2010年11月29日月曜日

須藤生(すとう いくる)氏

先だっての土曜日午後、筆者が株主となっている、木工家、
IKURU DESIGN(氏のウェッブサイト)
の須藤生氏が来訪された。

実は須藤氏は以前ポストした「投資」
で書いた新進木工家のことである。 

11/24-26、東京ビッグサイトでのインテリアライフ見本市
出展を終えて、わざわざこちらまで出向いてこられた。
まあー出資者へのご挨拶と言うことだったが、
こちらは本当にわずかな出資なので恐縮だったが。

教会をご覧になられ、工房でお茶をしながら、色々とお話をうかがうことが出来た。

筆者は数年前から須藤氏のことは知っていたが、それよりも前にお父さんの須藤宏氏のホームページ「須藤オルガン工房」の方を知っていたと思う。

それでついつい聞いてみたかったのは「親子で物作り」だから、やはりDNAなのか、ということ。
そうすると意外や物作りに関心持ったのは大学生の時、ペンケースが欲しくなって、T急ハンズなど探してみたが、納得するものが見つけられず、それで自作したのが始まりだとか。

筆者が須藤氏のことを知ったのは、スェーデン留学記がテレビ番組で紹介されたものを見たか、ネットで「留学記」を目にしてからか、何れかであろう。
とにかく北欧家具職人の本格的修行をしている、と言うことで将来が嘱望される人物になるだろう、と勝手に思っていた。
株主になったのも氏の将来性を感じてであったが。

ところでそんな彼でも起業と言うのはそんなに楽ではなかったらしい。
ただ工房にする土地と建物を格安で借りられることになったり、色々と幸運にも恵まれて現在準備態勢が整いつつあると言う。
間もなく氏のウェッブサイトで「オープン」がアナウンスされることと思う。

せっかく来てもらったついでに、と言っては何だが、筆者の工房に併設する小さな小さなティールーム用のテーブルと椅子のデザイン・製作を頼んでみたら、意外にもすぐ引き受けてくださった。
どんなテーブルと椅子になるか楽しみである。

製作完成の暁には、株主だからと言うことではなく、IKURU DESIGNの「大和郷ショールーム」の乗りで紹介しようかと今から妄想している。

氏はなかなかこだわりの人で、カメラ(ハッセルブラッド)やジョージ・ジェンセンのジュエリー(「Georg Jensenに魅せられて」)に関しても詳しいのである。
同席した姉のペンダントを目ざとく「○○年のですよね。」と見定められた。

須藤さん、これからもよろしくお願いします。

2010年11月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月28日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:6-22
説 教 題 「伝えられた福音に立つ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(50)
ガラテヤ人への手紙(38)
・3:6-22のまとめ

※礼拝後、役員会があります。

2010年11月25日木曜日

ノートPCクラッシュ!

それは突然にやってきた。

今朝いつものように電源を入れて待っていたら、
背景がブルースクリーン。
c000021a unknown Hard Error
の表示でストップ。

デスクトップの方で解決策を検索してみると、かなり重症のよう。

セーフモードでも立ち上がらず、
CD-ROMでも起動せず。

どうやらレジストリーの部分がどうのこうのということらしいが、
ハードディスク自体がいかれちゃったのかもしれない。

そうなるともう買い替え・・・と言うことか。
しかしデータを取り出せるだろうか。

筆者のノートPCは主に個人用だが、ブログアップを始め、
教会ウェッブ、ライト読書会ウェッブ、木工房活水ウェップの接続用。

中古で4年半前に買ったものだが、まだまだ大丈夫と思っていたのに。
ここら辺がデスクトップと違ってノートPCの脆弱なところなのか・・・。

あーあ困った。

今使用しているネットに繋いであるデスクトップPCはブラウザー画面が正確に反映されない。
主に文字が読めればいい程度のもの。
ブラウザー画面に色が反映されないので見逃してしまう情報がある。

と言うわけで、しばらく新規購入そして設定までプログ更新も難儀しそうだ。

2010年11月24日水曜日

氷の塊をとかす

昨日の朝日新聞朝刊、吉田秀和のコラム『音楽展望』に興味深い文章が載っていた。

「ドイツに住む知人からマティアス・キリシュネライトという人のCDが届いた。」と言う文章で始まるのだが、その暫く後このように書いている。
音楽というものは楽譜という氷の塊の中に閉じ込められた生き物で、演奏家たちは、彼らの心の熱でもってその氷をとかし、音の世界を解放し、取り出してくる仕事に一生をかける人種なのだということを、こういうCDに接すると思わずにいられなくなる。
この文章の《音楽》を《メッセージ》、《楽譜》を《聖書》、《演奏家たち》を《説教家たち》、と置き換えてみると何とも面白いではないか。
この場合《メッセージ》は《神の言葉》であり、《氷の塊》は《人間である聖書記者たちの時代や文化》とさらに読み替えてみると、吉田さんの文章は、筆者のような牧師の立場で毎週説教する者にとって増々ピーンと来るものがあるような気がする。

