「正典」として認められた文書の数の事だろうか。
それとも「規範」としての役割の方だろうか。
大抵の場合、二つの意味は別々にではなく、一緒のものとして意識されているのではないだろうか。
正典とは、カノンとも言いいます。ものごとの基準、規範となるものという意味です。ですから、聖書正典といえば、キリスト教信仰の最高の規範になるものという意味です。教会が正典と認めているものを、まず挙げておきましょう。旧約聖書は46書、新約聖書は27書あります。プロテスタントの読者は、「旧約聖書は46書」に「あれー」と思ったことでしょう。
(本のリスト省略)「ラウダーテ」サイトの「聖書の正典」解説
ラウダーテはカトリック女子パウロ修道会のサイトです。
カトリックとプロテスタントは「旧約聖書正典」に関して異なる見解を持っているのです。
さて、今日のポストは「正典とは何ぞや」と言うような難しいことを長々書くつもりはありません。
ごく短く「えーそう何だー」と言うことを一言付言するだけにとどめたいと思います。
(長く書くだけの知識もないし、時間もない。あしからず。)
結論から言うと、「正典」の語源「カノン」は「リスト」を意味します。
ですから、「聖書正典」とは、教会が“ある目的”(『恩寵』と『救い』)のために必要とした文書のリスト、を意味します。
教父時代の教会が「リスト」として定めたものは、「聖書」だけでなく、
「信条」
「司教」
「教父」
「イコン」
「典礼」
「聖典(サクラメント)」
などがあります。
しかし、長い教会歴史の中で、特に(スコラ)神学が発展するうちに、「聖典」に数えられた聖書が、
“本来の目的”とは別に、「ものごとの規準・規範」と言う理解が進展します。
特に「真理の規準」としての「聖書聖典」と言う意味で発展します。
この「正典」理解は、さらに啓蒙主義時代を経過して増々強化されます。
その結果、「聖書」は「“正しい”教理」の源泉とみなされ、「組織神学」が支配的神学方法となっていきます。
その結果、殆どの「組織神学」書は、その序論・緒論(プロレゴメナ)に聖書論(啓示論、霊感論、権威論)を据えるようになったのです。
と言う「聖書正典」観の歴史的再構成をしてくれた書が、
William J. Abraham, Canon and Criterion in Christian Theology: From the Fathers to Feminismです。
筆者が「目からウロコ」の経験をした神学書の中でも10指に入る本です。
買って読もうと言う人はなかなかいないでしょうから、ちょっとした著者紹介と著書のミニ書評があるリンクを載せて終わりにします。
・The Ivy Bush on "William J. Abraham"
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