主日礼拝
2016年5月1日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ローマ 8:31-39
説 教 題 「義と認めるのは神」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※聖餐式があります。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2016年4月30日土曜日
2016年4月27日水曜日
今日のツイート 2016/4/27
「凄い分かる。」
同じく。
同じく。
凄い分かる。キリスト教の「主の祈り」、私の頃はまだ文語体で「天にまします我らの父よ 願わくは御名の尊まれん事を」だったけど、今はもう口語体で「天のお父さん あなたの名を礼賛します」とか、とても語呂悪いしカッコ良くないしトキメかない。 https://t.co/fPc1vErjCJ— リー子 (@reeco_mzk) 2016年4月25日
2016年4月23日土曜日
2016年4月22日金曜日
(5)現代の英語圏神学者⑤、ダイアナ・バトラー・バース
このシリーズ、スタンリー・ハウアーワス 1、(ハウアーワス 2 ハウアーワス 3)、クリスチャン・ワイマン、そしてディヴィッド・ガシー、ジョン・B・コッブ Jr. と既に4人取り上げた。
実は適当な女性神学者はいないかなー、と5人目の候補を探していた。
神学者として「ヘビー級」な方を念頭にしていたが、路線変更して「ポピュラー」な方にした。
というのもこの方、ダイアナ・バトラー・バース はデューク大で博士(宗教学、アメリカ宗教史)をやった方ですが、既に著作数も多くあちこち講演にも招かれているポピュラーな方なのです。
特にヨーロッパに続いて、今や数値的には北米もキリスト教が(ということは宗教も)衰退を始めているとの観測が強まる中で、自分のアカデミックな背景(大覚醒運動史、あるいは『信仰復興運動』史)を用いながら、かなり楽観的というか、積極的な未来を描いて伝えているからです。(だから講演者として引っ張りだこなのでしょう。)
現代(あるいはポストモダン)においては、「(既成)宗教」対「スビリチュアリティ」と対立的構図で捉えられる傾向にありますが、彼女は両方ともヴァイタルな要素として捉えようとしているように思います。
彼女の「アメリカ宗教/霊性に対する楽観的観測」のベースになっているのは継続して繰り返される「信仰復興(リヴァイヴァリズム)」の歴史ですが、数年前に出版された
Christianity After Religion: The End of Church and the Birth of a New Spiritual Awakening
の種本になっているウィリアム・マクラフリンの Revivals, Awakenings, and Reform に基づいた観察・観測のようです。
このブログでは余り書かなくなった英国新約聖書学者のN.T.ライトも『クリスチャンであるとは』第2章<隠れた泉を慕って>で書いているように、本来人間の宗教性・霊性は「世俗化」のような歴史的変化によって一方的に消えるようなものではなく、(むしろ啓蒙主義体制によって公共空間から人工的に隔離され見えなくなった状態にされてきた)様々な形で「噴出している」と見ています。
今では啓蒙主義思想を継承するドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスも、この「脱世俗化」の動向に注意を払っています。(この記事やこの記事をどうぞ)
しかし「政教分離政策」が徹底してきた近代(主義)国家では、公共空間に「聖性・宗教性・霊性」がいきなりカムバックするということは難しいでしょう。(世俗主義とのせめぎ合いが続くと思います。)
少し脱線してしまいましたがバースに戻ると、彼女の関心は「公共空間における宗教・霊性の回復ありやなしや」の方面ではなく、どのような宗教性・霊性として「再解釈」されるのか、と云う問題です。
彼女の最新著作Grounded: Finding God in the World-a Spiritual Revolution
では「『神』の概念構造」の変革をめぐって発言しているのですが、これまたライトの提示する「ポストモダンキリスト教」とある部分呼応するところがあります。
ライトが『クリスチャンであるとは』で導入している「天と地が重なり合う/インターロックする」ような《神観》を提示するのに対し、バースは「(近世までの「『天』と云う最上階層に遠く離れた神」に対して)「ここに、わたしたちと共におられる神」を提示しようとします。
バースの提示する神観は恐らく「リベラル神学」の伝統に由来するものと思われますが、しかしポストモダンの状況を捉えて発信されているニュアンスを聴き取ることが大事ではないかと思われます。
