2012年1月29日日曜日

電柱移設

今日巣鴨聖泉キリスト教会の定時教会総会が持たれ無事すべての議案が承認議決された。

そのうちの一つが教会入り口のちょうど真ん中に立っている電柱の移設工事計画。
10年前の会堂建替えの時設計案に入っていたが、見積もり減額過程で没になった。

以来「そこにある」のに慣れてしまい、移設案は眠っていた。

しかし昨年の定期改修工事の時、担当した工務店の方が
「ここに電柱があるのは何とも景観を台無しにしている。」
「こんなとこに電柱があると運が向いてこない。」
などと言われたおかげで改めてその立っている場所のマイナス性に気付かされた。」

言われた通りまさに目の上のたんこぶのような存在だ。

以来どうしようか暫く考えて「やはり移設に着手しよう」と責任役員会に諮り、そして今日の総会で承認議決された。

東京電力による移設工事見積額は16万円余。

今年前半には工事が終了し道路入り口から見る教会(右側)と木工房活水(左側)がどんな風に見えるか楽しみだ。

2012年1月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

1月29日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 25:14-30
説 教 題 「委ねられた者たち」
説 教 者 小嶋崇 牧師


※礼拝後、定時教会総会を開きます。

2012年1月25日水曜日

改革派神学

筆者は「アルミニアン・ウェスレアン」と言う神学的伝統の流れに位置する「日本聖泉キリスト教会連合」に所属する。
別な表現を用いると「メソジスト・ホーリネス」の背景の教会・・・と説明したりする。
まっ一番有名な人は18世紀英国信仰復興運動のジョン・ウェスレーとなる。

米国留学でも最初の二校はこの立場の学校であった。
その後一年間プリンストン神学校に学んだが、ここでも、そしてそれ以降も、ついぞ「改革派神学」についてまともな勉学はしないで来てしまった。

最初の聖書学校では「TULIP(total depravity; unconditional election; limited atonement; irresistible grace; perseverance of the Saints)」に対抗する神学的立場を学んだので、改革派神学のシステムを学んだわけではない。

とにかく神学的立場としてはカルヴィニズムに対抗する後から出てきた神学的伝統に立つことを自覚しているのだが、えてして後代の者がプロテスタントの神学を学ぶ時にカトリシズムが背景にドロップアウトするような勉強をするように、筆者の改革派神学の学びもそんな感じで来てしまった。

しかしそのような教派教理的対立の構図から、「福音主義」と言うそれら二つを抱合するような神学運動に目を転ずると、如何に自派を超えた神学的立場から影響を受けているか、と言うことに気が付く。

今日はそんな感じで「改革派神学」にネットを介して接する道順(計画的ではなく、たまたまリンクして行った経緯)を紹介しよう。


少々「英語圏ブログ紹介」も兼ねるが、先ず出発点は、Ross H. McKenzieのsoli deo gloria
というブログ。
マッケンジーさんの関心は主に「科学と信仰」だが、先日神学関係の記事を投稿した。
An article I wish my Presbyterian friends would read(「長老派の友人たちが読んでくれるといいなと思う論文」)、と題された記事だが、紹介されていたのはジョン・フレームと言う改革派神学者の書いた(2003年と少し古いが)Machen's Warrior Childrenと言う論文だ。

メーチェンと言えば「根本主義対自由主義」の神学論争時代の正統派神学を代表する論客だ。
筆者の父もかなり影響を受けた人だ。

フレームはこの論文でメーチェン以降の神学論争が「対自由主義神学」と言う敵に文化的敗北を喫した後自派内で多くの論争を生み、そのために無益なエネルギーを費やしたり、マナーに欠ける論争を行ってきたりしたのではないか、とその歴史を概観する。
先ずメーチェン以後の神学的系譜を概観し、彼らの間で論争されたポイントを21点挙げている。そしてその論争を評価し、最後にどのような建徳的な神学的作業が可能かを提案して終わる。

この論文を読み通したところで筆者のブログに「改革派神学の論争点整理」みたいな題で紹介しようと思ったのだが、日本語読者には余りに特殊過ぎるかと思ってちょっともてあましていた。
それで方向性を変えて、この論文から出発して、現代改革派の代表的神学者としてジョン・フレームと言う人を紹介してみよう、と思ったのである。

