2017年5月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年5月28日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 19:16-30
説 教 題 「捨てることと受けること」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(4)、神の国と冨の問題 2

2017年5月23日火曜日

2017 友の会バザー

友の会バザーご案内

日時☆2017年6月8日(木)午前11時~12時20分
場所☆巣鴨聖泉キリスト教会
 豊島区巣鴨1-3-19
     活水工房(教会隣り) 豊島区巣鴨1-3-20

※開始時間前に「整理券」が配られます。

出品物:
 * 友の会ならではの吟味された・・・手作りのパウンドケーキ、マドレーヌ、ごませんべい
 * 丁寧に心をこめて作った・・・エプロン、布巾、ピロケース、鍋帽子
 * 恒例の雑貨、中古衣料など

☆収益金の一部は被災地に寄付されます。
 
主催:東京第一友の会 文京方面
 


2017年5月21日日曜日

今日のツイート 2017/5/21

先ずはこれ。
それから、これ
そして、これ

感じ方は人それぞれなのだが・・・「一流の方」と「神対応」にはちょっと???と思った。

2017年5月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年5月21日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:18-4:1
説 教 題 「主に対してするように」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(39)/パウロ書簡の学び(156)

「キリストにある」生き方⑧
 奴隷と主人  (コロサイ3:22-4:1)

2017年5月19日金曜日

今日のツイート 2017/5/19

(3週間ほど前になる「今日」ですが・・・)

キリスト教会が掲げる「聖句看板」として最も有名な聖句の一つが・・・

しかし、この聖句が「マイクロバスの定員数」(?)とかぶってしまいトホホなことになったみたいです。



2017年5月18日木曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、9

また前回から大分間が空いてしまいました。

遅々として進まず・・・ですが、継続を力として何とかまた一歩。


さて、2回に分けた後半になるわけですが、

 6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
  A 「英米ー明らかに異なる二つの流れ」(88-94)

で、
聖書批評学に対してキリスト教保守(ファンダメンタリズム)は、英では積極的な対応、米では消極的な対応、と異なる二つの流れが生じた
ことを見たわけでした。



6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
 B「ファンダメンタリズムによる聖書信仰の伏流ー前千年期王国論と創造科学」(95-108)


ざっくりしたポイントは、
(1) 無誤論的聖書信仰が教派や他の背景の違いを越えて、広くキリスト教保守派に広まって(浸透して)20世紀初頭のファンダメンタリズムを形成した。
(2) その背景には、「ディスペンセーション主義神学」と「創造科学」が「字義通りの聖書解釈」を実践したが、その理論的根拠を(最初からではないらしいが)ウォーフィールド型の無誤論に求めた・依存した。
というところでしょうか・・・。プリンストン神学と、ディスペンセーション主義神学、通常であれば余り隣近所になりにくそうな二つが繋がったであろう背景を指摘していますね(100ページ)。


筆者は「ファンダメンタリスト連合」に含まれている「ホーリネス諸教派」(95)の系譜にある教会で育ったのですが、実は「ディスペンセーション神学」や「創造科学」の影響は殆ど受けていません。

「千年王国」という用語はもしかしたらどこかから耳に入っていたかも分かりませんが、その諸説に関しては全くといっていいほど無知でした。(現在もさほど変わりませんが。)
 ※そんな程度の経験知ですから「この記事」や「この記事」で書いたことで尽きてしまいます。


「創造科学」はどこかの時点で「ヘンリー・モリス」とその著書くらいは目にしたことがあるかもしれませんが、それでも関心を持ったことは一度もありませんでしたし、その影響を自分の周囲に感じたことはほんのわずかしかありません。

そう「ほんのわずか」、論争の断片を記憶しているくらいです。

父(牧師)が昔「日本福音主義神学会」に少し関係していた頃かと思いますが、創世記の「創造」の記述の「日」を文字通り24時間の一日と取るか否かが「聖書信仰」の試金石・・・みたいな話をしていたのを耳にした程度です。

父は青年期(19歳)にキリスト教に回心していますが、それからまもなくのことと思いますが、信仰的に「疑い」の悩み・問題を抱えた時「聖書と心中する覚悟というか境地に立った」と語ったことを何度か聞いたことがあります。

