2012年2月29日水曜日

唯一の聖なる公同の教会

久保木牧師のブログ記事「これからの経済、政治、宗教」に触発されて「混乱期を迎えるキリスト教への挑戦」を書いて暫く経った。
久保木牧師はこれに応えるように、「イエス・キリストにある普遍性を求めて」と言う記事を投稿して下さったが、この記事で新たにカトリックの晴佐久神父のビデオ・クリップ(4時間位)や、小原克博氏や藤本満師の宗教多元主義や排他主義に関する論文を紹介して下さり、それらを消化するのに時間がかかり応答が遅れてしまいました。
いや消化なんて言い過ぎで、小原氏の論文などは斜め読みがやっと、論点を掴むまでには至っていませんが、せっかくの機会これ以上放っておくと旬が過ぎてしまいますので、久保木師の上掲の記事に何とか絡み付いて一文書いてみようと思います。
まあ大したことは書けないので適当にスルーしてもらって結構ですが・・・。

一番印象に残ったのは晴佐久神父がビデオ・クリップの中で黒板にも書いていたことですが、普遍的な教会は「唯一性」「聖性」「公同性」を同時に併せ持たなければならない、との指摘でした。
そしてカトリック教会はそのような教会を目指さなければならない、として現実のカトリック教会とは一応区別して捉えていたことでした。(と筆者には聞こえました。)

久保木牧師も恐らくこの考え方に触発されてのことだと思いますが、記事の中で

「聖なる公同の教会」という、キリスト教会のアイデンティティを
私たちは見直す必要があるように思います。
公同とは「カトリック」=普遍的ということです。
原理主義でなく、普遍性へのチャレンジと言えるでしょう。
既存の教皇をトップとしたカトリック教会を目指すというのでなく、
真の普遍性を求めていく教会ということです。
と書いておられます。

筆者は失礼ながら晴佐久神父の名前は伺っていたけれども、そしてその説教やビデオをチラッと位見させて頂いたことはあるけれども、正直「人気者」「受けのいいことを言う神父」のような印象で終わらせていました。

しかしこのビデオ・クリップをじっくりと見させて頂き、彼の一見能天気、自由奔放で楽観主義的な(失礼!)発言はかなりの信仰的遍歴を経て辿り着いた見地であることを知りました。
それで晴佐久神父に対する見方、そして久保木牧師が取り上げた筆者のツイッターでの発言を改めて見直すことが出来ました。

同時に久保木牧師の「わくわく感」が晴佐久神父が表出している、何て表現したら言いのだろう、一皮向けたと言うか、突き抜けたと言うか、宣教に対する熱い思いのようなものを共有しているものであることを感じました。

久保木牧師が同記事を
時代がどのように混乱しようとも
この世の闇、この世の悲しみに対応するのは
普遍性を追求していく教会以外にありえないのです。
その意味で、前回の記事の終わりのほうに書いたわくわくにつながっています。
困難な時代を迎え、
忸怩たる思いのときもあるでしょう。
しかし、イエス・キリストにある普遍性ゆえの喜び、希望に立って歩める幸いを
いつも大切にしていきたいし、それを分かち合って歩みたいと願っています。
と締めくくっていますが、「唯一の聖なる公同教会」と言うオーソドックスな教会観に基づいて困難な状況を切り拓いて行こうと言う気概を感じ「アーメン」と言わざるを得ません。

筆者がもしパウロの言葉を借りて言うならば、このような教会観の基盤となるのは、神の唯一性と御子イエス・キリストの至高の主権性ではないかと思うのです。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。(ロマ11章36節)
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(エペソ4章6節)
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。(コロサイ1章16節)
さて、久保木牧師の関心、探究心に溢れた論考を感謝します。
また“現実主義”に引っ張られやすい中年牧師を刺激してください。

