2014年7月21日月曜日

(4)これは読むべき!!

最近更新がないので「夏休み」にでも入ったかな・・・と思われた方も多いと思います。

突然復帰です。

それは左サイドバーの一番上に新しく登場した「一押し!」コーナーを兎にも角にも説明して置いた方が宜しかろう、と思って。

水村美苗『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』
一章 アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
二章 パリでの話
三章 地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々
四章 日本語という<国語>の誕生
五章 日本近代文学の奇跡
六章 インターネット時代の英語と<国語>
七章  英語教育と日本語教育

水村美苗は、多分夏目漱石の未完「明暗」を「続明暗」で“完結させた”作家として話題になったことで少し有名かもしれない。

昨日借りてきて今日読了し終えたばかりなので、少しせっかちな評価かもしれないが、一種の「必読書」だと感じている。

どんな人に対して「必読書」か、という説明を試みる前に、一章から少し引用しておく。
 私たち作家にとっては、<自分たちの言葉>が「亡びる」ということは、私たちがその担い手である<国民文学>が「亡びる」ということにほかならない。
 私たちみんながその担い手の一人である<国民文学>。
 その<国民文学>がひょっとしたら「亡び」てしまうかもしれないのを、ほかの作家たちはなんと考えているのだろう。あるとき歴史のなかで生まれた<国民文学>。その<国民文学>がすでに最盛期を迎え、これから先は「亡びる」しかないかもしれないのを他の作家たちはなんと考えているのか。これから、百年、二百年後、<国民文学>が形としては残っていても、そこに今までのような命が脈々と息づくことはないかもしれないのを・・・・・。
 かれらは、英語という言葉が<普遍語>になりつつあることの意味を、いったいなんと考えているのだろうか。
 そもそも、そんなことについて考えることがあるのだろうか。(52-3ページ)
水村が参加した世界のあちこちから集まった「作家たち」との交流の中で次第にある疑問が形成されていく。

作家と言う言葉を糧にして生きる者たちが、このような国際交流(英語を母語としない者たちがそれぞれ自国語の文学を担うと言う共通意識で接する環境)を通して持つのではないかと思われる「自覚的・先鋭的問題意識」が共有されているのかどうか・・・・・・。
 アイオワの青い空のもと、街路樹の葉が少しずつ黄ばんでいくなか、かくも熱心に、<自分たちの言葉>で書く作家たちと暮らすうちに-しかも、その作家たちが、自分も含め、「亡び」ゆく人々かもしれないと思うようになるうちに、「une literature majeure」というその言葉が、何を私に語りかけていたか、少しずつわかるようになっていった。そして、振り返るようになっていった。そして、振り返るようになるにつれ、その言葉は、その言葉を口にした人の意図を超えて、私にとって深い意味を持つようになっていった。それは、日本に日本近代文学があった奇跡を奇跡と命名する勇気を私についに与えてくれた。だが、その奇跡は、そのまま喜びに通ぜず、その奇跡を思えば思うほど、ふだんからの悪癖に近い「憂国の念」がいよいよ私の心を浸していった。
 日本近代文学が存在したという事実そのものが、今、しだいしだいに、無に帰そうとしているのかもしれない・・・・・・。(強調は筆者、56ページ)
そして日本の近代化という特殊歴史状況のもとで成立した「日本近代文学」が次第にはっきりした輪郭を持って掴み取られていく過程が始まったことを示唆している。

一読して分かると思うが、一作家の「個人的体験」に根ざしながら、言葉・文学を巡る考察を中心にした「文化・文明」論にまでなっている。

しばしば説明の要に引用されるのは、夏目漱石の時代的・文化文明的意義である。

それは文学作品だけでなく、彼が留学から帰国後東大の英文学教官の立場をラフカディオ・ハーンから継承した後に彼が到達しようとしてある意味できなかった英語と日本語のハザマから出てくる文明的役割の難しさの問題についての指摘によって浮き彫りにされている。

とても一言では要約できない、問題群が的確な用語の整理と、明晰の議論の積み重ねで、説得的にまとめられている。
なるほど書き終えるのに5年を要しただけのことはある。

いずれにしても次のような方々には一読をオススメする。

①これからの日本、特に「国際化」の問題について考える必要を覚えている人。
②ビジネスにしても何にしても、組織の指導的役割にあり、どう言う将来像のもとに戦略的実践を積み重ねるか考えている人。
③教育、特に国語と英語の教育問題を総合的に考える必要がある人。
④翻訳、特に英語からの翻訳に従事している人。
⑤少し飛躍だが、大学の一般教育、従来「教養」という概念が担っていたものとは何か、を考える必要がある人。
⑥また(ちょっと斜に構えた物言いになるが)、子供の将来にとって「英語」は必須であると強迫観念を持っている人。

などである。


とにかくこの本の中で、指摘され、分析され、議論されている事柄は長期的視野で策定するべき国家戦略に関わる重要問題であることは確かだろう。
それについて書いた人物が単なる「女性小説家」の一人であるかどうかは本質的問題ではない。(その属性についての好き嫌いの問題ではない。)

1 件のコメント:

  1. 余りにもそっけない紹介なので、少しでも本の中身を伝えてくれる「ブログ書評」を探してみる。

    これなんかどうだろう。
    http://bookjapan.jp/search/review/200812/houjo_kazuhiro_01/review.html
    分岐点は「日本語」ではなく、「文学」のほうにある。
    (引用開始)
    さて、では、懸案の日本語が「英語の世紀」の中で亡びないようにするためにはどうしたらいいのか。そのことに対する著者の断固たる主張は、もちろんここでは書かずにおきます。しかしその主張が、おそらくある人々には「なんだ、そんなことか」という凡庸さとして映り、また別の人には「そっちに飛躍するの?」という荒唐無稽さとして映るだろうということが容易に予想される、その乖離の仕方にこそ、現代の「日本語」の問題が横たわっているように思えてならないのである。
    (引用終)

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