実はバースは(どちらかというと)福音主義的信仰で育ったようですが、ご他聞に漏れずその信仰内容に関して言うと「遍歴」してきたことを自著でも語っていたように思います。
この「信仰遍歴」と云うテーマは筆者の見るところ「現代神学」を語るときに不可欠な要素になって来ているように思います。
(かような理由で《宗教と社会 小コロキアム@巣鴨》ブログで新研究トピック: 信仰進化と題した記事をアップしました。)
[追記 2016/8/10]
神学者の書斎が見られるのは面白いと思うので、最近アップされたので紹介。
ではダイアナ・バトラー・バースの紹介はここまでにして、別の連載シリーズ「霊性を神学する」で彼女の「神観」を取り上げたいと思います。
実は適当な女性神学者はいないかなー、と5人目の候補を探していた。
神学者として「ヘビー級」な方を念頭にしていたが、路線変更して「ポピュラー」な方にした。
というのもこの方、ダイアナ・バトラー・バース はデューク大で博士(宗教学、アメリカ宗教史)をやった方ですが、既に著作数も多くあちこち講演にも招かれているポピュラーな方なのです。
特にヨーロッパに続いて、今や数値的には北米もキリスト教が(ということは宗教も)衰退を始めているとの観測が強まる中で、自分のアカデミックな背景(大覚醒運動史、あるいは『信仰復興運動』史)を用いながら、かなり楽観的というか、積極的な未来を描いて伝えているからです。(だから講演者として引っ張りだこなのでしょう。)
現代(あるいはポストモダン)においては、「(既成)宗教」対「スビリチュアリティ」と対立的構図で捉えられる傾向にありますが、彼女は両方ともヴァイタルな要素として捉えようとしているように思います。
彼女の「アメリカ宗教/霊性に対する楽観的観測」のベースになっているのは継続して繰り返される「信仰復興(リヴァイヴァリズム)」の歴史ですが、数年前に出版された
Christianity After Religion: The End of Church and the Birth of a New Spiritual Awakening
の種本になっているウィリアム・マクラフリンの Revivals, Awakenings, and Reform に基づいた観察・観測のようです。
このブログでは余り書かなくなった英国新約聖書学者のN.T.ライトも『クリスチャンであるとは』第2章<隠れた泉を慕って>で書いているように、本来人間の宗教性・霊性は「世俗化」のような歴史的変化によって一方的に消えるようなものではなく、(むしろ啓蒙主義体制によって公共空間から人工的に隔離され見えなくなった状態にされてきた)様々な形で「噴出している」と見ています。
今では啓蒙主義思想を継承するドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスも、この「脱世俗化」の動向に注意を払っています。(この記事やこの記事をどうぞ)
しかし「政教分離政策」が徹底してきた近代(主義)国家では、公共空間に「聖性・宗教性・霊性」がいきなりカムバックするということは難しいでしょう。(世俗主義とのせめぎ合いが続くと思います。)
少し脱線してしまいましたがバースに戻ると、彼女の関心は「公共空間における宗教・霊性の回復ありやなしや」の方面ではなく、どのような宗教性・霊性として「再解釈」されるのか、と云う問題です。
彼女の最新著作Grounded: Finding God in the World-a Spiritual Revolution
では「『神』の概念構造」の変革をめぐって発言しているのですが、これまたライトの提示する「ポストモダンキリスト教」とある部分呼応するところがあります。
ライトが『クリスチャンであるとは』で導入している「天と地が重なり合う/インターロックする」ような《神観》を提示するのに対し、バースは「(近世までの「『天』と云う最上階層に遠く離れた神」に対して)「ここに、わたしたちと共におられる神」を提示しようとします。
バースの提示する神観は恐らく「リベラル神学」の伝統に由来するものと思われますが、しかしポストモダンの状況を捉えて発信されているニュアンスを聴き取ることが大事ではないかと思われます。
実はバースは(どちらかというと)福音主義的信仰で育ったようですが、ご他聞に漏れずその信仰内容に関して言うと「遍歴」してきたことを自著でも語っていたように思います。
この「信仰遍歴」と云うテーマは筆者の見るところ「現代神学」を語るときに不可欠な要素になって来ているように思います。
(かような理由で《宗教と社会 小コロキアム@巣鴨》ブログで新研究トピック: 信仰進化と題した記事をアップしました。)
[追記 2016/8/10]
神学者の書斎が見られるのは面白いと思うので、最近アップされたので紹介。
ではダイアナ・バトラー・バースの紹介はここまでにして、別の連載シリーズ「霊性を神学する」で彼女の「神観」を取り上げたいと思います。
2016年4月17日日曜日
今日のツイート 2016/4/17
逃げるが勝ち!!