2012年2月28日火曜日

キング・ジーザス

スコット・マクナイトの「キング・ジーザス・ゴスペル」のサイトが出来ました。

そちらの方に「初めての挨拶」として「キング・ジーザス」について一文書きましたのでよろしければお読みください。
初めまして

2012年2月26日日曜日

英語圏ブログ紹介⑧

今キリスト教暦では「レント」の時期を過ごしています。

筆者の教会ではそれほどキリスト教暦に従った礼拝構成をしていません。

でも最近ブログやツイッターで、キリスト教暦の「灰の水曜日」から始まる「レント」を題材にしていたり話題にしていたりするのが目立ちます。(筆者の気のせいでしょうか。)

それで今回ご紹介する「英語圏ブログ」はそのレントについての記事を投稿している、tallskinnykiwiです。
(tall skinny kiwi、と分けて読んでくださればどこの英語圏かご推察できると思います。そうですニュージーランドです。初ですね。今までの「英語圏ブログ紹介」は殆んど北米かオーストラリアだったと思います。)

40 Days of Lent
でレントに入る「モード作り」を簡単に紹介していますので、今からでもレントを取り入れたい方はご覧になってみて下さい。

2012年2月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月26日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:10-12
説 教 題 「十字架のつまずき」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(76)
ガラテヤ人への手紙(64)
・5:2-15 キリスト者の自由と律法
(B)5:7-12 割礼を宣べ伝える者

「良心主義の自己矛盾」

「小海キリスト教会牧師所感」ブログから

『小川圭治先生のこと』

良心主義の自己矛盾を解決するのは、良心自身、主体自身ではありえない。超越が、すなわちキリストにある神の恵みがその解決である漱石はそれを拒んだまま「今死んじゃあ困る。今死んじゃあ困る。」と言いながら、死んでいった。ちっぽけな道端の石ころにすぎないような私は、キリスト十字架の贖いによって、あの矛盾から救われて今、恵みのうちに生かされている不思議を思う。
漱石が代表する「日本近代知識人の『近代的自我』の問題」と「十字架の福音」との連絡が語られていて興味深い。

「十字架の福音」をどのような文脈で読み解くか、近代人の実存的問題として読むことも出来るし、一世紀ユダヤ人と異邦人の実存的問題として読むことも出来る。

後者に関しては、マイケル・バード師のレント説教『三つの十字架』(ガラテヤ書からの講解)を一聴することをお勧めする。
My Lenten Sermon-Three Crucifixions
音声ファイル(MP3)

キリスト教世界観ネットワーク2012年の集い

筆者も毎年参加している「キリスト教世界観ネットワークの集い」をこちらでも案内させて頂く。

日時:3月3 日(土曜)1時30分ー4時まで
場所:お茶の水クリスチャンセンター9階
    東京都千代田区神田駿河台2−1  
    Tel:03−3296−1001
地図:http://ochanomizu.cc/hp-2010map.php

内容:約45分の講演。その後は互いの近況報告。
費用:無料、席上の自由献金あり

原発への神学的アプローチ
ー小説家の想像力とキリスト者の予見性ー

昨年3 月の大震災の後、日本は大きく揺れ動いています。キリスト者も、多くが被災者を支援しているだけでなく、聖書を基盤にこの出来事を考える努力を続けていま す。この度は、記録文学作家であり、また信徒伝道師でもある山川暁さんをお招きし、小説家を通してみた原発問題という珍しい視点、そして原発を神学的にど うとらえるかという試みを分かち合っていただきます。

※(元サイトへのリンク

この会(ネットワーク)は正統的福音派教会、福音主義の流れに身を置きながらも、従来の思考やライフスタイルに疑問を感じたり、問題意識を感じたりしている方々が、それを安心して口に出して分かち合うことが出来るように配慮している交わりです。
集いでは時には批判も出ますが、交わりが目指しているのは「豊かな福音に根ざしたライフスタイル」を相互啓発し、励ましあうことです。

2012年2月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月19日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1-15
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:7-9
説 教 題 「あなたがたはよく走っていた」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(75)
ガラテヤ人への手紙(63)
・5:2-15 キリスト者の自由と律法
(B)5:7-12 割礼を宣べ伝える者

