2010年11月9日火曜日

聖書通読

「聖書通読」とは、ざっと言えば聖書全体をある一定期間に読み通すことである。
一番多いパターンは、一日につき、旧約聖書を二章、新約聖書を一章読み、一年間で旧・新約聖書全体を読み終える、というもの。
場合によっては、二年かけたり、あるいは一年でとか言う期間に拘らずに、読み通すことを目指す人もいる。

「聖書通読」をするのは、
普通のクリスチャン?
立派なクリスチャン?
良い訓練を受けたクリスチャン?
聖書を読むのが好きなクリスチャン?
それとも・・・。

クリスチャンではない方がもし「聖書通読」をしているとしたら・・・。
果たしてどんな理由で「聖書通読」をしているのか聞いてみたい。

筆者が育った教会伝統では通読することを奨励されるが、現在はお互いに通読のことを話題にしたり、聖書通読表を用意したり、などと言うことはしていない。
それぞれの良識と言うか、判断に任されている、と言ったらいいか・・・。

筆者の聖書通読は、受洗した小学5年生頃から始まった。
多分年間で読み通すことは最初のうちは出来なかったと思う。
でも若いうちに聖書を何回かは通読したような記憶がある。

その後献身して、留学し聖書学校、神学校で学ぶようになった後は、さすがに聖書通読は一種の当たり前、と言うかそんなものになった。
まあこの頃になると、デボーションと言って「個人的霊的修練」の一環としてなされるようになっていた。
「聖書通読」は一応この頃から身についたと思う。

その後牧師になってからは、少し工夫をして、どのように年間で読み通すか、章数配分を変えてみたり、旧約と新約との組み合わせを変えてみたりしてみた。

新約の場合だと、マタイ福音書から始まってそのままマルコ、ルカ、ヨハネと読み進めて行く事になるのだが、何か繰り返し同じような内容を続けて読むのもつまらなく感じて、福音書の間に書簡を入れ福音書、書簡と交互になるような工夫をしたみたことがあった。

後は旧約聖書だと、一日二章のパターンに最適とされる、歴代誌下からではなく、モーセ五書から一章、預言書から一章の組み合わせにして見たりとか。

もう一つは新約聖書は一日一章だと早くに終わってしまうので、その後に代わりに詩篇を読んでみたりとか。

一番「聖書通読」に熱心だった頃は、プロテスタントでは正典外である外典(カトリックでは正典に入れられている)文書まで、通読パターンに組み入れたことがあった。

実は、昨年心身のバランスを崩して以来、一切聖書通読をしなくなった。
いや中断した、と言うべきか。
中断して一年経った頃から、少しずつ「また再開しようか」と、自らの気力と相談しながら、でも最近まで再開できずに来てしまった。

現在もまだ「新たに通読しよう」と言うほどの気力はないが、何か変った入り口から再開できないかと考えている。
それは一つに「聖書通読」はどうしても「読み通す」ことに普段の注意が行ってしまい、なかなかテキストに入り込むことが出来ず、忙しい時などは「ノルマを終える」感覚になってしまうからだった。

それでも数日前から開きだした本がある。
旧約聖書の大預言書の一つであるエゼキエル書。
別段はっきりとした理由はないが、却って縁遠いと感じる本を取り上げたのかもしれない。
先日ポストした「活水」に関係ある書であるが、それが理由ではないと思う。

預言者の見た「啓示の幻」を読んでは考えているところである。
幻のイメージの細かいところ(動物の顔とか)ではなく、なぜ「四つの方向に動く」のか。
捕囚の預言者、祭司の子であるエゼキエルにとって、今は離れてあるエルサレムの神殿(既に破壊された後かどうか?)は幻と関連してどう意識されているのか、などについて。

さてエゼキエル書をただ「読み通す」のではなく、テキストに入りながら終章に至ることが出来るのだろうか。
まだ始まったばかりなので分からない。

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