ケンタッキー・マウンテン・バイブル・インスティチュートでの一年の学びを終え、留学生奨学金を得て次に進んだのは、目標にしていたアズベリー神学校(Asbury Theological Seminary)だった。
M.Div (マスター・オブ・ディヴィニティー)と言う三年間のコースに入学したのだが、ここでも日本人学生は一人だけ。留学生もそれ程多くなかった。
一年目にマーク・アボットとルーム・メイトになった。
陽気なテキサン(テキサス州出身者)で、すぐ打ち解けることが出来た。
彼は宣教師を目指していたこともあり、他文化に対する関心が旺盛だった。
米国滞在一年を過ぎ、ようやく普段の会話や授業の聞き取りもできるようになったとは言え、英語力はまだまだだった。
それでも成績次第では、GPA(グレード・ポイント・アベレージ)と言う成績評価点が一定基準を満たすと、二年目からだったか、最終年だったかのコース選択を「集中」出来る制度があった。
神学校卒業後もドクターに進むことなど考えていなかったが、インドネシア人の一年先輩の留学生から、この制度を利用して「集中」コースに進むことを推薦された。
自分のその時の実力ではとても可能とは思わなかったが、とりあえず頑張って見ることにした。
結果そのGPAポイントに達し、「集中」コース選択が可能になった。
何となくだったが、自分の関心領域は「倫理学」と感じていた。
と言うか、宗教哲学と神学の教授である、Harold B. Kuhn師のコースを幾つか取っていたので、この先生の薫陶をもっと受けよう、と考えたのであろう。
クーン教授はアイオワ州出身のドイツ系移民(多分)の子孫で、背は低いががっしりした体格。手が大きく、指も太く、どちらかと言えば「アイオワ州」と言うこともあり、農夫の風情の人であった。
しかし、頭脳明晰、頭の回転の速さは神学校の教授たちの中でも群を抜いていた。
教えていたコースも、保守的な神学校としては先進的で、社会倫理の専門コースで筆者がリサーチテーマに選んだのは「リコンビナントDNA技術の倫理的問題」であった。
クーン教授は当時「クリスチャニティー・トゥデー」の論説委員も務めていて、現代神学思潮・動向に関し鋭い分析記事を寄稿していた。
またアメリカの「福音主義神学会」創立時代からのメンバーで、1940年代後半から、1950年代にかけて「新福音主義運動」興隆時、その輪の中にいた人物でもあった。
彼はクラスで結構ジョークを飛ばすのだが、困ったことにジョークのネタが洗練され過ぎていることが良くあった。一人でくすくす笑いながらジョークを言うのだが、聞いている生徒たちはお互いに顔を見合わせながら「何が落ちなのか」分からず、戸惑いの表情・・・と言うことがしばしばあった。
そんな中で筆者でも覚えているのは、ちょっと皮肉っぽいが、「ユニテリアンは三位一体を否定するが、一人の神を三人で礼拝している。」と言ったものだった。(正統的教会に比較して、圧倒的に会員数が少ない。つまり影響力のない神学であることを皮肉ったジョーク。)
アズベリー神学校の教授たちの中では一番のインテリであったが、単なるインテリではなく行動の人でもあった。
うっすらとした記憶であるが、よくヨーロッパに出かけては、講演や援助のような仕事も黙々と続けておられた。
福音に対する確固とした理解を持ち、福音宣証に情熱を燃やしていた方であった。その方法はあくまでも知性と良心に基づいたものであった。生半可な扇情的言辞は皆無だったと記憶している。
しかし知性偏重と言う訳でもなく、他のアズベリーの教授たちも結構そうであったが、授業開始や途中に短い賛美を挿入したりした。
それがHymn(賛美歌)だけでなく、God is so goodみたいな単純なものも良くあったっけ。
さて、筆者の卒業時進路選択に当たっては、どのドクターコースに入学申請すべきかアドヴァイスしてくれたのだが、先ずハーバード、そしてプリンストンと、筆者にとっては「高嶺の花」の校名を平然と並べられたのには正直驚いた。
ご自身がハーバードでPh.Dを取得されたので、とにかく良い学校を狙うべきだ、と言うお考えのようだった。
アズベリーでの三年間(1978-1981)は筆者の留学期間の中でも最も充実したものであった。
(※その後、学校自体は規模が大きくなり、筆者が住んだ寮なども無くなったりして、昔日の面影は大分薄くなったようだ。)
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