2012年2月16日木曜日

混乱期を迎えるキリスト教への挑戦

右側のサイドバーにある「マイ・ブログ・リスト」には日本語のブログサイトが一つも入っていないが、いつも読ませていただいているブログに久保木牧師のきらきら探訪~ゆるりと生きる~
がある。
年齢は多分筆者より二回りくらい若いと思われるが、漫画などポップ・カルチャーに通じ、ソフトな切り口の読みやすい記事が多い。
しかし時に至極“お堅い”記事も書く、硬軟両方カバーするブログとお見受けしている。

さて一番最近記事「これからの経済、政治、宗教」に、
英隆一朗神父の「危機の時代におけるキリスト教の霊性のありかた」
を紹介している。
そして久保木牧師は、特に英神父が「現下の混乱期はファシズムを招来する」、との予測に反応して《橋下現象》や《ナショナリズム台頭》に繋げてご自身の感想を書いている。

最後にこういう風に結んでいる。 
ファシズムや原理主義を超えた確かな生き方、アイデンティティを伝えていく…
そんな時代からの挑戦に
わくわくしながら、向かっていきたいと思わされています。

まあ、ともかく、上記の動画をご覧いただければと思います。
いろんなブログ上で、
活発な議論がなされていく内容の深さがあると思います。
最後の「いろんなブログ上で、活発な議論がなされていく内容の深さがあると思います。」と言う提言に触発されてこの記事を書いているのだが、確かに現状分析、特に「危機面」「大混乱期」であることを色々具体的な事例を通して解説していて面白い。

久保木牧師も反応した動画の最後20分位のところを筆者なりにかいつまんでまとめると以下のようになる。
 実体経済が退潮し金融経済(マネーゲーム)に移行している。2008年のリーマンショックで資本主義経済の親玉であるアメリカの没落がはっきりしてきた。過去の帝国の衰亡論から見ても(マクロ社会的)危機的状況は明らか。(資本主義経済は親玉がいて成り立つ。)

資本主義によって無縁(地縁・血縁・社縁)社会が促進された。(良い面でもある)自由の代償。
自殺者も年3万人超だが、無縁仏も3万人超。

自然災害も世界的に見て増加している。

社会的混乱が深刻化し、民主主義が崩壊してファシズム国家が出現することが危惧される。そうなると宗教原理主義が出てくる。日本の場合は国家神道。
ワーキングプアが増えて仕事が低賃金外国人に奪われ、自己承認の根拠となる「学歴」も「仕事」も無くなれば、「国籍」が残るだけ。ナショナリズム台頭の温床となる。

こういう危機の時代に「伝統」の復活も起こる。「宗教の時代」が来る。キリスト教も仏教も神道も脚光を浴びる時代が来る。しかし今凋落傾向にあるキリスト教がこの時代にどんな備えが出来ているだろうか、が問題。
最近の二つの「キリスト教ブーム」(明治維新、第二次大戦後)を見ても、社会の混乱期はキリスト教のチャンスだ。
高山右近やキリシタン殉教者の姿勢から学ぶことが多い。
英神父の分析と予測はそれなりのバッグ・グラウンド・リーディングがあってのことだろうが、筆者の率直な印象は「ちょっと単純化された構図かな」である。
確かに人々は混乱期に「安心立命」を願って宗教を求める傾向はあるだろう。
しかしその宗教が「既成宗教」かと言うとそうとも言えないのではないかと思う。

英神父は同動画で「スピリチュアリティ・ブームはもう過ぎた」と言っているが、ポストモダン状況での「スピリチュアリティ」志向は一過的なものではなく、ポストモダンの宗教性の側面なのではないかと思う。
キリスト教を含めた伝統的な宗教はこのポストモダン霊性と並立して生き延びるのではないかと思うが、伝統宗教のどんな要素が混乱期の人々の求めるところとなるかは宗教団体側の考えていることと一致するとは限らないと思う。
多分に自分たちが再発見される側になる可能性もあるのではないか。
自分たちの気が付いていない、あるいはそれほど重要視ししていない側面に人々が「自分たちの必要な宗教性」を発見するかもしれないのではないか。