まっ、ウィキペディアでもセオペディアでもいいのだが、以前「神学と倫理」で紹介した、アンドリュー・ゴッダード氏の、Theology and Ethicsを参照してみた。
ジョン・フレームの項はちゃんとあった。

フレームに関するベスト・ウェッブサイトが紹介されていた。
The Works of John Frame and Vern Poythress 
というサイトだ。
ざっと見200本以上の論文・書評がネットで公表されている。
倫理学関係もかなり多い。
また彼の著作のうち3冊がネットから入手可能となっている。
三冊目はTheology at the Moviesとなっていて神学的映画評のコレクションのようである。

出発点に戻って、マッケンジーさんが推薦しているように、ジョン・フレームさんは広い知見とバランスの取れた感覚をお持ちの方のようだ。
この方の書いたものから学ぶことは色々ありそうだと思っている。

2012年1月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

1月22日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:5-6
説 教 題 「希望、信仰、愛」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(74)
ガラテヤ人への手紙(62)
・5:2-15 キリスト者の自由と律法
(A)5:2-6 割礼と律法

2012年1月20日金曜日

エバンジェリカリズムの分析整理

敢えて標題には「福音主義」としなかったが、きょう紹介する本、


は、「福音主義」の流れ、運動に属する者たちが、その中での異なる立場をどうお互いに認識しているか、を表す本である。
と言ってもこの本は多分に「北米」福音主義者たちの間の問題である。

日本においては福音派と言えば「日本福音主義同盟(JEA)」があり「日本福音主義神学会(公式サイト)」があるが、幸か不幸か団体の設立期を除いてそれほど「福音主義のアイデンティティー」を議論するような気風は感じられない。
だから仮に「福音主義」とは何かを論じたとしても多分に「北米」の福音主義における議論の紹介に終始するだろう。

で、筆者がなぜこの本を読もうと思ったのか、と言うことだが、筆者の北米における留学の時代から既に約30年が経過し、その間「福音主義」の抱えるアイデンティティー問題の文脈も変化してきている、そのキャッチアップに資する本ではないかと思って購入した次第だ。

だからこのブログ読者にはそれほど関心がないだろうと思う。(でもちょうど読み終ったところなどで何か書いてみようと思ったのだ。)

さて現在の北米福音主義の色分けとして四つの立場:
①ファンダメンダリズム、
②コンフェッショナル(教理重視)・福音主義、
③ジェネリック(用語本来の意味での)・福音主義、
④ポストコンサバティブ(従来の保守的立場から進んだ)・福音主義、
に色分けされている。

各立場を解説する論客は順に、ケビン・ボーダー、R・アルバート・モウラー・Jr、ジョン・G・スタックハウスJr、そしてロジャー・オルソン、の四氏である。

この本の面白いところは各自が自己の立場から「福音主義」を定義した後に、残りの三氏が「応答」するところである。
言いっぱなしではなく、討論して相互の違いを更に浮き彫りにしようとするところである。(当然共有するところはそれと指摘もするが。)

また日本と違って(日本では逆に議論がなさ過ぎて物足りなさを感じるのだが)何を論ずるのでも「レッテル貼り」や「異端視」や過激に反応して穏やかな討論、噛み合った議論が出来なくなっている傾向のある「神学上の言い合い」にならないように、これら四氏は相互に「ブラザー・○○」と呼び合ったりして努めて礼節を弁えた議論を展開しようとしている。

筆者が読んだ大雑把な感想では、ケビン・ボーダーの「ファンダメンタリズム」の立場が一番論理的に整合していて、しかし最も狭隘で厳密な「境界線」を設定する。彼の定義する「福音主義」ではない者は、即「非キリスト者」でもある。
一番「誰がインで、誰がアウト」かを嗅ぎ分ける臭覚に優れている、とも言えるかもしれない。

R・アルバート・モウラー・Jrの「コンフェッショナル・福音主義」はスピリット的に前者に似ているが、いくらか視野が広い感じがする。
でも「聖書解釈と無誤論」で紹介したように「福音主義」にとって彼がエッセンシャルと認めるものから逸脱する者には激しい論駁をする。
まっ、彼自身が論争好き、みたいな印象もあるが。(正統主義を自負しているイメージが強い。)


