先日当ブログでもご案内した、無教会・駒込キリスト聖書集会での講演会に行ってきた。
主宰する荒井さんとは適当に面識もあり何度かお話したこともある。
何より同じ地域で伝道する者として「福音の前進と無教会」と言う講演会のタイトルに惹かれた。
斯く言う筆者、荒井さんも含め無教会キリスト者の知人は他にもいるので、聖書に対する態度など見習わなければならない点があることは弁えていたが、ついぞ無教会の集会、と言うものには出席したことがなかった。
講演会とは言え、無教会の集会、そういう理由で興味深く出かけた。
「無」教会と言う言葉が醸し出すイメージがどうしても「教会のようなことは一切やらない」と言う感じなので、開会に当たって「普通に」賛美歌を歌い(何と「神はわがやぐら」)、祈祷をし、と言うパターンに多少面食らった。
更に「荒井さん」ではなく「荒井先生」と呼ばれていたことにも多少驚いた。
と言うのも「職制」を否定しているのだろうと思い、無教会の集会で「先生」などと呼ばれるのは特別な存在と勝手に思っていたからである。
無教会の方たちは「お勉強が好き」とは思っていたが、4人もの演者が途中一回の休憩があったとは言え、様々に語るのを主に中高年以上の聴衆がお行儀よく聞き入っているのには驚いた。
当方は椅子の上で散々姿勢を変えながら何とか4人の講演を聞き終えるのでやっとだった。
無教会の集会ではその後「感話会」と言う時間があって、質疑応答の時間を持った。
筆者は「教会」の者として何か短く発言をしてくれ、とその場で頼まれ、何の用意もなく感じたことを二三話させて頂いた。
①(無教会と言うと何かアウトサイダーのような印象だが・・・実際にはこのようには言わなかったが)無教会も同じプロテスタントの宗教改革の遺産を共有すること
②しかし聖礼典(洗礼、聖餐)に対する理解の相違は、やはりちゃんと認識し、聖書に即した理解によって意見の調整をする必要があること(筆者の頭の中には、特に無教会がこれらの礼典を象徴的なもの、外面的なものと取る以上に、必要以上にネガティブに捉える傾向があることを感じた。これは内村鑑三のどちらかと言うとニュートラルな見方よりも、悪しき儀礼主義のように捉える見方と映った。)
③今のような伝道停滞、閉塞状態の日本にあって「無教会」も「教会」も 「福音の前進」のために協力すること、思いを一つにすることが大切ではないか
以上のような趣旨の発言をした。
いやー長い振り替え休日であった。
たまたま休憩の時に建物の外に出た時、散歩中のお隣さんと顔を合わせおしゃべりをしたのだが、大和郷幼稚園の郵便ポストの上にハンカチの木の花が咲いているよ、と教えられた。
それで帰り道幼稚園を通り過ぎる時にポストの上辺りをしげしげと見つめ、何とかハンカチの木の花を確認することが出来た。
帰宅したらもう夕食となった。
と言うわけで一日経った感想なのでちょっとぼやけているかもしれない。
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