仮に英神父の予測が当たって「宗教の時代が到来し」、「キリスト教会が再発見される時代が来た」時、キリスト教会はどんな風にこの「混乱期のキリスト教への期待」を受け止めればいいのか。

これは多分に筆者の直感的印象だが、例えば多くの福音派教会を支配していると思われる「プラグマティック」なキリスト教は余り魅力的に映らないのではないか。

やはりある種の「トランセンデンス(超越)」を希求する「祈りの宗教」が人々の心の支えになっていくのではないか、と思う。
ポストモダン的な嗜好からすると「オーセンティシティー(真心から発している、心底掛け値なしの姿や内実)」が一枚絡んでくるのではないか、と思う。

カトリックや聖公会などのハイチャーチ的立派な祈祷文が「伝統」を反映して心の拠り所となるだけではなく、新しい祈祷文や賛美が必要になってくると思う。
それらの祈祷文や賛美歌は「軽いノリ」のものでは務まらず、人々の心の深さを探って証しするような、つまり人間の霊的部分を掘り下げるようなインパクトを持つ必要があるのではないかと思う。


筆者は久保木牧師のように「わくわくしながら」この時代の挑戦を受ける余裕はない。
「キリスト教ブーム」に果敢にチャレンヂするような宣教姿勢を持つ積極性もない。
ただ時代がどう動いても「ぶれない」キリスト教を模索していきたいと思っている。

さて誰か久保木牧師の提言を受け止めて、このテーマを別のブログで掘り下げて頂ければ楽しいのだが・・・。

2012年2月15日水曜日

ライト読書会のご案内

2012年度N. T. ライト読書会予定

第一回目のご案内
日時:3月17日(土)、午前10時から
場所:巣鴨聖泉キリスト教会(アクセス情報

テーマ:今年はライト師の主な研究領域である「パウロ」と「史的イエス」から離れ、私たちの霊性にぐっと関連する「祈り」をテーマにしてみました。

論文のタイトルは、The Lord’s Prayer as a Paradigm of Christian Prayer、です。
リンクは
http://www.ntwrightpage.com/Wright_Christian_Prayer.htm
となります。

今年は去年と同じく3回読書会を持ちたいと思っています(3,7,10月)。
それでこの論文を以下の三つに区分して1年3回でカバーしたいと思います。
  • 1回目(3/17)・・・イントロと1. The Lord’s Prayer and Jesus’ Own Prayer Life
  • 2回目(多分7/21)・・・2. People of the New Exodus
  • 3回目(多分10/6)・・・3. Prayers and Paradigmsから終わりまで
以上についての問い合わせは、t.t.koji(アットマーク)gmail.comまでどうぞ。会場の準備の都合もしこの案内を見て参加希望の方はその旨ご連絡ください。

2012年2月12日日曜日

信教自由:ナイジェリア

筆者が時々「信教自由」について投稿するのは単なる興味や関心からではない。
使徒パウロに比べるのはちと恐れ多いが、彼がキリストを宣べ伝えるのは「負い目」からであると言っているように、筆者にもそのような「負い目」を感じる経験があるからである。

大分前の話になるが世界福音同盟、当時はWEFと呼んでいたが、現在のWEAの総会に出席したことがあった。
1993年のマニラでの総会であった。

その時筆者は少々おのぼりさん感覚で「世界の教会事情を若いうちに見ておこう」と思っていい意味で興味半分に参加したのであった。

日本からの参加は30数名だったが、筆者は一番若い方であったと記憶している。

ところがこの総会の前に、その時を契機に発足しようとしている『信教自由委員会』設立準備委員会が開催されると言うのだが、それに出席予定だったU牧師が出席できなくなり、急遽『君が代わりに出席して様子を見且つ日本の信教自由の状況を紹介してきてくれないか」とF牧師から頼まれたのだった。

