2011年2月18日金曜日

第二神殿期ユダヤ教

先日キリスト教世界観ネットワーク
ポストでご案内した会合が来週に迫りました。
「N.T.ライトの歴史的アプローチ―歴史の原点に戻って見直すキリスト教信仰」
と言う題で講演することになっていますが、なかなかまとまった話をするのは大変そう。
それと言うのも「聖書を理解する」と言う作業を一般のクリスチャンは「聖書を読んで理解する」と了解しているから。

まあそんなの当たり前じゃないの、と怒られてしまいそうですが、そうでもないのです。

宗教改革の聖書解釈の原則の一つに、確か「聖書は聖書で解釈する」と言うのがありました。
聖書箇所の意味はその周辺の文脈から始まって最終的には聖書全体の文脈で解釈可能と言う前提があるようです。
確かに基本的にはそうなのですが、現在の新約学ではそのような「範囲内」で研究している方はおられないでしょう。

新約聖書一つ取っても、27文書が書かれた年代は大体一世紀後半の50年くらいの間と想定されます。歴史的な文脈から言うとこの時代のパレスチナ、ギリシャ・ローマ世界が新約聖書の歴史的舞台となるわけですが、新約聖書が書かれた時代には新約聖書の解釈に光を投げかける様々な文学作品があります。
研究者たちはこれらの文学作品との思想的関連性、内容比較など様々な研究を通して、新約聖書本文の意味を斟酌しているわけです。
その中でも「第二神殿期ユダヤ教」に関わる文学作品研究が大分進みました。
・旧約聖書外典・偽典研究
・死海文書研究
・ヨセフス研究
・アレキサンドリアのフィロ研究
・ラビ文書の研究
これらの研究によって聖書本文以外の資料でイエスやパウロの時代のユダヤ教がどんなものであったかかなり分かってきたのです。

つまり何が難しいかと言うと、聖書だけを読んでいるそしてその範囲内で「イエス」や「パウロ」を理解している方々に、聖書外の「第二神殿期ユダヤ教」文書も合わせた理解を説明することなのです。
ある程度までは「新約聖書表現」は新約聖書の中だけでも理解できるのですが、以下に説明する特徴的な表現に関しては、「第二神殿期ユダヤ教」も合わせて比較検討してより輪郭のはっきりした理解が出てくる、と言えるのです。

例えば今度の講演内容にも重要な「復活」に関するユダヤ教理解は旧約聖書ではエゼキエル書(隠喩表現として)、イザヤ書、ダニエル書の言及にほぼ限られます。
しかし旧約聖書外典の「第二マカベヤ書」や「ソロモンの知恵」にはより具体的な表現として出てきます。

またイエスやパウロのユダヤ教の背景となる歴史観を表す表現として、「この世」と「後の世」(ルカ18:30)「今の悪の世」(ガラテヤ1:4)等がありますが、このような二段階的歴史観についても注意しないとギリシャ的な思想背景で解釈してしまう危険があります。
イエスと金持ちの役人の会話に出てくる「永遠の命」は無限に続くと言うようなギリシャ的な時間概念ではなく、預言者が証ししていた「来るべき世でのいのち」、つまり「この今の世」が終焉して現れるあくまでも歴史的に連続性(大変革を通過しますが)のある「世」なのです。

と言うわけで聖書だけを読んでいるであろう聴衆に「第二神殿期ユダヤ教研究」の成果を土台にした解釈を補完する時のギャップを予想して「難しいだろうなー」と予想しているわけです。

言葉だけの説明では難しいだろうから何かチャートと言うか図表のようなものでも用意しなければならないか・・・などと考えている次第です。

ああー、もう来週だ。

2 件のコメント:

  1. 先生、読書会のほうで話題にのぼっていた「第二神殿期のユダヤ教」で検索したら、真っ先にこの記事が出てきました!

    >このような二段階的歴史観についても注意しないとギリシャ的な思想背景で解釈してしまう危険があります。
    イエスと金持ちの役人の会話に出てくる「永遠の命」は無限に続くと言うようなギリシャ的な時間概念ではなく、預言者が証ししていた「来るべき世でのいのち」、つまり「この今の世」が終焉して現れるあくまでも歴史的に連続性(大変革を通過しますが)のある「世」なのです。

    なんだか頭がクラクラしますが、今まで自分が教えられてきたこと、学んできたことのうち、何をキープし、何を捨て、何を捉え直すべきなのか…、こんな作業、一人ではとうていできません。本当に、先生に出会えたことを心から感謝します。先生との出会いは、私の祈りへの神様の答えです。

    ド素人すぎて、教えようがないと思いますが、食卓の下の子犬として、一生懸命落ちてくるものをいただきます! よろしくお願いします!

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  2. はちこさん、大分昔の記事にコメントありがとうございます。

    「なんだか頭がクラクラしますが」と書いていますが確かに新しい表現・概念に出くわして、それを自分の解釈枠にすぐに取り込めない時はそう感じられることと思います。特に相手が“巨大な”塊みたいに見える場合はなおさらそうでしょう。

    ここで書いていることを少し換言すれば、テキストの表面的意味、字面の意味の下には、ナレーティブな流れがあり、テキスト理解は表面的理解を手がかりにしながらも、このナレーティブ構造を掴む事がテキスト理解の目指していることだと言えると思います。
    最近聖書のナレーティブ理解とよく言われるのは、聖書無誤論論争などでも問題とされた、聖書のテキストのある箇所を聖書全体のナレーティブから取り出して、その表面的意味を特定の創造論やら贖罪論のプルーフ・テキストに使う聖書テキストの扱い方です。
    こうなると聖書全体のナレーティブ方向を無視して特定のナレーティブに恣意的に取り込んでしまう危険がありはしないか、と言う問題ですね。

    まっ焦らずしかし忍耐しながらBig Pictureの輪郭が次第におぼろげなものからくっきりとした線が見えてきて、更にそれが聖書全体のナレーティブの焦点である「イエス・キリストの出来事」(ルカ24章)に結線して行くようにすることですね。

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