とは言え、「心の熱」の程度はどうかと言うと、なかなかとかすまでに行かない温度の時が多いと思う。演奏家が楽譜と格闘するほど、説教家である牧師は聖書と格闘しているか。
「音の世界を解放する」まで楽譜を読み込んでいるだろうか。

何か普段の説教との取り組みを反省させられる文章である。

「のらくら者の日記」ブログの「聖書の〈スコアリーディング〉」記事でも
聖書の<スコアリーディング>なる訓練が非常に有効であることはもうお分かりかと思います。 与えられた聖書テキストのエッセンスをいかに効率よくテーマ で括るかを鍛える訓練です。 音楽の世界のスコアリーディングを聖書の読み方に適用する訳です。 ここで重要なのは、細部の正確さに拘泥しないということ です。 むしろ<抽出>という作業に徹することです。
と言うように、「楽譜を読む」ことと「聖書を読む」こととの類比をされておられる。

実は「神学」と言う、特に理性主義で少々カチカチなった神学を、音楽のイメージや語彙から解放する試みが、ジェレミー・ベグビー(Jeremy S. Begbie)と言う若い神学者にが試んでいる。

内容までここで紹介するスペースはないが、筆者が読了した中でも、
Voicing Creations Praise: Towards a Theology of the Arts (1991)
Theology, Music and Time (2000)
編著では、
Sounding the Depths: Theology Through the Arts (2002)
Beholding the Glory: Incarnation Through the Arts (2001)
などがある。

ベグビー自身は演奏家でもある。
今年四月に持たれた「ホィートン神学会議」Jesus, Paul and the people of God: A Theological Dialogue with N. T. Wrightでは、講演者の一人として登場し、最後は司会者か会場からの要請で、即興でライトにちなんだコードを利用したピアノ演奏も披露した。

音楽やアートを、神学や説教を刺激してくれる、時には深いインスピレーションを与えてくれる、と言う意味で大事にしたいものである。

2010年11月23日火曜日

「犠牲」と「贖罪論」の問題性

今回のポストは、高橋哲哉氏らによるシンポジウムをまとめた本、

『殉教と殉国と信仰と』  高橋哲哉・菱木政晴・森一弘著  (白澤社発行・現代書館発売、1680円)

に関するポストの続きです。
参考までに既ポストのリンクを以下に:
・「教理と政治歴史的文脈」 (10月29日)
・「非キリスト者による信仰論」(11月11日)

今回は、10月29日分ポストで取り上げた「贖罪論」と「犠牲」の関係について注目します。
・高橋氏の基調講演、
・その後の三人のシンポジストの討論、
・さらに別の時期になされた同じ方々による座談
から拾い集めた標題の件に関する(高橋氏と森氏の)意見に対して、筆者の考えることを少し述べようと思います。


さて、筆者は10月29日分ポストで以下のように書きました。
《引用開始》
筆者が一番驚いたのは、

講演の冒頭、イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した同氏の主張に対して、「贖罪論はキリスト教信仰の核心だから譲れない」 との反響があったことを紹介し、「欧米の神学者の間にも批判的な議論が存在してきた。贖罪論なしに信仰が成り立たないかどうかは、もはや自明のことではな い」と反論。
と言う部分。(アンダーラインは筆者)

これはかなり踏み込んだ意見だと思う。
《引用終わり》

2009年11月23日シンポジウム当日の高橋氏の基調講演には「イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した」主張はありませんでした。
氏の基調講演は「殉教の死をたたえることが、キリスト教の信仰と本質的なところでそぐわないのではないか」と言う問題提起でした。
と言うわけで、上記の報告は、10月9日、神奈川県の川崎市総合福祉センターで行われた『殉教と殉国と信仰と』(白澤社)の出版記念講演会(カトリック横浜教区正義と平和協議会主催)での発言とある通り、シンポジウムでの討論と、それから約一年の間にあったことを踏まえての発言であったことが判りました。


さて「イエスの死」と「贖罪の犠牲」の関連の問題が特に提起されたのは、その基調講演後の「ディスカッション」においてでした。
この点筆者の最初の反応が、高橋氏の言説に正確に対応していなかったことを、お詫びします。

と言うことで、著書中「5.ディスカッション」部分から少し引用が長くなりますが、高橋氏と森氏の間での「イエスの死」と「贖罪の犠牲」に関するくだりを紹介します。
高橋:・・・キリスト教で殉教が語られるときに、イエスが十字架上で刑死したこと、これを「犠牲死」ととらえるのかどうかが問題になるのではないでしょうか。従来は、これを犠牲死と見て、見習うべきモデルとする見方が強かったのではないか。・・・しかし、このイエスの死を犠牲死ととらえる見方そのものについて、キリスト教思想の中でも議論はあったと思いますが、もっときちんと検討しなおす必要があるのではないでしょうか。
森:・・・結局、キリストの十字架を生贄とか犠牲としてとらえると、神理解が色々歪んできてしまうんです。
高橋:やはり、そう思われますか。
森:キリストの十字架を「犠牲」というかたちで説明するのは、先ほど申し上げた正義、交換の正義と言う視点が、聖アンセルムス(1033-1109)とかトマス・アクィナス(1225-1274)あたりで神学の中にどんと入ってきてしまった論理です。それがのちに主流になって今日まできてしまった。
ところが、キリストの十字架を「犠牲」としてとらえてしまうと、神の姿が歪んできてしまう。それは現代の神学者たちも指摘しているところです。・・・ちなみに、福音書をずっと読んでみても、福音書の中にキリストの十字架を「犠牲」とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません。ですから、そういう意味で、現代はもう一度、真正面から神理解、そしてキリスト教の教義理解に取り組まなければならないと思っております。
(以上、98-99ページ)
勿論、高橋氏の関心事は「犠牲」そのものではなく、「殉教」を正当化する神学的議論としての「贖罪論」での「犠牲」の役割であろう。
筆者は、中世神学のややこしい議論をフォローしきれないので、話を簡単にするが、高橋氏はここで「イエスの十字架による死」を、殉教の模範となるような意味での「犠牲」と取っているようである。つまり「自己犠牲」と言うことになる。

