さてさて、昨日は米国で「同性婚」に関する最高裁の判決が出された。
このブログの読者はキリスト教関係の方が多いだろうと思うので、しかも「福音派」と呼ばれる立場の方が多いと思われるので、戸惑ったり、気が重かったりしていることと思われる。
(※ステレオタイプに理解されると多少不本意なので断っておくと、この問題は複雑で難しい要素があり、単純に喜んだり、腹を立てたりできないものと思う。)
この「主に神学シリーズ」を始めて気になっていたことがある。
それは「女性」の神学ブログをなかなか紹介できないでいたからである。
そう言うことで今回初めて女性による「神学」ブログをシリーズに加えることがほっとしている。
地の果てまで福音を
はKinukoさんによるブログだ。
どのような方かはよく知らないのであるが、どうも翻訳をなさっているみたいだ。
かなり頻繁に更新なさっている。
そしてカバーするトピックはかなり限られている。(殆ど遊びのような記事は見当たらない。)
特にパウロ書簡(Ⅰコリント11章1-16節)の「かぶりもの」について、驚くほど丁寧に追求されている。
「主に神学」という基準からいうと、まさにこの問題を聖書解釈、歴史神学、実践神学、と多角的に検証している点が素晴らしいと思う。
さて、冒頭アメリカ最高裁判決のことを持ち出したが、「性」「ジェンダー」をめぐる考え方や態度の混乱が続いているが、日本のキリスト教会においてもこれらの一連の問題に対する対応が緊急性を帯びて迫ってくるのではないかと思う。
筆者の見たところこのブログの立場は「保守的」、いやかなりの人は「超保守的」と捉えるのではないかと思う。
しかし、読んでいくうちに気がつかれると思うが、様々な検証の上に、このような立場を選び選択しようとする態度は、反対の立場の人にも理解されるのではないかと思う。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2015年6月28日日曜日
2015年6月27日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2015年6月28日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ローマ人への手紙 7:13-8:2
説 教 題 「救いの確立と確証」
説 教 者 小嶋崇 牧師
教会史遡行(5)
「大信仰覚醒」と教会復興・・・ジョン・ウェスレー(1703-1791)
2015年6月28日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ローマ人への手紙 7:13-8:2
説 教 題 「救いの確立と確証」
説 教 者 小嶋崇 牧師
教会史遡行(5)
「大信仰覚醒」と教会復興・・・ジョン・ウェスレー(1703-1791)
ラベル:
キリスト教史、ジョン・ウェスレー,
礼拝案内
2015年6月25日木曜日
今日のツイート 2015/6/25
一瞬目を疑った。
You don't see that everyday pic.twitter.com/iajefbjjK8
— Matt Dawson (@SaintRPh) 2015, 6月 15
2015年6月24日水曜日
今日のツイート 2015/6/24
今日は言語と宗教という文化障壁についてのツイート二つ。
これはどういうことか適当に説明を付けてみよう。
鎖国の影響が強いでも書いたが、多民族国家でたとえば英語が共用語だとすると、英語運用能力に関しては個人差が激しい。
いちいち下手な人の英語を笑っていたらきりがないし、その下手さ加減のばらつきが激しいので、どこで線引きするかは難しい。
一方(ほぼ)単民族国家で、「国語」を第二外国語として暮らす方々の運用能力とネイティブのそれとを比較するのは簡単で、反応も画一化・ステレオタイプ化しやすい。
下手だと笑い、上手いと脅威を感じる。
(この部分が「鎖国の影響」でドナルド・キーンさんが指摘したことに通じる部分。)
フランスの「政教分離政策」ライシテはムスリムに対して欺瞞に満ちている、とトマ・ピケティが指摘した。
内藤教授は10年前の暴動の背景に人種差別問題があったことを当時の「フランス」人は問題視しなかった。つまり当時から「欺瞞」の構造はあったが見ようとしなかった。
その構造を、今、ピケティが指摘したからといって別に驚くようなことではない、ということだろう。
逸見教授は「フランス」と一括り(『全称命題』というのだそうだ)にやってしまうのは『全称命題』の濫用だ、と反論し、2003年時の研究の存在を提示する。
これらの問題を、まだ朝食後のぼやけた頭で咀嚼しながら考えた。
日本語学習者の私は日本語読み上げて漢字の読み方が間違ってしまうと笑い出すのはどうかと思うよ。ひどい。
そちらの英語の発音、私は笑ってないんです。