いま鬱が明けて言えること。— 坂口恭平 (@zhtsss) 2016年4月16日
「とにかく震源地周辺からできるだけ遠くへ逃げてください」
泊まるところがなかろうがなんだろうが出てみればわかる。体が楽になる。建物の中で待つのでも、家があるからと執着するのでもなく、仕事も土地も放り投げてまずはできるだけ遠くへ逃げること。笑われてもいい
わからないものの前からは素直に逃げる— 菅野完 (@noiehoie) 2016年4月16日
死の前に謙虚になる
防災士の研修で学んだこと。
2016年4月16日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2016年4月17日(日) 午前10時30分
朗読箇所 コロサイ人への手紙 2:1-15
説 教 題 「死んでいたのを生かし」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(27)/パウロ書簡の学び(144)
2016年4月17日(日) 午前10時30分
朗読箇所 コロサイ人への手紙 2:1-15
説 教 題 「死んでいたのを生かし」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(27)/パウロ書簡の学び(144)
今日のツイート 2016/4/16
ツイッターから直接というより、フェイスブックで「シェア」されていたのをピックアップしたわけですが・・・。
[12,000シェア]東大学長の「新聞を疑って読め」という入学式メッセージを読売新聞が「新聞を読もう!」に要約してまさしく言葉通りの事態に | netgeek https://t.co/TSsCACmldv— netgeek (@netgeek_0915) 2016年4月15日
ネットによって「情報」に対し一面よりフラットな状況が出現した・・・と見えますが、実態としては「デジタル情報リタラシー」の観点から言うと様々な「情報格差」も現れてくる、というわけでしょうか。
ネット・ギークはそんな「情報のズレ」的なところを衝いているのでしょう。
東大学長自身が気づいた「情報のズレ」は「国内外での報道内容の違い」というかなり古典的なもののようですが、スマホ世代の「ネット情報を自在に活用している」かに見える新入学生に対して老婆心ながら「情報というのは立体的に扱わないとだめだよ」、と諭している図に見えます。
その一例として「新聞報道記事を批判的に読む」ことをアッピールしているわけでしょう。
「新聞からの情報を鵜呑みにするな」、との警告の背景には、最近の「政府による干渉」やマスメディア側の自主規制のことがあるいは念頭にあったのかも知れません。
読売新聞記事は「新聞を読む」(だけ?)を切り取って、東大学長が(殆ど新聞を読まなくなった)世代に向けて「もっと新聞を読もう」・・・としたのだとすると、それは「マーケティング」関心からステマ的記事、ということになりかねません。
しかし、問題は「我田引水的でいい加減な記事」であることにとどまらず、東大学長のスピーチの肝要点である「批判的性格」から目を逸らせる「改変を加える」、「情報を操作する」、「ステマする」といった様相もありそうな・・・と妄想に拍車がかかってしまいそうです。
新聞に限らず活字情報を「読まなくなった」と云われる世代に「新聞記事を鵜呑みにするな」は馬の耳に念仏かもしれませんが、「デジタル化」と「ネット」により「情報拡散」がこれほど簡単にスピーディーなった世の中で、「リタラシー」教育を今後どのように洗練して行くべきか、という問題はやはり大事なものではないか・・・と「読売新聞記事の東大学長スピーチの扱い方」を通じて思ったことでした。
・・・とかように「ネットに浮遊する情報」を断片的に取り扱かってこのような文章を書くことはますます軽薄化に寄与することになるやも知れず、頭が痛い。
・・・とかように「ネットに浮遊する情報」を断片的に取り扱かってこのような文章を書くことはますます軽薄化に寄与することになるやも知れず、頭が痛い。
2016年4月13日水曜日
(5)オープン神論サイドノート①
最近更新のペースが落ちています。
が、調子が悪いわけではありません。
一応書きかけ記事が15くらいありまして、手を入れず放置したままにしてしまっている次第。
主に神学ブログ⑧で紹介した、山崎ランサム和彦先生が、オープン神論とは何かの連載記事を開始されました。
それに触発されて、引き出しに入れっぱなしになっていた書きかけの「オープン神論」記事を出してみました。
しかし大したことは書けないので、今後進展するであろう山崎先生の連載記事の「サイドノート」にでもなればよろしいかと・・・。
