円高の恩恵(と言う軽率な言い方で申し訳ありませんが)で「現代福音主義」に関する本(英書)を数冊買い込んで読んでいる。
残念ながら、英書と言うことで「日本の福音主義」に関連することは殆どない。
よってこれらの読書が何か益があるとしたら、
①世界の福音主義キリスト教の一動向を知る
②それを日本の福音主義キリスト者である筆者が、何らかのレファレンス(参照)として用いる
ことが出来るようにする、・・・あたりではなかろうか。
読了したのは以下の2書
①Rachel Held Evans, EVOLVING IN MONKEY TOWN: HOW A GIRL WHO KNEW ALL THE ANSWERS LEARNED TO ASK THE QUESTIONS (2010, Zondervan).
②Soong-Chan Rah, THE NEXT EVANGELICALISM: FREEING THE CHURCH FROM WESTERN CULTURAL CAPTIVITY (2009, IVP Books).
①の著者は「アメリカの新世代キリスト者①」で既に紹介した。
②の著者は名前からも想像できる様に、アジア系アメリカ人である。正確に言うと、少年時家族と一緒にアメリカに移住してきた、第一世代韓国系アメリカ人、と言うことになる。
結論から言うと、これら自伝的(レイチェル・エバンス)、あるいは半ば自伝的(ソン・チャン)、な「アメリカ福音主義」の描写は、神学的・信仰的な中身の問題よりも、文化的・社会的な文脈での描写に比重がかかっている。
少なくとも筆者はその様な印象を受けた。
つまり著者のアメリカ(宗教→キリスト教→福音主義)文化との関係によって、「福音主義キリスト教」との取り組みが決定する、と言えよう。
つまり良い意味でも、悪い意味でも「客観的な」福音主義キリスト教問題にはならないのだ。
でも却ってそれが問題への鋭い切口になっている。
だから「アメリカ現代福音主義キリスト教史家」(例えばジョージ・マースデンのような)が書いたような性格の本ではない。
それぞれの自伝的背景から「現代アメリカ・キリスト教福音主義」について論じている本、と言えよう。(但し著者それぞれなりに資料となる著作や統計などを用いて客観化に努めているが。)
レイチェル・エバンスの育った「キリスト教文化」は、バイブル・ベルトに典型的な、今となっては「過ぎ去った古き良きアメリカ時代のキリスト教」である。
昨日のポストにも描いた聖書学校のように、「文化的多元主義の現代アメリカ」においては、最早サブカルチャーの一つになりつつある文化である。
この文化的な「キリスト教福音主義」から、レイチェル・エバンスは内発的な問いによって、次第にこの文化に反発し、相対化させ、現代文化に適合するよう自らの「キリスト教福音主義」信仰を再構築していったのである。
その結果得たレイチェルの立場は、脱「キリスト教国・アメリカ」と言う意味で、カウンター・カルチャー的であり、しかしアメリカの宗教的「文化の変容過程」にあっては、「新世代のキリスト者」と多くの面で共通する問題意識に立つ、やはり「文化的なキリスト教」に位置づけられる。
ソン・チャン・ラーの育った「キリスト教文化」は、レイチェル・エバンスが育った文化に対して民族的にマイノリティーな文化であり、「キリスト教福音主義」の括りでは同じ文化であっても、アメリカ社会における“人種”差別によって位置づけられたものである。
ラーの著書の副題が示唆するように、彼にとって「アメリカ・キリスト教福音主義」はマジョリティーである「西洋・白人」文化が支配する文化的なキリスト教である。
エバンスとラーは共に「キリスト教国・アメリカ」文化に対して異議申し立てをしているのだが、エバンスが異議申し立てしている「キリスト教文化」は大体1960年代までに支配的であった文化で、最早全米的には支配的な文化ではない。
その意味でエバンスが脱出したキリスト教文化はかなり狭いものであったと言える。
ラーが異議申し立てしている「キリスト教文化」は1990年代までに隆盛してきた「プラグマティックなキリスト教文化」であり、アメリカ全体を抱合する「物質主義的、消費社会的、個人主義的」文化の反映としての「キリスト教文化」である。
両著者の相違は、エバンスが自分が育った「キリスト教文化」に時代的後進性を見ているのに対し、ラーの方は自分が育った「キリスト教文化」の持つマイノリティー性が却ってアメリカの将来を拓く可能性を持つ、と言う風に時代的先進性を見ていることである。
筆者としては、ラーが「西洋・白人」が支配している「キリスト教福音主義」の限界をマイノリティーであるアフロ・アメリカ人、原住民族・アメリカ人、ヒスパニック・アメリカ人、アジア系・アメリカ人らから、謙って学ぶことによって克服することを主張している点に感銘を受けた。
アメリカの「福音主義」を分析するのにこれだけ文化的に複雑な要素があるわけだが、翻って日本の「福音主義」を分析するのに、どの程度文化人類学的、社会学的視点が援用されているだろうか。
現在盛んなのは「カルト化」「牧師の権威主義」と言った病理現象的分析のようである。
つまり「教会内文化」の問題が殆どで、教会を取り巻く社会・文化との接点からの「キリスト教福音主義」分析がまだまだ少ないと言うことではないか。
現在の日本の「福音主義」が社会階層的に、ジェンダー的に、民族的に、世代的に、どのような構成になっているのか、そこからどのような問題が浮かび上がっているのか、「少子化問題」「高齢化問題」の向うにある、さらなる文化的・社会的諸問題にどれだけ目配りできるであろうか。
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