— Clara Kreft (@808Towns) 2015, 6月 23
これはどういうことか適当に説明を付けてみよう。
鎖国の影響が強いでも書いたが、多民族国家でたとえば英語が共用語だとすると、英語運用能力に関しては個人差が激しい。
いちいち下手な人の英語を笑っていたらきりがないし、その下手さ加減のばらつきが激しいので、どこで線引きするかは難しい。
一方(ほぼ)単民族国家で、「国語」を第二外国語として暮らす方々の運用能力とネイティブのそれとを比較するのは簡単で、反応も画一化・ステレオタイプ化しやすい。
下手だと笑い、上手いと脅威を感じる。
(この部分が「鎖国の影響」でドナルド・キーンさんが指摘したことに通じる部分。)
反対側の極論。政府の公式見解の上澄みだけを掬い取ればそうなるのか。「フランスでは…誰も思わなかった」と。ムスリム差別の存在が可視化されなかったなどありえない。例えばこの本は2003年。http://t.co/wapJrncQUR https://t.co/28L4G9PCpF
— Hemmi Tatsuo (@camomille0206) 2015, 6月 23
今朝の朝日に掲載された政教分離と不平等 フランスの壮大な「偽善」についての内藤教授(同志社大)のコメントに対する逸見教授(新潟大)の反論。フランスの「政教分離政策」ライシテはムスリムに対して欺瞞に満ちている、とトマ・ピケティが指摘した。
内藤教授は10年前の暴動の背景に人種差別問題があったことを当時の「フランス」人は問題視しなかった。つまり当時から「欺瞞」の構造はあったが見ようとしなかった。
その構造を、今、ピケティが指摘したからといって別に驚くようなことではない、ということだろう。
逸見教授は「フランス」と一括り(『全称命題』というのだそうだ)にやってしまうのは『全称命題』の濫用だ、と反論し、2003年時の研究の存在を提示する。
これらの問題を、まだ朝食後のぼやけた頭で咀嚼しながら考えた。
2015年6月22日月曜日
(4)断想 2015/6/22
(※《断想》と《雑想》の違いは前者の方が後者より幾分内容的にまとまりがある、という程度のものでさしたる違いはありません。その時の気分で選んでいます。あしからず。)
(1)日本福音主義神学会東部部会の公開研究会
講演・・・というよりはトークといった感じでしたね。(ノリがよくなるまで、エンジンがかかるまで、結構時間がかかった感あり。)
(断想と呼ぶだけに軽い感想しか書きませんが・・・。)
講演の要約を掲載するのは勘弁してもらって、内容的にかなり重複する論文が入手できますので、もし興味ある方はそれをご参考までにお読みください。
『少し長めの前書き、あるいは、義認論をめぐる環境の変化』
また有能な“速記録者のレポート”もあるのでそちらも是非ご参照のほど。
筆者の関心あるポイントは『義認論』なのですが、くしくも昨年の同神学会東部研究会公開講演会でも『義認論』が深く関わる「『パウロ研究』の新しい視点」を紹介していました。(これとこれ)
今回の講演は『義認論』が宗教改革において中心的な位置を占めるようになった議論の筋道を、アウグスティヌスまで遡ってまとめていました。
宗教改革(主にルター)の義認論は、(主にカルヴァンのポイントである二重予定論とともに)あいまいさの残っていたアウグスティヌス主義神学を徹底したもの、と言う見方がそれですね。
つまり宗教改革をリードしたルターとカルヴァンという二人の神学者は、急進的アウグスティヌス主義者であった、ということ。
そこから引き出されるのは、ルターは原罪論を徹底させたゆえに義認論を確立した、という解釈です。しかし、この歴史的回顧による義認論解釈は、講師のトークの趣旨からするとまだイントロにしか過ぎない。本当に話したかったのは、現代における「原罪」を語ることの難しさ、罪の意識の低さ、ということでしたね。
鈴木氏が「義認論の環境」で第三の変化として指摘している「罪の希薄化という『脱アウグスティヌス的環境』」の問題は、福音派ではそれほど意識されていないように思いますが、「神学の文化的環境」という発想とも合わせて検討する必要があると思います。
しかし、そのことの前に、あるいは同時並行でもいいですが、福音派がしなければならない神学作業は、実はスコット・マクナイトが『福音の再発見』で指摘した「救い派(ソテリアン)」の「罪の扱い」ではないかと思うのです。
ルターの「実存を脅かす罪の縛り」の自覚はどこかに行ってしまい、大衆伝道で分かりやすく「救い」を得させるために「地獄」とセットで「個人的罪」が語られ、その処理をする「福音」に矮小化、陳腐化されてきた、という指摘です。
詳論は避けますが、鈴木氏が指摘した「義認論の環境」の第二の変化である(アウグスチヌスの影響を受けていない)東方神学の救済論も興味深いものでした。