個人的には筆者は余り「オープン神論」論争には関心が深いわけではなく、ただこれから紹介するように「オープン神論」論者が筆者の神学的背景である「ウェスレヤン・アルミニアン」神学の伝統を支持基盤とするだけ、ある意味「親和性」が高い・・・ということで何かしらシンパシーは感じている、というほどの関わりです。
「オープン神論」論者で最初に紹介するのは山崎先生が紹介している「グレグ・ボイド」の次くらいに名前が挙がる「クラーク・ピノック(Clark Pinnock CT追悼記事 1937-2010)」です。
「説教学」 という雑誌でピノックが「インタヴュー」を受けた記事です。
その中から一部、ETS (アメリカ福音主義神学会)での「論争」の経緯や背景について語っているところです。
とここからがかなり表現がささくれ立ってきますが、(「オープン神論」論争において)ロジャー・ニコールが取った戦術を非難しています。
すなわち、「ノーマルな福音主義(であるウェスレヤン・アルミニアン主義)者たち」からピノックら「オープン神論」論者たちを区別・分離して「異端」視した、と。
その先導をしたのが「5論点カルヴィニズム」を奉ずる「ロジャー・ニコール」(1915-2010)であり、実は「ウェスレヤン・アルミニアン主義者」たちも好きではなかったが、一応「福音主義者」陣営にいるために「オープン神論」論者を彼らから隔離する必要があったのだ、と考えています。
英語ではこう言う述懐を「ビター(苦い)記憶」といいますが、やはり「正統派」から「異端」のように突っつかれたことが癒えない傷となっていたのでしょうね・・・。
※引用文中にあるRandy Maddoxは現在デューク大神学部で、「ウェスレヤン・メソジスト研究」の教授をしています。
が、調子が悪いわけではありません。
一応書きかけ記事が15くらいありまして、手を入れず放置したままにしてしまっている次第。
主に神学ブログ⑧で紹介した、山崎ランサム和彦先生が、オープン神論とは何かの連載記事を開始されました。
それに触発されて、引き出しに入れっぱなしになっていた書きかけの「オープン神論」記事を出してみました。
しかし大したことは書けないので、今後進展するであろう山崎先生の連載記事の「サイドノート」にでもなればよろしいかと・・・。
個人的には筆者は余り「オープン神論」論争には関心が深いわけではなく、ただこれから紹介するように「オープン神論」論者が筆者の神学的背景である「ウェスレヤン・アルミニアン」神学の伝統を支持基盤とするだけ、ある意味「親和性」が高い・・・ということで何かしらシンパシーは感じている、というほどの関わりです。
「オープン神論」論者で最初に紹介するのは山崎先生が紹介している「グレグ・ボイド」の次くらいに名前が挙がる「クラーク・ピノック(Clark Pinnock CT追悼記事 1937-2010)」です。
「説教学」 という雑誌でピノックが「インタヴュー」を受けた記事です。
その中から一部、ETS (アメリカ福音主義神学会)での「論争」の経緯や背景について語っているところです。
HOMILETICS: You weren’t always an open theist. How did this change in direction come about for you?
PINNOCK: Well, I used to be a five-point Calvinist in the late ’60s and then I came to read Hebrews and noticed how it appears our relationship to God is conditional upon faith, so I was intrigued by the idea that God is conditioned by some of the things that creatures do.(※ここではピノックが最初は「5論点カルヴィニズム」からスタートして、ヘブル書を読んで神観が変化したことを述べています。その後ジョン・サンダースと協力してより「リレーショナルな神観」が福音主義に可能なことを示そうと動き始めた、と述べています。)
The old view is that God is not conditioned by anything his creatures do because he has determined what they do. But if, in fact, God’s will is affected by what his creatures decide, then that calls for a personal theism, relational theism, open theism.