筆者のように何世代目かのキリスト者となると、そのような「追い込まれた状況での信仰の飛躍」体験はほとんどありません。

神への信頼を通奏低音(丸山真男が日本思想の特徴を描写する時に用いた表現バッソ・コンティヌオの訳語とか)として生きてきた感じで、いちいち(神学)論争の度ごとに自らの信仰態度を決定し・表明する・・・ということには馴染んでいませんしむしろ忌避する傾向があります。

そんな筆者の偏見から見ると、「一日」の解釈を巡って聖書信仰の真贋をテストする・・・ような極端な論争にヒートアップするようなことはもはや「忠誠テスト」であって、解釈の客観的妥当性を巡る論争には思われません。


と、今回は「書評ノート」とは名ばかりの回顧録になってしまいました。

(次回へ続く???あるいはまだ続くかもしれません。)

2017年5月13日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年5月14日(日) 午前10時30分

朗読箇所 創世記 50:15-21
説 教 題 「本当に良かったといえる人生」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」5


※礼拝後、昼食会があります

今日のツイート 2017/5/13

格言ですね。

2017年5月11日木曜日

(4)第6回 日本伝道会議 2

先日アップした(3)救いについての「教理」でもイントロに書いたのですが、昨年の「第6回 日本伝道会議」 の「事後報告その1」を書いた後そのままになっていました。

その続きを書こうと思うのですが「紀行」としての続きはあきらめて、「救いの教理」について書いた流れを受け、「義認論ノート」として書いてみます。

「ライトの義認論」をめぐる神学討論会のために下準備として読んで「メモした材料」が色々あるのですが、なかなかまとめて紹介するのは骨が折れるので、「義認論ノート」として小出しで発表しようと思います。

と云う構想はかなり前からあったのですが、(そしてある程度までは書き溜めたのですが)、たまたまその呼び水みたいな文章を読んで、ようやくアップすることにしました。


以上が「序」とでも言うべき部分です。

次に「イントロ」が待ち構えています。
経緯と云うものがあるので即「義認論」にはまだ入れないのです。残念ながら・・・。


(1)5月27日のライト読書会
の案内をブログにアップしたばかりなのですが、今度読むライトのテキストは

A Royal Priesthood?
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に入っているのですが、この「Royal Priesthood」論集はちょうど3年前に購入してブログでも記事にしていました。

この「Royal Priesthood」繋がりで、ジョン・ハワード・ヨーダーの
The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
を同じ時に購入していたのです。 

と言うか、こちらの方が「ヨーダー読書会」のテキスト用に必要で購入したわけでした。
そして「最初に紹介した方の論集」はRoyal Priesthood」繋がりでついでに購入したのでした。

ヨーダーのThe Royal Priesthood、はその後読書会で少し読み進めたのですが、まもなく読書会自体がストップしてしまい積読状態になっていたのです。
 

先日、5月のライト読書会の準備も兼ねて、Royal Priesthood」繋がりで「ヨーダーの方の論集」を少しページをパラパラやっていたら・・・「義認論」関連の箇所に出くわしました。
Few assumptions have been more widely shared in Protestant thought than the identification of the messages of Paul and Luther with the promise of a new hope for the individual in his subjectivity. Luther in his rejection of the cultural religion of the Middle Ages, ..., raised as his banner the pro me of the forgiven sinner. That God is gracious to me is the good news that Zinzendorf, Wesley, Kierkegaard, and today both Rudolf Bultmann and Billy Graham ... have derived from Luther and have labored to keep unclouded by any effort to derive from it ... a social program or any other human work. To safeguard the pure gratuitousness of grace, any binding correlation with human goals or achievements must be studiously kept in second place.
     This assumption ... is now being dismantled under the impact of the exegetical theology of this century. ... Today such scholars as Markus Barth and Hans-Werner Bartsch are finding as well even in the writings of Paul, yea even in Galatians and Romans, a hitherto unnoticed dimension of community extending even into the meaning of such words as justification. (P.73 下線は筆者)
この論文の初出は1967年ですから、まだ「サンダース、ダン、ライトらの名前が登場するNPP論争」が始まる前です。

(もっともクリスター・ステンダールの『The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West』は1963年ですが・・・。)

前段落では、ルターの「福音の再発見」が極端に個人的・主観的なものであり、それがジンゼンドルフ伯爵、ウェスレー、キルケゴール、そして不思議な縁(?)ですが、(20世紀を代表する聖書学者)ブルトマンと大衆伝道者ビリー・グラハムに受け継がれている、と指摘しています。