それで一夜漬けのような勉強と言うか下調べをしてこの設立準備委員会に出席したのだった。
ところが出席してすぐとんでもないところに出席してしまったと実感した。

参加していた30名近くのメンバーたちは大きく分けて欧米先進諸国、信教自由が保障されている側と、アジアやアフリカなど特にイスラム圏の信教自由が脅かされている国々からの二つの地域からだった。
問題は深刻で且つ緊急であった。
かなり緊張感の高い雰囲気の中で討議はなされた。

日本からただ一人参加した筆者は「靖国問題」が当面の信教自由問題であることを説明しようと思っていたのだが、すぐさま諸外国の事情はもっと緊迫した劣悪な状況にあることを察知させられ押し黙るしかないな、と感じた。
むしろ日本に期待されていたのは指導的な国であることを反映させて、これら信教自由侵害を受けている国々のために自国政府に働きかけたり、擁護(アドヴォカシー)する役割だった。

イントロが長くなったが、そう言う訳で筆者は現在「信教自由」のために別に何の立場や役割にあるわけではないが、機会を捉えて少しでも発信できたらと思っているわけである。

さてナイジェリアと言う国に関して日本でも新聞等で報じられているように「ボコ・ハラム」によるテロ活動が活発化し、警察施設やキリスト教会がターゲットにされている(朝日新聞、ここここ)。

この「ボコ・ハラム」とは「西洋の教育は罪」 という意味で、指導者のモハマド・ユサフが西洋化教育に反対しているため人々がユサフの指導するグループを「ボコ・ハラム」と呼ぶようになったと言う。

ボコ・ハラムは最初からクリスチャンを攻撃対象にしていたわけではなく、もともとはイスラム教ジハドに基づく反政府・反人民武力闘争を行う「サラフィ(Salafi)運動」の流れを汲むものであるという。
最初は政府の腐敗や治安部隊の暴力性、そして南部キリスト教地域と北部イスラム教地域の経済格差に対する抗議運動であったものが次第にエスカレートし、外部のジハド運動体とネットワークを組むようになってクリスチャンに対する攻撃を始めるようになったと言う。
それは2009年ごろから始まり最近になって緊迫の度を増している。

ボコ・ハラムの狙いはこのようにクリスチャンをターゲットにしてナイジェリア南北の対立を激化させ、政情を不安定にして主導権を握ろうとしていると言う。
目下北部でクリスチャンを攻撃するのはテロリストたちだけで現地のイスラム教住民たちはこれに加わっていない。
テロリストの狙いは宗教対立による南北分裂、そして北部にシャリア法に基づくイスラム国家建設にあると言う。

以上の報告をしているゴッドフリー・ヨガラジャWEA信教自由委員会委員長は、現地のクリスチャンたちがテロリストたちの挑発に乗って暴力で報復することのないよう、また政府が北部のクリスチャン、教会をテロリストの攻撃から守るよう、世界の教会がナイジェリアの教会を覚えて祈るよう呼びかけている。

WEA-RLC Research and Analysis Report --- 1/2012
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Responding to Boko Haram's Terror in Nigeria
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February 08, 2012

2012年2月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月12日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 28:16-20
説 教 題 「聖徒として召され」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※昼食会があります。

2012年2月8日水曜日

創世記1-3章

創世記1-3章と言えばこのブログでも取り上げたことがあるように様々な「論争の宝庫」みたいな箇所でもある。

「科学」対「信仰」
「アダムの史実性」
(これはまだ取り上げていないが、最近ジョン・パイパー牧師の『マスキュリン・クリスチャニティー』論争の背景ともなる)「性差(ジェンダー)」
などなど。

その昔リン・ホワイトが「キリスト教は環境問題の元凶」としたのも創世記1章の人間観を「被造物支配」と単純に解釈したからだ。

さてかように論争の宝庫でもある創世記1-3章だが、だからこそと言うか現代の問題を読み解き、解決を示唆するインスピレーショナルな箇所であることも間違いないだろう。

福音派と環境問題

今でこそプロテスタント福音派も環境問題に正面から取り組むようになったとは言え、その歴史はまだまだ浅い。
つい数年前でも北米福音同盟の副理事長だったリチャード・シズィックの環境保護問題の取り組みは福音派の中から結構な批判を浴びていた。

