだキャリアの浅い牧師が、時に声が上ずり、緊張しているのが分かる話し方であったが、次第に不思議な響きの話し(の語り)に引き込まれていくように感じた。
全体で30分少しくらいの長さであったろうか、ほぼ一定のスピードで、声の強弱やアクセントがほぼ皆無の、始めから最後まで静かな佇まいの説教であった。
このちっともドラマチックでない声の調子で語られる説教の内容は、しかし実にしっかりした人物描写や情景描写が配されたドラマチックなものであった。
25年牧師をやってきて、自分の説教の貧しさを感じ恥ずかしくなるような体験であった。
教会に育ち、米国に留学もし、多くの感動的で、エキサイティングな説教をいくつも聴いてきたと思うが、このような説教は初めてだった。
その日帰ってきてから、ずーっと考えている。
何が違うのだろう。
あの説教はどのように構成されていたのだろう。
どのように準備したのだろう。
とても真似はできないが、しかし様々なことを示唆してくれる得がたい説教体験となった。
今回の教会巡りでは、2回聖餐式に与った。
典礼の占める割合というか、典礼的な度合いを5段階くらいで示すと、自分としての居心地のいい典礼度は大体、「2」ときに「3」もあり、といった感じではないか。
今回最初に行った聖公会や以前行った福音ルーテルは大体「3~4」という感じかな。
さて、では今年もこの「教会巡り」でピックアップしたことを参考にしながら、巣鴨教会の礼拝や教会案内に活かしてみよう。
第1弾目、第2弾目
今年もこの「教会巡り」が初めての投稿です。
で、まずはご挨拶から。
新年明けましておめでとうございます。この年末年始も、巣鴨聖泉キリスト教会は主日礼拝が3週連続でお休みとなりました。
今年もよろしくお願いします。
12月24日夜のイブ礼拝を挟む、12月20日と27日の2回。
元旦礼拝を越えた3日(今日)。
では順にどの教会へ行って礼拝を守ったかご報告します。
12月20日は、日本聖公会東京諸聖徒教会へ。
近所なのですが筆者の4つ5つある散歩コースからはちょっと外れていて殆ど(教会が)あることに気づきませんでした。
たまたま数週間前歩いていて古めかしい建物に出くわしたら、それがこの教会だったという・・・。
それで今度の教会巡りに訪ねてみようと思い立ちました。
訪れた20日は多くの教会ではプログラムがクリスマスにちなんでいましたが、こちらではほぼ普段どおり(キリスト教暦に基づいた典礼ですから、聖書箇所はクリスマスでしたが)。
礼拝では聖餐式があり、特別に案内がないので、スキップしようと思いましたが、案内の人が「洗礼を受けていれば、受けてください」ということなので前に進み出ました。
しかしなんですね、自分が与っている聖餐式の形と違うとえらくハードルが高く感じられました。
やり方も分からないし。
そもそも式に伴う聖書の箇所やら、応答文やら、賛美やらが多くて、何をやっているのやら追っかけるだけでやっと。
ということで参加せずに見るだけでいいや、などと横着な考えになっていました。
さて訳あって次は新年3日の礼拝について。
近所の日本基督教団の教会の礼拝に出席しました。
名前は伏せておきます。
(後から書く教会でのことがあって)何かいろいろ考えることもありました。
何はさておきこの日は聖餐式があり、当教会で用いている式文が日本基督教団のものなのでアットホームな感じで助かりました。
そうそう、配餐の時ぶどう酒とぶどうジュースと両方あったのですが、間違ってぶどう酒の方を取ってしまいました。
しかしこんな風にオプション式にしているところもあるのですね。
説教は・・・少し長かった。
そして「聞きやすい説教」ということをより具体的に、明確に捉えられるようになったので、自分が今後何を気をつけるべきか、という点についての参考になりました。
さて年末、27日の礼拝について書きます。
しかし詳細は書かないでおきます。
その理由を詳細に具体的に書くことができないのがもどかしいですが。
ただ予想もしてなかった「説教体験」だったので、そのことをメモしておきます。
その他のことはみなある程度想定内というか予定調和的に進んだのですが、説教が始まって何か少しずついい意味での「違和感」「意外観」を覚えるようになりました。
あれっ何かこの説教違うぞ。何が違うんだろう。
明らかにまだキャリアの浅い牧師が、時に声が上ずり、緊張しているのが分かる話し方であったが、次第に不思議な響きの話し(の語り)に引き込まれていくように感じた。
全体で30分少しくらいの長さであったろうか、ほぼ一定のスピードで、声の強弱やアクセントがほぼ皆無の、始めから最後まで静かな佇まいの説教であった。
このちっともドラマチックでない声の調子で語られる説教の内容は、しかし実にしっかりした人物描写や情景描写が配されたドラマチックなものであった。
25年牧師をやってきて、自分の説教の貧しさを感じ恥ずかしくなるような体験であった。
教会に育ち、米国に留学もし、多くの感動的で、エキサイティングな説教をいくつも聴いてきたと思うが、このような説教は初めてだった。
その日帰ってきてから、ずーっと考えている。
何が違うのだろう。
あの説教はどのように構成されていたのだろう。
どのように準備したのだろう。
とても真似はできないが、しかし様々なことを示唆してくれる得がたい説教体験となった。
今回の教会巡りでは、2回聖餐式に与った。
典礼の占める割合というか、典礼的な度合いを5段階くらいで示すと、自分としての居心地のいい典礼度は大体、「2」ときに「3」もあり、といった感じではないか。
今回最初に行った聖公会や以前行った福音ルーテルは大体「3~4」という感じかな。
さて、では今年もこの「教会巡り」でピックアップしたことを参考にしながら、巣鴨教会の礼拝や教会案内に活かしてみよう。
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