義認論との関連で言えば、マイケル・ゴーマンがまさに神化論(セオーシス)を組み入れた議論を展開している本が、Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul's Narrative Soteriology.です。
ついでにもう一点。
神学的人間論としては『原罪論』が創世記3章からスタートしているとすると、聖書の包括的ナラティブとしては『神のかたち』(創世記1章)の視点が補われる必要があると思います。(これをやっているのがライトやマクナイトとですね。)
そのようにしないと「救済論」が脈絡を失って教会論や宣教論とシームレスに繋がっていかないのではないかと思います。
この点においても「聖書の包括的ナラティブ」、端的には「創造→新創造」は組織神学の各論が孤立化することを防ぐと思います。
(1)日本福音主義神学会東部部会の公開研究会
日時:6月15日(月)14:00-17:00に行ってきました。
場所:OCC508号室
テーマ:『今、再び人間の罪について考える』
講師:鈴木浩ルーテル学院大学教授
講演・・・というよりはトークといった感じでしたね。(ノリがよくなるまで、エンジンがかかるまで、結構時間がかかった感あり。)
(断想と呼ぶだけに軽い感想しか書きませんが・・・。)
講演の要約を掲載するのは勘弁してもらって、内容的にかなり重複する論文が入手できますので、もし興味ある方はそれをご参考までにお読みください。
『少し長めの前書き、あるいは、義認論をめぐる環境の変化』
また有能な“速記録者のレポート”もあるのでそちらも是非ご参照のほど。
筆者の関心あるポイントは『義認論』なのですが、くしくも昨年の同神学会東部研究会公開講演会でも『義認論』が深く関わる「『パウロ研究』の新しい視点」を紹介していました。(これとこれ)
今回の講演は『義認論』が宗教改革において中心的な位置を占めるようになった議論の筋道を、アウグスティヌスまで遡ってまとめていました。
宗教改革(主にルター)の義認論は、(主にカルヴァンのポイントである二重予定論とともに)あいまいさの残っていたアウグスティヌス主義神学を徹底したもの、と言う見方がそれですね。
つまり宗教改革をリードしたルターとカルヴァンという二人の神学者は、急進的アウグスティヌス主義者であった、ということ。
そこから引き出されるのは、ルターは原罪論を徹底させたゆえに義認論を確立した、という解釈です。しかし、この歴史的回顧による義認論解釈は、講師のトークの趣旨からするとまだイントロにしか過ぎない。本当に話したかったのは、現代における「原罪」を語ることの難しさ、罪の意識の低さ、ということでしたね。
「ルターの信仰義認論の前提は、アウグスティヌス的人間論の断固たる再主張であった」というペリカンの命題は、「義認論の前提は原罪論であった」という意味であり、義認論の神学者ルターは、何よりもまず「原罪論の神学者」であり、「原罪論を強化した」ことが義認論の再発見の糸口であった、という意味である。心理学的用語を使えば、義認論は罪認識の深刻さを前提にしており、罪認識の深刻さに対応する教理なのである。言い換えれば、義認論は、原罪論という前提を失うと、その教理的インパクトも、そしてとりわけ、その心理的インパクトも失われるのである。・・・
義認論がその前提である原罪論を失ったこと、言い換えれば、罪認識がかつてなかったほど希薄化したこと、再度言い換えれば、「脱アウグスティヌス的環境」の中に義認論が置かれるようになったこと、それが義認論をめぐる、第三の環境の変化である。そして、それこそが、義認論にとっては、致命的な意味を持っているのである。それは、無論、義認論の再度の再解釈が要請されているということである。
鈴木氏が「義認論の環境」で第三の変化として指摘している「罪の希薄化という『脱アウグスティヌス的環境』」の問題は、福音派ではそれほど意識されていないように思いますが、「神学の文化的環境」という発想とも合わせて検討する必要があると思います。
しかし、そのことの前に、あるいは同時並行でもいいですが、福音派がしなければならない神学作業は、実はスコット・マクナイトが『福音の再発見』で指摘した「救い派(ソテリアン)」の「罪の扱い」ではないかと思うのです。
ルターの「実存を脅かす罪の縛り」の自覚はどこかに行ってしまい、大衆伝道で分かりやすく「救い」を得させるために「地獄」とセットで「個人的罪」が語られ、その処理をする「福音」に矮小化、陳腐化されてきた、という指摘です。
詳論は避けますが、鈴木氏が指摘した「義認論の環境」の第二の変化である(アウグスチヌスの影響を受けていない)東方神学の救済論も興味深いものでした。
図式的に言えば、人間が持つ根本的問題性が「罪の必然性」であるのなら、「救い」とはまずもって「罪の赦し」であるし、同様にその根本的問題性が「死の普遍性」であるとしたら、「救い」とはまずも東方の神学が「別な視角」を提供する、ということは実際そうで、筆者自身ウェスレアン・アルミニアンの流れに属しながら不勉強なので確実なことは言えないが、ウェスレーの聖化論には東方神学影響が流れていないか・・・を見てみることは必要ではないか。