筆者の見るところ福音派自身の中から環境問題に初めてスポットライトを当てたのはフランシス・シェーファーではなかろうか。
彼の、Pollution and the Death of Man. A Christian response to issues concerning ecology.(1970年)にはアペンディックスとして例のリン・ホワイトの論文も収録されている。

さて今日の投稿はこのような歴史についての感想ではなくて、今日ユダヤ教ラビの一人としてその言論が注目されている、サー・ジョナサン・サックス師の短い文章である。

A Steward Paradigm

さーっと読んでみた印象だが、まるで違和感を感じなかった。
つまり環境問題に関し、それだけキリスト教はユダヤ教と視点を共有しているからだ。
それもそのはずその視点に大きな影響を及ぼしているのはキリスト教独自の神学ではなく創世記の人間観とそれに基づく(旧約)聖書の解釈だからである。

例えば、
The honour and glory that crowns the human race is possession of the earth, which is granted as the culmination of God's creative work: "Be fruitful and multiply, fill the earth and subdue it." This notion is fortified in Psalm 115: "The heavens are the Lord's heavens, but the earth God has given to humanity." While the creation narrative clearly establishes God as Master of the Universe, it is the human being who is appointed master of the earth.
しかしサックス師はこの「支配」の解釈のニュアンスを「管理者、ケアーする者」の方向に導いていく。
Genesis chapter 1 is only one side of the complex biblical equation. It is balanced by the narrative of Genesis chapter 2, which features a second Creation narrative that focuses on humans and their place in the Garden of Eden. The first person is set in the Garden "to work it and take care of it."
この創世記1章と2章のバランスから導き出される人間観は、
We do not own nature - "The earth is the Lord's and the fullness thereof." (Psalm 24:1) We are its stewards on behalf of God, who created and owns everything. As guardians of the earth, we are duty-bound to respect its integrity.
さらにこの「統治命令」は技術的なものではなく、道徳的なものであることを創世記3章までを視野に入れて指摘する。

更にこの「統治命令」に「七日目の安息」を対置させ、過剰な労働・使役を抑制する意義を指摘する。
そして後世にこの環境を譲り渡す道徳的責務を負っていることを説いて文章を締めくくっている。
The choice is ours. If we continue to live as though God had only commanded us to subdue the earth, we must be prepared for our children to inherit a seriously degraded planet, with the future of human civilisation put into question. If we see our role as masters of the earth as a unique opportunity to truly serve and care for the planet, its creatures, and its resources, then we can reclaim our status as stewards of the world, and raise our new generations in an environment much closer to that of Eden.
もしキリスト教独自の視点を環境保護問題に持ち込むとすれば、それはイエス・キリストの十字架の死と復活による終末論的な視点からの貢献であろう。
「新しい人」、「新しい創造」、キリストにおいて被造物全体の回復への道が切り拓かれた、と言う確信に基づく環境問題との取り組みである。

2012年2月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2月5日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 13:1-20
説 教 題 「弟子に遺したもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2012年2月1日水曜日

信仰の継承

「信仰の継承」とは筆者の属する教会グループでは盛んに言われていた言葉で、ある意味自分たちのグループの「十八番」かと思っていたらさにあらず。日本の主にプロテスタント諸教会でも盛んに言われている課題のようである。

最近ツイッターでフォローしている「シノドス・ジャーナル」と言う主に若手の言論を看板にしている(らしい)ネットジャーナルに

『信仰はどのように継承されるかー創価学会にみる次世代育成』 猪瀬優里 


という本の紹介を兼ねた短い文章が載っていた。

ちょっと筆者が関心を持った部分を抜粋してみる。
本書の目的は、親から子へ、先行世代から後継世代へと教団の価値観、組織の行動様式が、そのときどきの社会状況に応じて再編されながら受け継がれていくプロセスをみることである。

