カトリックの神父は独身ですが、プロテスタントは妻帯が許されています。と言った表現を見受ける。
歴史的にプロテスタントはカトリックから派生したわけだが、カトリックの修道士だったマルチン・ルターが破門後妻帯するようになってから、いち早く「プロテスタント“聖職者”」は妻帯が通例になったのであろうか。筆者はその歴史的変遷については殆ど知識が無い。
なぜこんなことを書いているかと言うと、筆者は50代後半の今まで独身で通してきた。
別に選んでそうしてきたのではなく、たまたま結婚へとうまくことが運ばなかった、そしてこの年になると最早それが摂理、と受け取るようになった来た。
ただ周りを見回しても、プロテスタントで筆者の年齢で独身の牧師と言うのは殆ど皆無である。
と言うか、牧師は結婚していて一人前、と言うのが暗黙の了解のようである。
よって牧師がいい年齢まで来て独身でいることは何か良くない、好ましくないように受け取られる風潮があるようである。
ある時(今から15年以上も前)ある会合で、同席していた牧師さんから当たり前のように「ご家族は?」と聞かれ、こちらが「私は独身です」と答えたら、「えっ、」と二の句を告げないくらいびっくりされたことがある。筆者にとっては、その反応はいたく「否定的」に感じられ、「独身であること」の後ろめたさのようなものを抱えながら今日まで来たようなのである。
カトリックにおいては「神父」になることは「独身の誓い」を要する。ある種“深刻な決断”を伴う故に尊敬を持って受け取られこそすれ、「後ろめたい」態度とは無縁なものと想像する。
しかし、プロテスタントでは独身牧師の余りの数の少なさに、自らもそう思ってしまうからか、「肩身が狭く」思えてしょうがない。
(実際のところプロテスタントで40代、50代でも独身で牧師をしている方がいたら教えて欲しいものである。)
聖書的に言えば、イエスもパウロも、「神の国」のために独身を勧めた。
しかし、長老は「一人の妻の夫であり、家庭を治める」ことを条件のようにしている。
牧師は長老型ミニストリーなのだろうか。
さらに現在では、教会と言えば「クリスチャン・ファミリー」が柱で、適齢期の青年男女は結婚して「クリスチャン・ファミリー」を形成し、教会の核となることを期待されている。
故に「クリスチャン・カップル」を作ることを牧会上の最優先課題と考える牧師も少なくないであろう。
しかし、時代は男女同権、晩婚化。女性の方が段々結婚を至上視しなくなってきたため、「自分に相応しい人でなかったら、無理に結婚しなくても良い」となりつつある。
キリスト教会は男女の比率が不均衡(3対7位?)で、適齢期の女性が同信の伴侶を得るのが困難な環境は殆ど変ってないようである。
最近では個人主義も進み、ノンクリスチャンと結婚する女性も増えてきているようだが・・・。
教会が「結婚至上主義」でいる限り、現在の人口・社会動向からすると、教会内で「独身でいる」ことによる「居ずらさ、居心地の悪さ」を経験させられる「結婚適齢期男女」は増えるのではないだろうか。
一体教会は「結婚至上主義」の青年男女ミニストリーだけで良いのだろうか。
「何となく独身」でアラサー・アラフォーまで来てしまった人たちの中には、「生涯独身」を考えている人たちも少数でもいるのではないだろうか。
その方々には「結婚・クリスチャン・ファミリー」以外の積極的な人生設計はないのだろうか。
何事も比較される「キリスト教国・アメリカ」でも、この独身者問題にスポットが当たるようになったのは最近のことである。
(クリスチャンの伴侶を求める場合)生涯独身の可能性が高い、特に女性たちの悩みを拾い上げる場は、「クリスチャン・ファミリー」が理想とされるアメリカ福音派教会にはなかなか出てこなかった。ようやく最近になって、そのような悩みを抱える女性たちが自らのニーズ、主に独身女性へのミニストリーの必要を主張できるようになってきた。
セリバシー、選択による独身「クリスチャニティー・トゥデー」Choosing Celibacy. How to stop thinking of singleness as a problem.
が「キリスト者人生」の一パターンとして考えられるようになってきている。
日本の教会でもそろそろ真剣に考える時が来ているのではないか。
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