So in a way open theism goes right back to the early ’70s when I realized the weakness of deterministic thinking. And then over the years I wrote different things on the subject. Then John Sanders talked to me and we decided that since this is a view that some people know about, but not all, let’s present it in a clear way just for evangelicals so that they can see what we think.
HOMILETICS: Has this made a ripple on the mainline side, or is this a problem primarily for evangelicals?
PINNOCK: The Evangelical Theological Society is a peculiar group of very conservative evangelicals. But there are many who consider themselves evangelicals who don’t go to it who you would find in different sections of the American Academy of Religion and the Society of Biblical Literature and who are positioned in the Wesleyan faith. So they see it correctly, namely, as a variant of their own position and worthy of consideration — which is all we want them to do. Like Randy Maddox [Professor of Wesleyan Theology, Seattle Pacific University], for example, a major interpreter of Wesley, who wrote a great book. He says that [John] Wesley might well have considered openness in full agreement with what he was getting at.最初の部分で「福音主義者」について興味深い定義をしています。
So there are evangelicals who are not ETS evangelicals. You almost need a new term. There are the ETS types who would go after me like that, but normal evangelicals who are outside that, they regard it just for what it is — a variant of Wesleyan-Arminian thinking. [Roger] Nicole, a five-point Calvinist, wants to emphasize how different our view is so they can isolate it as a heresy, because they don’t want to criticize all Wesleyan-Arminians although they don’t like their views.
(北米)福音主義神学会は、かなり保守的な福音主義者たちの集まりという点で特有です。他の多くの福音主義者たちの中で「アメリカ宗教学会」や「北米聖書学会」の諸部門に顔を出すような人たちがこの学会(ETS)には出席しません。彼らは「ウェスレヤンの立場」の方々です。と、「オープン神論」の立場が、「ウェスレアン神学」と親和性が高く(ピノックは「ウェスレアン的神観」に属するとしています。)、「ETS福音主義者ではない福音主義者たち」としています。
とここからがかなり表現がささくれ立ってきますが、(「オープン神論」論争において)ロジャー・ニコールが取った戦術を非難しています。
すなわち、「ノーマルな福音主義(であるウェスレヤン・アルミニアン主義)者たち」からピノックら「オープン神論」論者たちを区別・分離して「異端」視した、と。
その先導をしたのが「5論点カルヴィニズム」を奉ずる「ロジャー・ニコール」(1915-2010)であり、実は「ウェスレヤン・アルミニアン主義者」たちも好きではなかったが、一応「福音主義者」陣営にいるために「オープン神論」論者を彼らから隔離する必要があったのだ、と考えています。
英語ではこう言う述懐を「ビター(苦い)記憶」といいますが、やはり「正統派」から「異端」のように突っつかれたことが癒えない傷となっていたのでしょうね・・・。
※引用文中にあるRandy Maddoxは現在デューク大神学部で、「ウェスレヤン・メソジスト研究」の教授をしています。
ラベル:
オープン神論,
キリスト教史、ジョン・ウェスレー,
ライト読書会,
神学,
福音主義
2016年4月9日土曜日
今日のツイート 2016/4/9
「50年前の今日」といっても、米国時間ですから「1966年4月8日」ということですが・・・。
映画のタイトルで、GOD'S NOT DEAD というのがあって、日本でも上映されましたが(2014年12月だったかな)、一般的には(いわゆる)「世俗化(宗教的信仰の衰退)」が進んでいる、と言われます。
(※この映画の続きもできたようです。)
でも実際はもっと複雑な状況で、「脱・世俗化」現象がいろいろ囁かれていますね。
要するに「神に関する疑問(The Question of GOD)」はなかなか死なないと思います。
Today marks 50 years since TIME published its iconic 'Is God Dead?' cover https://t.co/sX5QmPyXQB pic.twitter.com/Jd1cFGU71P— TIME.com (@TIME) 2016年4月8日
映画のタイトルで、GOD'S NOT DEAD というのがあって、日本でも上映されましたが(2014年12月だったかな)、一般的には(いわゆる)「世俗化(宗教的信仰の衰退)」が進んでいる、と言われます。
(※この映画の続きもできたようです。)
でも実際はもっと複雑な状況で、「脱・世俗化」現象がいろいろ囁かれていますね。
要するに「神に関する疑問(The Question of GOD)」はなかなか死なないと思います。
2016年4月2日土曜日
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