これら二者に対して残るジョン・G・スタックハウスJr、とロジャー・オルソンは、デイビッド・ベビントンの


 「近代英国における福音主義」で用いられている定義(神学的と言うより社会学的)、
①Crucicentrism(十字架重視)、
②Biblicism(聖書主義)、


③Conversionism(回心主義)、
④Activism(行動重視)、
を援用して、どちらかと言うと「ビッグ・テント」型な、より広く福音主義の歴史的流れから特徴付けようとしている。
オルソンに至っては北米福音主義神学会で大論争を巻き起こした「オープン神論(Open Theism)」も福音主義の中に含む扱いをしている。

後者二者はその点で前二者より、神学的に境界を設定するのではなく、社会学的な(敬虔主義やリヴァイヴァリズムなどを含めた歴史的な流れ)観点からより広く(generous orthodoxy)、よりリベラル(progressive)な印象を与える。

関心のある方により詳細関連情報:
・出版社サイトのこの本の紹介(リンク
・この本の反響やコメントを掲載したサイト(リンク

2012年1月15日日曜日

ミッションと福音宣教

最近思うことの一つに日本においてカトリックとプロテスタントの垣根が幾つかの次元で大分取れてきている。
信仰と礼拝においてスタイルや内容に結構大きい違いはあれど、「キリストを証しする」こととか「福音宣教をする」ことなどにおいてかなり親近感、協働感を持っている。
そう感じることがある。

その一つの具体例がキリスト教放送局日本FEBCにカトリックの神父様たちがそれほど違和感なく登場なさっていること。
筆者の理解が正しければプロテスタント福音派の伝道媒体として誕生し、発展してきた団体が積極的にカトリックの神父様たちをゲストに迎えるようになったのはそれほど昔のことではないと思う。

紙媒体に関してもこの傾向はある程度共有されているのではないかと推測する。
(残念ながら筆者はキリスト教界関係の新聞雑誌等を全く講読していないので良くは分からないが。)

学問(筆者の場合は神学とか聖書学の分野だが)に関して言えば、米国留学においてイエズス会神学校の教授たちにお世話になった身として幾分違和感なくカトリックの方々を受容できるようになったおかげもあるが、伝統は違えどカトリックの学者であれ、プロテスタントの学者であれ土俵は同じ・・・と言う感じはある。
特に聖書学はそうだと思う。
実際筆者が牧師になって講解説教をするようになって使ってきた註解書の中にはカトリックの学者のものが結構ある。


さて導入はそこまでにして本題に入る。

標題の「ミッションと福音宣教」について考えさせてくれる文章を暫く前ネットで発見した。
と言っても3、4年前だが・・・。
失礼ながら書いた方の名前は全然存じなかったので、文章を読み終えてから(ある感銘を受け)その方の名前を記憶にとどめるようになった。

その方とは幸田和生神父のことであるが、彼は今や東京教区補佐司教(聞いたところによると日本のカトリック教会のヒエラルキーに従えばナンバー・ツーの立場らしい)にあられる。

と余りもったいぶった表現は余り似合わなそうな平易な語り口の人だと思う。
下記に紹介する文章を読んで頂ければ分かると思うが。

筆者の目に留まった文章とは、2004年にカトリック八王子教会で持たれた「第1回多摩西宣教体の集い」のシンポジウム、『宣教とは?』での幸田神父による基調講演「宣教協力体の『宣教』とは?」である。(リンクはここ

