2012年1月15日日曜日

ミッションと福音宣教

最近思うことの一つに日本においてカトリックとプロテスタントの垣根が幾つかの次元で大分取れてきている。
信仰と礼拝においてスタイルや内容に結構大きい違いはあれど、「キリストを証しする」こととか「福音宣教をする」ことなどにおいてかなり親近感、協働感を持っている。
そう感じることがある。

その一つの具体例がキリスト教放送局日本FEBCにカトリックの神父様たちがそれほど違和感なく登場なさっていること。
筆者の理解が正しければプロテスタント福音派の伝道媒体として誕生し、発展してきた団体が積極的にカトリックの神父様たちをゲストに迎えるようになったのはそれほど昔のことではないと思う。

紙媒体に関してもこの傾向はある程度共有されているのではないかと推測する。
(残念ながら筆者はキリスト教界関係の新聞雑誌等を全く講読していないので良くは分からないが。)

学問(筆者の場合は神学とか聖書学の分野だが)に関して言えば、米国留学においてイエズス会神学校の教授たちにお世話になった身として幾分違和感なくカトリックの方々を受容できるようになったおかげもあるが、伝統は違えどカトリックの学者であれ、プロテスタントの学者であれ土俵は同じ・・・と言う感じはある。
特に聖書学はそうだと思う。
実際筆者が牧師になって講解説教をするようになって使ってきた註解書の中にはカトリックの学者のものが結構ある。


さて導入はそこまでにして本題に入る。

標題の「ミッションと福音宣教」について考えさせてくれる文章を暫く前ネットで発見した。
と言っても3、4年前だが・・・。
失礼ながら書いた方の名前は全然存じなかったので、文章を読み終えてから(ある感銘を受け)その方の名前を記憶にとどめるようになった。

その方とは幸田和生神父のことであるが、彼は今や東京教区補佐司教(聞いたところによると日本のカトリック教会のヒエラルキーに従えばナンバー・ツーの立場らしい)にあられる。

と余りもったいぶった表現は余り似合わなそうな平易な語り口の人だと思う。
下記に紹介する文章を読んで頂ければ分かると思うが。

筆者の目に留まった文章とは、2004年にカトリック八王子教会で持たれた「第1回多摩西宣教体の集い」のシンポジウム、『宣教とは?』での幸田神父による基調講演「宣教協力体の『宣教』とは?」である。(リンクはここ

この基調講演の中で幸田神父は幾つか興味深い指摘をしている。
①「宣教」はミッションの訳語としては適当でない。ラテン語「ミッシオ」の意味する「派遣」の意義を反映していない。
「宣教は福音宣教の略ではなく、ミッションの訳である」というところです。これは本当にわかっていただきたいことです。「宣教」では何となく狭くなってしまう。そして、皆さんご存知でしょうか。ミッションという言葉は、もともとはラテン語の「ミットー」という動詞から来ていて、「送る、遣わす」という意味の言葉です。ミッションというのは(ラテン語ではミッシオですけれども)、「派遣」という意味なんです。それがなぜか日本では「宣教」と訳される。なぜそうなのでしょうか。
中世のヨーロッパでは、村中みんなクリスチャン、国中みんなクリスチャンになっていた時代が長く続きました。そうすると、自分たちキリスト信者は、神様から派遣された者だという意識はなかなか持てなくなります。キリストを知らない、福音を知らない人たちの中に生きているんだったら、自分は神様から派遣されてこの場にいて、何か神様から大切な使命を与えられているのだと感じられるかもしれませんけど、右見ても左見てもクリスチャンばかりですから、派遣されているという意識をあまり持たなくなります。ヨーロッパの人たちが、特別に派遣されているという意識を持つようになるのは、やっぱり新大陸が発見されるからです。キリストを知らない人たちが世界中にはこんなにたくさんいるということを発見したときに、そこに出かけていってキリストの教えを伝えること、これがまさに神様の派遣だということを感じたのです。そこでたくさんの宣教師たちが出て、盛んに活躍するようになって、ヨーロッパの国々から外国に行ってキリストを知らない人たちのたくさんいる国に行ってキリストを伝える、これこそが派遣だ、これこそがミッショナリー(宣教師)だ、というそういう考えになっていくわけですね。
②アジアに位置する日本が他のアジア諸国と共有する「ミッション」に関する二つの文脈的意義:(A)キリスト信者がマイノリティーであること。(B)今も伝統的宗教が息づいていること。この二つから導き出される「ミッションのあり方」は言葉だけでは不十分。生き方が、その真正性が問われると言うこと。
アジアって広いじゃないですか。東は日本から、西はあの中近東までですよ。全部アジアなんですね。そのアジアっていう、ヨーロッパから見ればアジアかもしれませんけど、アジアの中にいる人間にとって見れば、アジアなんていうのはあまりに広すぎて、アジアという単位で集まっても共通するのものなんか出てこないんじゃないか、共通の課題とか問題なんて出てこないじゃないかって思いながら集まった。でもそうではない。アジアにおいて、やっぱり顕著な特徴は二つ。一つはですね。フィリッピンを除けば、キリスト信者が少数であるということ、これ歴然としいてます。アジアの特徴の一つは、キリスト信者がほとんどの地域で少数派=マイノリティーであるということです。それからもう一つの特徴は、伝統的な宗教が今も生きているということ。それはイスラム教であったり、ヒンズー教であったり、仏教であったり、するのですけれども、そういう伝統的な、本当にすごい宗教が今も生きている。この二つの点ですね。これはアジアの教会全体が共通に置かれている状況だ。その中で、それでは私たちのミッションは何か、ということを考えた。そのときにはっきりとした二つの線が見えてきたと言うのです。一つはわたしたちがもっと徹底的にキリストに従うこと。その生き方を持たなければいけないということ。アジアの人たちは、きれいな言葉とか、難しい神学とか、そういうことに心を動かされない。そうではなくって、生き方、ホントにキリストを信じている人の生き方が本物かどうかを見ている。だから、わたしたちが本当の意味で、キリストに忠実に従うものでなくてはならない。これが一つの線ですね。もう一つは、と同時に私達は他の宗教の人、他の民族の人と共に生きていくという道を歩まなければいけない。決して、他の宗教を排斥したり、ダメだと言ったりするんじゃなくて、その人たちと対話をし、一緒に協力し合って生きていく。そういう社会を作っていくということが私達の課題だ。この二つのことを多くの司教が語りました。
暫く前スコット・マクナイトの「王なるイエスの福音」 と言う記事を書いたが、この幸田神父の文章からプロテスタントとは違う、プロテスタントからは見えにくい「ミッション」の問題が指摘されている。そんな印象を受けている。

信徒に向かって平易に語られた講演を文章にしたものであるので関心を持たれた方はどうぞ全体をお読みください。
講演後の信徒との「質疑応答」も是非。

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