あるときエホバの証人の親に育てられたが、親の信仰に疑問を抱いて離れた経験を持つ人びとに出会った。彼らの抱える事情は一人ひとり違っているが、親と教団から受けた影響に少なからず苦しみ、それをなんとかして乗り越えようとしていた。

元エホバの証人との出会いで、子どもは親の信仰を素直に受け継ぐわけではないという視点が明確になってきた。

今後は、既成仏教やキリスト教を含めた他教団の信仰継承・次世代育成のプロセスに関する知見を得たうえで、信仰の継承・次世代育成戦略という観点からの複数教団の比較を試みてみたいと考えている。
猪瀬さんはまだ若い「宗教社会学者」さんのようである。
フィールドワークとして創価学会を選んだがご自分は「信仰」については「無宗教」の様子。
信仰共同体の中にある方々が至上命題の一つのようにしているテーマを「客観的」にどう捌いて行かれるのか、今後の研究が楽しみである。

さて本著を読んだわけではないが、筆者のこのような「宗教社会学」的なフィールドワークを目にしての率直な感想は、「なるほど『信仰の継承』とは新興宗教団体の課題なのだ」と言うことである。

大雑把な比較で申し訳ないが、例えば中世カトリックにおいては社会共同体と信仰共同体は同心円で重なり、「ゆりかごから墓場まで」何十世代にも渡って信仰は受け継がれたのである。
そもそも「信仰の継承」と言うことは自覚されなかったろう。
それほど自然に受け継がれて行ったのではなかったか。

しかし日本におけるキリスト教、特にプロテスタントはそのような社会的・文化的背景を持っていない。こう言っては他のキリスト者の方々から睨まれそうだが、所詮日本におけるプロテスタント教会は「新興宗教」の一つに過ぎないのである。(現下その新興宗教性が様々な牧師不祥事問題や教会のカルト化問題の背景としてあることは否めないだろう。)

もちろん信仰とは個人的なものであり、特定の宗教団体に入るか否かはその個人の任意で為されると言う了解のもとで「信仰の継承」の問題があることは、猪瀬さんが「宗教社会学理論のなかでは、宗教選択の説明に関して、合理的選択理論が一定の影響力を持ってきた。」と言っている通りである。
「信仰の継承」問題は「信教自由・宗教選択の自由」と言う近代の前提と不可分である。

しかしそのような近代合理性がキリスト教にしても創価学会にしても十分意識されているか、と言うと実態はそのような近代的性格とはかけ離れたところに「信仰の継承」の問題がしばしば存在しているのではないか。

筆者の身近な例を取って見てもそう思われる。
例えば筆者の祖父は単に自分の子供たち、孫たちをキリスト者として生育するだけでなく、牧師・伝道者として献身することを自身の切実な信仰の課題とした。
幸か不幸か非常に宗教的な空気の濃厚な中で育った筆者は牧師になって壁にぶち当たるまでそのプレッシャーを十分自覚することはなかった。
それまでは献身という「選択」をそのような宗教的陶酔感の中で自然に受け入れてきたのであった。もちろん子供たちの中には大変な葛藤の末献身した者もいたが・・・。

さて「信仰の継承」が単に「親から子へ、先行世代から後継世代へと教団の価値観、組織の行動様式が、そのときどきの社会状況に応じて再編されながら受け継がれていくプロセス」として問われるならばそれは「宗教」と言う文化の一様式の伝統パターンを見ることで終わるのではないか。

しかし宗教団体の中に生きている者達には単に「自分たちの教団の価値観、組織の行動様式」が伝承されて行く事だけが問題なのではなく、そもそも自分たちが伝承された「信仰」を批判的に捉えた上での「信仰の継承」でなければそれは単なる伝統主義に過ぎなくなってしまい、次世代の「信仰の継承」も単なる宗教的サブカルチャーの通過儀礼に過ぎなくなってしまうのではないか、との問題意識を筆者は感じている。