ヨーダーにとっての問題関心は、この「極端に個人的・主観的信仰」を純粋に守ろうとするばっかりに「倫理的側面、社会的な脈絡」を切り離してしまう傾向なのですが、(次段落では) 近年のパウロ研究(釈義学)がこの主観的信仰の土台とも思われた「義認(justification)」にまで「共同体」のニュアンスが含まれていることを見出し始めている、と指摘しています。

この「義認(justification)」への適用に関してヨーダーは「イエスの政治」(1972年)で展開している議論を参照するよう脚注で述べていますが、確かに第11章「恵みによる、信仰による、義認」でこの新しいパウロ研究の視点を紹介しています。

「イエスの政治」を購入して読んだ当時はこのあたりの論争点にはまったくと言っていいほど無知でした。
We could in fact most properly say that the word "justification" ... should be thought of in its root meaning, as a verbal noun, an action, "setting things right," rather than as an abstract noun defining a person's quasi-legal status as a result of a judge's decree. To proclaim divine righteousness means to proclaim that God sets things right; that it is of his nature and the nature of his covenant that he is a right-setting kind of God. (P.229)
と、かなりライトの「義認」解釈と重なると言うか、むしろライトが改革派神学との整合性を保持しようとするニュアンスがあるのに対して、「共同体」ニュアンス方向に舵を切っている印象です。 

(2)マーカス・バルトの義認論
(この続きに関しては「義認論ノート」で、次の機会に・・・) 

今日のツイート 2017/5/11

スマホがあれば・・・


「あと40年で到着」
「そんなわけないだろ!!」 

という「荒野でGPS」というなんともな設定

2017年5月6日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年5月7日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「熱心にしていたこと 3」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

(3)救いについての「教理」

昨年9月、第6回日本伝道会議での「N.T.ライトの義認論」の事後報告もまだ終わってないのですが・・・

この3月『Salvation By Allegiance Alone(救いはアリージャンスによってのみ)』、という「宗教改革三大原理」の一つである「信仰義認」の「信仰(ピスティス)」解釈を巡って書かれた挑戦的な本が出版されました。

Salvation By Allegiance Alone、とは、「救いとは、信仰により、恵みによってのみ(Salvation By Grace through Faith Alone)」という公式的言い回しをもじって付けられた本のタイトルなわけです。


この『Salvation By Allegiance Alone』という本に関しては、既に幾つかのブログなどで取り上げられ紹介されています。(このことについては、N.T.ライト読書会ブログで扱っていく予定です。)


さて、この投稿では「救いの教理」をどう取り扱うか、という問題について「初歩的」なことを書いてみたいと思います。

初歩的といってもここでいう「初歩的」とは、宗教改革の伝統に立つプロテスタント教会の中では初歩的と考えられている「人が救われるのは、自分がする良い行いの功徳によるのではなく、神の一方的な恵みによってであり、ただそれを信ずることでいただけるのである。」という救いの基本的な理解 に関わることなので「初歩的」としました。

以下に「救いについての『教理』」を考えるためのテストケース を一つ紹介したいと思います。

これは「実際にあった」こととしてある場所で報告されたものです。
投稿者の許可を得て使用させていただく文章であることを予めお断りしておきます。


私は、26年ぐらい前にパプア・ニューギニアの奥地に伝道に行きました。そこでマーティンという男性と出会ったのですが、彼は、重病にかかり、骨と皮だけになり、もう立つことも座ることもできず、ただ、死ぬのを待っていました。

彼は、それまでキリストについて聞いたこともなく、教会に行く人間を軽蔑していました。しかし、私は、彼のそばに行って、イザヤ書40章の最後の部分をピジン語で読み、次のように言いました。
「昔、イスラエルという国に来られたイエス・キリストは、良い業を行い、多くの人を助けたけれど、人に理解されず、殺された。しかし、蘇って今も生きている。あなたがイエスの名を呼べば、イエスは必ずあなたのところに来て、あなたを救う。」
そして彼の体を抱きかかえるようにして祈り、彼にイエスの名を呼ぶように促すと、彼もイエスの名を呼びました。そして、私に言いました。「私は、私自身をイエスに差し出した。私は、イエスが私を救うことを信じる」と。

彼は祈りました。Bigpela hamamas Bigpela hamamas. Tankyu tru Jesus=Great joy! Great Joy! Thank you very much, Jesus.

