で、ブログ主と「コメンター」の方が何やら深いやり取りをやっているのを傍から眺めている。
今回は、他人様のブログのコメントから、自分のブログにやり取りを借りてきて、記事にしてしまおう、という失礼をお許しいただきたい。
問題のコメントは、
神と個人的に向かい合う事は、正にプロテスタントでよくある状況だと感じました。所謂、「我と汝」。カソリックの様に、マリア信仰も聖人も関係ないからこそ、生じている状況でしょう。そこで、追いつめられてしまう人もいますね。前半のコメントは「プロテスタント」の「神」と「自己」の間に仲介者を置かない(置かせない)、ある種結果としての孤立性、神の前に一人で立つ自立した人間の背伸びのような苦しさを表現しているように思う。
私もプロテスタントですが、特に旧約については、冷ややかに読んでいます。中東戦争以来、注視しているイスラエルとパレスティナの戦闘状況も影響していま す。旧約の詩編は、よく励ましや慰めの言葉が好んで用いられますよね。でも、それはイスラエルの民だけのもので、それを邪魔する者たちへは、実に容赦がな い。そこが引っ掛かるんです。都合の良い部分だけ利用していないか、と。
どうお考えですか?
突き詰めるとプロテスタントはこのようなところに追い込まれる可能性はある。その祖形は既にマルチン・ルターにも見られるように思う。
ただカトリックの「マリア信仰も聖人」のような“人間的仲介”がないか、と言えば、ヘブル人への手紙によれば、まさに「人であるイエス・キリスト」が大祭司として神の前に執り成す存在としておられるわけである。
しかしキリストの神性が強調されることによって、キリストの仲介者性は弱まったかもしれない。
でもプロテスタントの方のお祈りの文言に注意すると、祈りの時「誰」に呼びかけているのか少なくとも二つあるのに気付く。
①祈りの時「父なる神」を呼びかけるタイプ(こちらの方が多いと思う。)
②「主イエス様」と呼びかけるタイプ
恐らく祈っている人の意識の中では、どちらも「神様」に祈っているのだと思うが、特に②のありようは、多分にカトリックの祈りに近い「神」と「人」との間で執り成しをしてくださる「仲介者イエス」。ヘブル人の手紙の神学的な角度からは、「人なる大祭司・イエス」が透けて見えるような気がする。
筆者はプロテスタントだが、カトリックが聖母マリアや、聖人たち、を祈りの仲介者とする習慣は分からないでもない。
それは神が余りにも「超越した存在」に感じられる場合、より身近な、しかし「天にある存在」がその代わりとなってくれる、と言う願望だと理解する。
それに対して「一キリスト者からのメッセージ」のブログ主は、旧約聖書の人物(ヤコブ)たちの「神との人格的格闘」の中に「祈り」の何たるかを見ようとしているのだと、そう読ませていただいた。
コメントの後半は、詩篇の言葉を信仰者が「今に」対してどう適用するか、と言う時の問題を指摘している。
詩篇の言葉が、読む個人の「励ましや慰め」だけを抽出していないか。詩篇の作者の「敵に対する報復の願い」が時に強烈な表現でむき出しになっているのに鈍感になっていないか、と言う指摘であろう。
筆者の教会では、礼拝交読は詩篇を用いているが、順番に一篇ずつ交読している。
聖書は朗読されることが重要である。
短い断片的な箇所を切り取って交読ではなく、なるべく一遍ならその全体を交読することを心がけている。
しかしある時、コメンターが言うようなイスラエルの敵に対する激烈な表現の箇所が交読の順番に回ってきた時、礼拝に相応しいかどうか(交読は読まれるだけで、後から解説される訳ではないという前提で)と言う視点から判断して、これを回避したことがある。
このような判断は何に基準を置くか、もっと明確にする必要があるだろうが、少なくとも旧約聖書はそれ自体で「聖書の権威」がある、と言うのはキリスト教的に言って穏当ではないように思う。
キリスト教の聖書は「イエス・キリスト」に焦点を当てた上での「旧・新約聖書」全巻一体なのだと思う。
だから詩篇でも五書でも、「イエス・キリスト」の視点から「権威」として読まれるのが相応しいと思う。
その意味で、「旧約聖書」をフラットに権威として読んだり、適用したりするのは、不十分であると思う。(逆を言えば、旧約聖書の記述・文言全体を「イエス・キリスト」の視点からではなく、現代人の道徳観や正義感から難詰するのもやはり焦点を外した読み方になるのだと思う。確かに「ヨシュア記」の聖絶は理解に困難だが、ジェノサイドと同列に論じるのは聖書を正しく読み解くことにはならないと思う。)
以上まことに簡単だが、感想を述べさせていただいた。(今日のブログを更新させていただいて、ありがとう。)
0 件のコメント:
コメントを投稿