この基調講演の中で幸田神父は幾つか興味深い指摘をしている。
①「宣教」はミッションの訳語としては適当でない。ラテン語「ミッシオ」の意味する「派遣」の意義を反映していない。
「宣教は福音宣教の略ではなく、ミッションの訳である」というところです。これは本当にわかっていただきたいことです。「宣教」では何となく狭くなってしまう。そして、皆さんご存知でしょうか。ミッションという言葉は、もともとはラテン語の「ミットー」という動詞から来ていて、「送る、遣わす」という意味の言葉です。ミッションというのは(ラテン語ではミッシオですけれども)、「派遣」という意味なんです。それがなぜか日本では「宣教」と訳される。なぜそうなのでしょうか。
中世のヨーロッパでは、村中みんなクリスチャン、国中みんなクリスチャンになっていた時代が長く続きました。そうすると、自分たちキリスト信者は、神様から派遣された者だという意識はなかなか持てなくなります。キリストを知らない、福音を知らない人たちの中に生きているんだったら、自分は神様から派遣されてこの場にいて、何か神様から大切な使命を与えられているのだと感じられるかもしれませんけど、右見ても左見てもクリスチャンばかりですから、派遣されているという意識をあまり持たなくなります。ヨーロッパの人たちが、特別に派遣されているという意識を持つようになるのは、やっぱり新大陸が発見されるからです。キリストを知らない人たちが世界中にはこんなにたくさんいるということを発見したときに、そこに出かけていってキリストの教えを伝えること、これがまさに神様の派遣だということを感じたのです。そこでたくさんの宣教師たちが出て、盛んに活躍するようになって、ヨーロッパの国々から外国に行ってキリストを知らない人たちのたくさんいる国に行ってキリストを伝える、これこそが派遣だ、これこそがミッショナリー(宣教師)だ、というそういう考えになっていくわけですね。
②アジアに位置する日本が他のアジア諸国と共有する「ミッション」に関する二つの文脈的意義:(A)キリスト信者がマイノリティーであること。(B)今も伝統的宗教が息づいていること。この二つから導き出される「ミッションのあり方」は言葉だけでは不十分。生き方が、その真正性が問われると言うこと。
アジアって広いじゃないですか。東は日本から、西はあの中近東までですよ。全部アジアなんですね。そのアジアっていう、ヨーロッパから見ればアジアかもしれませんけど、アジアの中にいる人間にとって見れば、アジアなんていうのはあまりに広すぎて、アジアという単位で集まっても共通するのものなんか出てこないんじゃないか、共通の課題とか問題なんて出てこないじゃないかって思いながら集まった。でもそうではない。アジアにおいて、やっぱり顕著な特徴は二つ。一つはですね。フィリッピンを除けば、キリスト信者が少数であるということ、これ歴然としいてます。アジアの特徴の一つは、キリスト信者がほとんどの地域で少数派=マイノリティーであるということです。それからもう一つの特徴は、伝統的な宗教が今も生きているということ。それはイスラム教であったり、ヒンズー教であったり、仏教であったり、するのですけれども、そういう伝統的な、本当にすごい宗教が今も生きている。この二つの点ですね。これはアジアの教会全体が共通に置かれている状況だ。その中で、それでは私たちのミッションは何か、ということを考えた。そのときにはっきりとした二つの線が見えてきたと言うのです。一つはわたしたちがもっと徹底的にキリストに従うこと。その生き方を持たなければいけないということ。アジアの人たちは、きれいな言葉とか、難しい神学とか、そういうことに心を動かされない。そうではなくって、生き方、ホントにキリストを信じている人の生き方が本物かどうかを見ている。だから、わたしたちが本当の意味で、キリストに忠実に従うものでなくてはならない。これが一つの線ですね。もう一つは、と同時に私達は他の宗教の人、他の民族の人と共に生きていくという道を歩まなければいけない。決して、他の宗教を排斥したり、ダメだと言ったりするんじゃなくて、その人たちと対話をし、一緒に協力し合って生きていく。そういう社会を作っていくということが私達の課題だ。この二つのことを多くの司教が語りました。
暫く前スコット・マクナイトの「王なるイエスの福音」 と言う記事を書いたが、この幸田神父の文章からプロテスタントとは違う、プロテスタントからは見えにくい「ミッション」の問題が指摘されている。そんな印象を受けている。

信徒に向かって平易に語られた講演を文章にしたものであるので関心を持たれた方はどうぞ全体をお読みください。
講演後の信徒との「質疑応答」も是非。

2012年1月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

1月15日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:2-4
説 教 題 「キリストの益」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(73)
ガラテヤ人への手紙(61)
・5:2-15 キリスト者の自由と律法
(A)5:2-6 割礼と律法