これに対し森氏は「贖罪論」と「正義論(ジャスティス)」の絡まりの中で、「犠牲」が「交換の正義」で果たす役割に限定して問題視しているように思う。
そして「福音書中にはそのような議論を支持する記述はない」と断定する。

高橋氏はこのディスカッション後の『座談会』で(当日か後日かは明記されていないので不明)アンセルムスの「贖罪論」を次のようにまとめている。
高橋:トマスの影響は大きいでしょうし、贖罪論との関係でいうと、アンセルムスの『クール・デウス・ホモ 神は何故に人間となりたまいしか』・・・の存在が大きいのでしょうね。要するに、人間は神を裏切って罪を犯したことに対して償わなければいけないのだけれども、神に対する背信という罪は無限の罪であるので、人間には償う力はない。そこで神自身が人間に手を差し伸べて、それを一緒にやってくれる。神であり同時に人間であるようなイエス・キリストの死をもって、それをあがないとして、神が人間と和解する。そういう理屈だと思うんです。(以上、152ページ)
さて、中世神学議論に疎い筆者が述べられることは僅かである。
①中世からの神学的伝統の枠組みとしての「贖罪論」は森氏の言うように、ローマ法的背景(?)、あるいは「名誉を重んじる社会的背景」(?)、と深く繋がっていると思うので、アンセルムスにしても、トマス・アクィナスにしても、彼らの神学的伝統をそのまま踏襲する必然性はない。贖罪論をどう説明するか、言語、イメージが修正可能である、と言うことは言えると思う。
②しかし、「贖罪論」自体がなくともキリスト教信仰が成立する、と言う提案にはかなり抵抗がある。それは一つに、新約聖書の「贖罪」の様々な語彙や、イメージの存在を否定することに繋がらないか、と言う危惧である。
③例えば、森氏は福音書中に「罪の贖い」のような言及はない、と言い切っているようだが、

人の子は・・・多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:45、新共同訳)
これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。
(マタイ26:28、新共同訳)
 と言うように、全然ないとは言い切れないのではなかろうか。

そして新約聖書全体を見た時には、ヘブル人への手紙全体が旧約祭儀(大祭司、犠牲、大贖罪日、等特に9:12)をベースにキリストのわざが語られているし、第一ペテロも「贖い」が「キリストの尊い血」によると言っているように、「贖い」と言う語彙を否定することも、また「贖い」と「キリストの血」、即ちその死が関わっている(必ずしも磔刑とではないが)ことを否定するのは難しいと思う。

パウロだけを見ても、
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。(ローマ人への手紙4:25、新共同訳)
 キリストは・・・ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(ガラテヤ人への手紙1:4、新共同訳)
とある。
④森氏の「歪んだ神理解」の問題は、察するに「贖罪論」の一部を占める「刑罰代償死説(penal substitutionary death)」や「支払われた代価がサタンに対するものだった」のような説に対する批判であって、「キリストの贖罪の事実」そのものに対する否定とは思えないのである。
⑤筆者が最重要と思うのは、「キリストの贖罪」理解に関して、現代の神学的要請から「犠牲」や「贖罪」の意味を軽減したり、削除したりするような神学作業をするのではなく、「キリストの贖罪」を本来のユダヤ的、旧約聖書的、契約概念的背景を通して理解し、神学的議論をこれによって修正する、と言うことだと思う。

以上、著書を謹呈下さった高橋氏に謝すると共に、幾ばくかの感想を述べさせて頂いた。

一キリスト者として「現代の文脈」で「キリストの贖罪」を考える機会を提供して頂き感謝する次第である。

(※読者の皆さんには、混みいっている割りに不十分な議論にお付き合い頂きありがとうございました。)

2010年11月22日月曜日

お詫び

読者諸氏、

先土曜日は「日曜日の更新を暫くお休みします」、と言うご案内をしました。

予定では、今日ポストするつもりで用意していました。
が、諸般の事情でまたお休みしなければなりません。

暫くのあいだ、不定期での更新となるかと思います。
よろしくお願いします。

2010年11月20日土曜日

ご案内

読者の皆様、
暫くの間、日曜日のブログ更新をお休みいたします。

次回更新は、11月22日(月)の予定です。

よろしくお願いいたします。