日本語学習者の私は日本語読み上げて漢字の読み方が間違ってしまうと笑い出すのはどうかと思うよ。ひどい。
そちらの英語の発音、私は笑ってないんです。
— Clara Kreft (@808Towns) 2015, 6月 23
これはどういうことか適当に説明を付けてみよう。
鎖国の影響が強いでも書いたが、多民族国家でたとえば英語が共用語だとすると、英語運用能力に関しては個人差が激しい。
いちいち下手な人の英語を笑っていたらきりがないし、その下手さ加減のばらつきが激しいので、どこで線引きするかは難しい。
一方(ほぼ)単民族国家で、「国語」を第二外国語として暮らす方々の運用能力とネイティブのそれとを比較するのは簡単で、反応も画一化・ステレオタイプ化しやすい。
下手だと笑い、上手いと脅威を感じる。
(この部分が「鎖国の影響」でドナルド・キーンさんが指摘したことに通じる部分。)
反対側の極論。政府の公式見解の上澄みだけを掬い取ればそうなるのか。「フランスでは…誰も思わなかった」と。ムスリム差別の存在が可視化されなかったなどありえない。例えばこの本は2003年。http://t.co/wapJrncQUR https://t.co/28L4G9PCpF
— Hemmi Tatsuo (@camomille0206) 2015, 6月 23
今朝の朝日に掲載された政教分離と不平等 フランスの壮大な「偽善」についての内藤教授(同志社大)のコメントに対する逸見教授(新潟大)の反論。フランスの「政教分離政策」ライシテはムスリムに対して欺瞞に満ちている、とトマ・ピケティが指摘した。
内藤教授は10年前の暴動の背景に人種差別問題があったことを当時の「フランス」人は問題視しなかった。つまり当時から「欺瞞」の構造はあったが見ようとしなかった。
その構造を、今、ピケティが指摘したからといって別に驚くようなことではない、ということだろう。
逸見教授は「フランス」と一括り(『全称命題』というのだそうだ)にやってしまうのは『全称命題』の濫用だ、と反論し、2003年時の研究の存在を提示する。
これらの問題を、まだ朝食後のぼやけた頭で咀嚼しながら考えた。
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