2010年11月24日水曜日

氷の塊をとかす

昨日の朝日新聞朝刊、吉田秀和のコラム『音楽展望』に興味深い文章が載っていた。

「ドイツに住む知人からマティアス・キリシュネライトという人のCDが届いた。」と言う文章で始まるのだが、その暫く後このように書いている。
音楽というものは楽譜という氷の塊の中に閉じ込められた生き物で、演奏家たちは、彼らの心の熱でもってその氷をとかし、音の世界を解放し、取り出してくる仕事に一生をかける人種なのだということを、こういうCDに接すると思わずにいられなくなる。
この文章の《音楽》を《メッセージ》、《楽譜》を《聖書》、《演奏家たち》を《説教家たち》、と置き換えてみると何とも面白いではないか。
この場合《メッセージ》は《神の言葉》であり、《氷の塊》は《人間である聖書記者たちの時代や文化》とさらに読み替えてみると、吉田さんの文章は、筆者のような牧師の立場で毎週説教する者にとって増々ピーンと来るものがあるような気がする。

とは言え、「心の熱」の程度はどうかと言うと、なかなかとかすまでに行かない温度の時が多いと思う。演奏家が楽譜と格闘するほど、説教家である牧師は聖書と格闘しているか。
「音の世界を解放する」まで楽譜を読み込んでいるだろうか。

何か普段の説教との取り組みを反省させられる文章である。

「のらくら者の日記」ブログの「聖書の〈スコアリーディング〉」記事でも
聖書の<スコアリーディング>なる訓練が非常に有効であることはもうお分かりかと思います。 与えられた聖書テキストのエッセンスをいかに効率よくテーマ で括るかを鍛える訓練です。 音楽の世界のスコアリーディングを聖書の読み方に適用する訳です。 ここで重要なのは、細部の正確さに拘泥しないということ です。 むしろ<抽出>という作業に徹することです。
と言うように、「楽譜を読む」ことと「聖書を読む」こととの類比をされておられる。

実は「神学」と言う、特に理性主義で少々カチカチなった神学を、音楽のイメージや語彙から解放する試みが、ジェレミー・ベグビー(Jeremy S. Begbie)と言う若い神学者にが試んでいる。

内容までここで紹介するスペースはないが、筆者が読了した中でも、
Voicing Creations Praise: Towards a Theology of the Arts (1991)
Theology, Music and Time (2000)
編著では、
Sounding the Depths: Theology Through the Arts (2002)
Beholding the Glory: Incarnation Through the Arts (2001)
などがある。

ベグビー自身は演奏家でもある。
今年四月に持たれた「ホィートン神学会議」Jesus, Paul and the people of God: A Theological Dialogue with N. T. Wrightでは、講演者の一人として登場し、最後は司会者か会場からの要請で、即興でライトにちなんだコードを利用したピアノ演奏も披露した。

音楽やアートを、神学や説教を刺激してくれる、時には深いインスピレーションを与えてくれる、と言う意味で大事にしたいものである。

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