ってその克服である「永遠の命」でなければならないということになる。その結果、東方神学は義認論を深めることはせず、西方神学は神化論を深めることはしなかったのである。
義認論との関連で言えば、マイケル・ゴーマンがまさに神化論(セオーシス)を組み入れた議論を展開している本が、Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul's Narrative Soteriology.です。
ついでにもう一点。
神学的人間論としては『原罪論』が創世記3章からスタートしているとすると、聖書の包括的ナラティブとしては『神のかたち』(創世記1章)の視点が補われる必要があると思います。(これをやっているのがライトやマクナイトとですね。)
そのようにしないと「救済論」が脈絡を失って教会論や宣教論とシームレスに繋がっていかないのではないかと思います。
この点においても「聖書の包括的ナラティブ」、端的には「創造→新創造」は組織神学の各論が孤立化することを防ぐと思います。
(2)「罪」の復活
ちょっと長くなりますが、ちょうど講演の趣旨と沿うものなのでメモだけしておきます。
鈴木氏の嘆きにもかかわらず、一部の世俗の知識人の中には「罪の意識の希薄化」を指摘するとともにその重要性を認め復興する試みがあるようです。いわば、アウグスチヌスの現代性を発見するもののようです。
ちょっと長くなりますが、ちょうど講演の趣旨と沿うものなのでメモだけしておきます。
鈴木氏の嘆きにもかかわらず、一部の世俗の知識人の中には「罪の意識の希薄化」を指摘するとともにその重要性を認め復興する試みがあるようです。いわば、アウグスチヌスの現代性を発見するもののようです。
デーヴィッド・ブルックス(ニューヨーク・タイムズのコラムニスト)が最近著した本がそのような例の一つのようです("David
Brooks: We Need to Start Talking about Sin and Righteousness Again", クリスチャニティー・トゥデー誌、2015年6月号)。
Brooks’s quest to fill that hollowness culminated in his latest book, The Road to Character (Random House). He pairs sketches of historical figures like Augustine and Dwight Eisenhower with analysis of our culture’s retreat from biblical notions of sin and righteousness.
さて、もう一つ例を挙げておきたいのですが、不十分になると思うのでやめておきます。
今日のツイート 2015/6/22
今回はこれにしておこう。
少女が母親に買ったばかりのノートパソコン(USBポート2個)を見せているところ。
大理石像、ギリシャ、前110年。
A girl showing her mom her new #laptop with two usb ports.
Marble statue, Greece, 110 BC.
#computerarcheology pic.twitter.com/EveLgRFMJp
— pilgrim™ (@sehnaoui) 2015, 6月 9
少女が母親に買ったばかりのノートパソコン(USBポート2個)を見せているところ。
大理石像、ギリシャ、前110年。
2015年6月20日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2015年6月21日(日) 午前10時30分
朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:9-23
説 教 題 「信仰に踏みとどまる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(18)/パウロ書簡の学び(135)
2015年6月21日(日) 午前10時30分
朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:9-23
説 教 題 「信仰に踏みとどまる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(18)/パウロ書簡の学び(135)
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