久保木牧師はこれに応えるように、「イエス・キリストにある普遍性を求めて」と言う記事を投稿して下さったが、この記事で新たにカトリックの晴佐久神父のビデオ・クリップ(4時間位)や、小原克博氏や藤本満師の宗教多元主義や排他主義に関する論文を紹介して下さり、それらを消化するのに時間がかかり応答が遅れてしまいました。
いや消化なんて言い過ぎで、小原氏の論文などは斜め読みがやっと、論点を掴むまでには至っていませんが、せっかくの機会これ以上放っておくと旬が過ぎてしまいますので、久保木師の上掲の記事に何とか絡み付いて一文書いてみようと思います。
まあ大したことは書けないので適当にスルーしてもらって結構ですが・・・。
一番印象に残ったのは晴佐久神父がビデオ・クリップの中で黒板にも書いていたことですが、普遍的な教会は「唯一性」「聖性」「公同性」を同時に併せ持たなければならない、との指摘でした。
そしてカトリック教会はそのような教会を目指さなければならない、として現実のカトリック教会とは一応区別して捉えていたことでした。(と筆者には聞こえました。)
久保木牧師も恐らくこの考え方に触発されてのことだと思いますが、記事の中で
「聖なる公同の教会」という、キリスト教会のアイデンティティを私たちは見直す必要があるように思います。公同とは「カトリック」=普遍的ということです。原理主義でなく、普遍性へのチャレンジと言えるでしょう。既存の教皇をトップとしたカトリック教会を目指すというのでなく、真の普遍性を求めていく教会ということです。
と書いておられます。
筆者は失礼ながら晴佐久神父の名前は伺っていたけれども、そしてその説教やビデオをチラッと位見させて頂いたことはあるけれども、正直「人気者」「受けのいいことを言う神父」のような印象で終わらせていました。
しかしこのビデオ・クリップをじっくりと見させて頂き、彼の一見能天気、自由奔放で楽観主義的な(失礼!)発言はかなりの信仰的遍歴を経て辿り着いた見地であることを知りました。
それで晴佐久神父に対する見方、そして久保木牧師が取り上げた筆者のツイッターでの発言を改めて見直すことが出来ました。
同時に久保木牧師の「わくわく感」が晴佐久神父が表出している、何て表現したら言いのだろう、一皮向けたと言うか、突き抜けたと言うか、宣教に対する熱い思いのようなものを共有しているものであることを感じました。
久保木牧師が同記事を
と締めくくっていますが、「唯一の聖なる公同教会」と言うオーソドックスな教会観に基づいて困難な状況を切り拓いて行こうと言う気概を感じ「アーメン」と言わざるを得ません。時代がどのように混乱しようともこの世の闇、この世の悲しみに対応するのは普遍性を追求していく教会以外にありえないのです。その意味で、前回の記事の終わりのほうに書いたわくわくにつながっています。困難な時代を迎え、忸怩たる思いのときもあるでしょう。しかし、イエス・キリストにある普遍性ゆえの喜び、希望に立って歩める幸いをいつも大切にしていきたいし、それを分かち合って歩みたいと願っています。
筆者がもしパウロの言葉を借りて言うならば、このような教会観の基盤となるのは、神の唯一性と御子イエス・キリストの至高の主権性ではないかと思うのです。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。(ロマ11章36節)すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(エペソ4章6節)天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。(コロサイ1章16節)
さて、久保木牧師の関心、探究心に溢れた論考を感謝します。
また“現実主義”に引っ張られやすい中年牧師を刺激してください。