2012年1月5日木曜日

キリスト教ユーモア

久し振りにちょっと笑えるお話。(以前のはここ

カトリックの修道僧で司祭をしている二人のお話。

一人はドミニコ会修道士でもう一人はベネディクト会修道士。
二人は霊的修練をしている時にパイプを燻らしてもいいものかどうか延々と議論していた。
なかなか埒が明かないので二人がそれぞれの修道会の管区長に手紙を書いて指示を仰ぐことにした。
ドミニコ会管区長の答えは「ノー」であった。
ベネディクト会管区長の答えは「イエス」であった。

ベネディクト会士:「本当かい。一体どんな風に管区長に尋ねたんだい。」
ドミニコ会士:「いやね、私の祈りの最中にパイプをふかしてもよろしいでしょうか、と聞いてみたんだ。そしたらノーと言われた。」
ベネディクト会士:「それで理由が分かった。君は間違った質問の仕方をしたのさ。私はパイプをふかしている最中に祈りをしてもよろしいでしょうかと聞いたんだ。答えはイエスさ。」
(リンクはここ

さて、「クリスチャンと喫煙」はなかなかセンシティブな話題だ。
冗談では片付かない方々も読者の中にはおられるかもしれない。
なので蛇足だがちょっと一言。

筆者の教会伝統(メソジスト・ホーリネス)は禁酒・禁煙だが、巣鴨教会では特に明文化も暗黙の了解にもしていない。
だから「キリスト教倫理・規律」として指導することはない。(ただ教会の建物・敷地内では禁酒・禁煙を原則にしている。)

しかし喫煙に関しては《聖書的に》どうこう言うよりも、現在は医学的な見地や公衆衛生的な見地から、然るべき選択がなされるだろうと考えている。

ヨーロッパにタバコが紹介され、嗜好品としてあるいは趣味として定着して以降、著名なキリスト者や神学者がパイプあるいはタバコを愛好してきた。(バッハ、C・H・スポルジョン、カール・バルト、C・S。ルイスなど。ここを参照)

やはり時代的な背景や文化が倫理的基準に影響するものだと思う。(※倫理的相対主義を言っているのではない。)

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