彼は、立てなかった足で立ち上がり、家の周りにいた野次馬に向かって言いました。Jesus Krais emi stap laip=Jesus Christ is alive

彼は、その3日後に天に帰りましたが、その直前まで家族や訪れてくる人たちにイエスを信じるように語り続けました。その姿は多くの村人に衝撃を与え、イエスを求めて多くの人がやってくるようになったのです。

オーストラリアに帰って、ある保守的福音派教会でこのことを話した時、次のように言われました。「あなたは、イエスの十字架の代罰をその人に伝えなかったし、その人はイエスの代罰を信じたわけではないから、彼は救われていない。地獄に行ったと考えるのが妥当だ。

日本に帰国してからも同じように言われたことがあります。(強調は筆者)
さて、はたしてこのマーティンという方が「救われた」のかどうか・・・どちらなのでしょうか、という初期設定で「救いについての『教理』」を考えてみたいと思います。

この方(投稿者)がマーティンを「伝道」したやり方を、「救われるためのステップ」としてまとめると次のようになると思います。
 (1)イザヤ書40章の・・・読み
 (2)イエス・キリスト(がどういう方かを福音書のアウトライン要約でまとめ)
 (3)「救われる」ためにイエスの名を呼ぶことを示し
 (4)マーティンを信仰の応答に祈りで導いた

これに対し「(マーティンは)救われていない(だから地獄へ行った)」と判断した人の根拠は
 (1)イエスの十字架の死が(マーティンの罪の)代償であることを示さなかった
 (2)マーティンの信仰はこの「代償死(の教理)」に基づいたものではなかった
ということになります。

ここで一つ背景を明かします。

2016年10月に「第5回N.T.ライト・セミナー」を開催したのですが、テーマである《福音理解をめぐって》で以下のような質問をパネラーにしました。
 余り説明していることが出来ない限られた状況、危機的状況にある人に、ズバッと福音を伝えなければならない。どうしますか。
マーティンのケースはちょうどそんな具体例ではないかと思います。

信仰の《対象》と《応答》をどこに絞って福音を語るか、提示するか・・・という問題を討論するために敢えて「極限状況での福音伝達・提示」を問うてみたのです。

マーティンの場合、個人伝道した方(投稿者)は
 (1)福音の提示は・・・かなり省略し(アウトライン程度)
 (2)福音への応答 を・・・イエスの名を呼ぶに絞りました。

これと比較すると批判した方は
 (1)福音の提示は・・・「イエスの十字架の死」に重きを置き、
 (2)福音への応答 を・・・「イエスの十字架死が代償であった」と信ずることに絞りました。

※簡潔なレポートなので「細かいニュアンスの問題」は省略して論じています。

一体「人を救う」のは何によるのか、というのがこのレポートが問いかけるものです。

二つの問題をそれぞれ独立させて論じることが出来ると思います。
 (1)提示される福音の核心は何か?
 (2)提示された福音に対して応答する「信仰の対象」は何か?

これを以下のように比較点を強調してまとめてみます。
 (1)福音の核心は、
  (A)イエスの十字架の死なのか、
  (B)(イスラエルのメシアとして宣教し、十字架刑に処せられたが三日目によみがえらされた)イエスその人なのか。

 (2)信仰の対象は、
  (A)「イエスの十字架の死が罪人を救う代償であった」という教理なのか、
  (B)(十字架にかかって死なれたが今や復活して天におられる)主イエス・キリストなのか。

筆者がこの問いを解くのに大事だと思っているのは・・・
 (1)「福音」とは何か、という問いが基本的なものであり、
 (2)その「福音」に応答するにあたっての、
  (A)福音の「提示」の仕方や、
  (B)提示された福音に応答する時の「信仰」のあり方は、
  「『福音』とは何か」という「福音の核心」の理解に従属する
 というものです。

今回は「問題提起」だけにとどめます。

しばらくは、N.T.ライト読書会ブログでの『Salvation By Allegiance Alone(救いはアリージャンスによってのみ)』を書評したブログ記事を紹介することで、「問題の所在」や「神学的整理の仕方」を探ってみたいと思います。

2017年5月4日木曜日

今日のツイート 2017/5/4

久しぶりの「今日のツイート」

「今朝のツイート」と言いたいところですが・・・

今日一日が清清しい日でありますように

shirin yoku 森林浴はいかがでしょう